松 阪 周 辺 ブ ラ リ

ついに楽しい旅行も最終日になってしまいました。 ホントにこの2日間はあっと言う間に過ぎ去ってしまいましたね〜。 最終日は紀伊半島の東側から名古屋に向けて北上します。 今回の旅行は ほぼ紀伊半島をグルリと廻る大遠征でしたね。 今日は松阪から津、鈴鹿を通って名古屋に参ります。

夕べはA5ランクの焼肉を食した後に、松阪の夜の街を練り歩きましたが、今日は昼間の松阪の街をブラリします。 朝一にホテルロビーで作戦会議をしていたのですが、まだ朝早いため、観光施設が 開いていないところが多かったんですよね。 なので公園として開放されている松阪城跡、それに松阪城跡のすぐそばにあった、御城番屋敷を通り、松阪神社までブラリしました。



〜 松 阪 城 跡 〜

ホテルから約10分少々で松阪城跡に到着しました。 天守も櫓も残ってないのが残念ですが、石垣などは当時のそのままが残っているみたい。 高く反り返った石垣は歴史を感じますね〜。 天守や 櫓はないですが、石垣は天守や櫓があった当時のままのようでしたので、天守があったときの光景を想像しながら散策しておりました。



松坂城は現在は松阪城とも表記される。 所在地は三重県松阪市殿町。 城跡は松坂城跡として国の史跡に指定されている。 城の縄張りは梯郭式平山城である。 松阪市の中心地の北部に位置する。  阪内川が城北を流れ天然の堀となっている。 江戸時代初期には松坂藩の藩庁となっていたが、廃藩後は御三家紀州藩の南伊勢国内17万9千石を統括するために城代が置かれた。


休館で入れなかったのですが、本丸にのぼる
途中に民俗資料館という味わいのある建物が
ありました


本丸跡に到着しました〜
当時から存在する井戸がありました。


現在は石垣のみが残っており、城址公園となっている。 周囲には松阪市役所、市民病院、当地出身の本居宣長記念館などがある。 松阪は梶井基次郎の短編小説『城のある町にて』の舞台であるため、 二の丸跡に文学碑が建てられている。 この文学碑は1974年(昭和49年)8月に建立された。 by wikipedia


「金の間櫓跡」です。


こちらは「月見櫓跡」です。

1584年(天正12年) - 近江国日野城6万石の蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ松ヶ島城に入城した。

1588年(天正16年) - 氏郷は、松ヶ島は伊勢湾に面し城下町の発展性がないと考え、現在の城地である飯高郡矢川庄の四五百森に新たに築城を開始した。 工事は領内の寺社を取り壊して転用し、 急ピッチで年内に完成させた。 城は東に大手、南に搦手を配し、外郭に深田堀及び水堀を巡らせた。 四五百森北峰に本丸を配し、その南側に二の丸が置かれた。 本丸には3重5階の天守が構えられた。  城下町建設にあたり松ヶ島住人を強制的に移住させ、旧領の近江商人を町の中心部に呼び寄せて日野町とし楽市楽座を設けた。 また、湊町に伊勢大湊の豪商角屋氏を呼び寄せ、これにより商都松阪の礎が 築かれた。

1590年(天正18年) - 氏郷は小田原征伐の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て若松城に移った。 代わって服部一忠が入城した。

1595年(文禄4年) - 服部一忠は豊臣秀次事件に連座したと豊臣秀吉より叱責され自害した。 次いで古田重勝が3万4千石で入城した。

1600年(慶長5年) - 関ヶ原の戦いの軍功により徳川家康より2万石を加増された。 重勝はこの年に死去し長子の重恒が幼少のため重勝の弟・重治が襲封した。

1619年(元和5年) - 古田氏は石見国浜田城に転封となり、南伊勢は紀州藩の藩領となった。 松阪城は当地を統括する城として城代が置かれた。 城内の天守以下の櫓や門等の建物は放置されていたため、 江戸時代前期の史料によれば、1644年(正保元年)に天守が台風のため倒壊したとされ、以後は天守台のみが残ることとなった。 1794年(寛政6年)には二の丸に紀州藩陣屋が建てられた。  以後、紀州藩領として明治維新を迎えた。

1871年(明治4年) - 廃藩置県により廃城となった。

1877年(明治10年) - 失火により二の丸御殿を焼亡した。

1881年(明治14年) - この頃までに、他の建造物も概ね破却された。 現在は殿町御城番に米倉のみが現存している。

2006年(平成18年)4月6日 - 日本100名城(48番)に選定された。

2011年(平成23年)2月7日 - 約4.7haの城跡が「近世の政治・軍事を知る上で貴重」であるとして、松坂城跡として国の史跡に指定された。 by wikipedia


残念ながら時期ではなかったのですが、
城内には広い梅林がありました。


頂上からの景色は非常に綺麗でした





〜 御 城 番 屋 敷 〜

松阪城跡の下り坂を下りますと、そこには御城番屋敷が建ち並んでいました。 地面は石畳、両脇には古めかしい情緒のある住居が風情を醸し出しています。 御城番屋敷とは、江戸時代末期の武士の住宅で 松坂御城番が居住した現存する組屋敷(長屋)遺構なんだそうです。 軒先を見ますと、表札が掛かっていましたので、きっと誰かが住んでいるのかもしれませんね。 こういう風情のある家に住んでみたい 気もしますが、観光客に覗かれたりしそうで、落ち着かないですね。 ここの御城番屋敷は観光地とはなっていますが、昔ながらの景色を堪能するところみたいで、どこか中に入ったりってことは できない模様です。



紀州藩家老田辺安藤家に紀州藩主徳川頼宣から遣わされていた与力衆の40石取り紀州藩士が、安藤家の陪臣となるよう命じられたことに抗議して、幕末の1856年(安政3年)与力衆20人が脱藩して浪人 となった(田辺与力騒動)。 脱藩から6年後、紀州藩主の直臣として帰参を許され、松坂御城番職に就いた。 1863年(文久3年)松坂城南東の三の丸に藩士とその家族の住居として新築されたのが この組屋敷である。

武士の住宅建築である組屋敷が、ほぼ当時のまま住居として継続して使用・維持管理されている。 2004年12月10日付けで「旧松坂御城番長屋」として国の重要文化財に指定されている。by wikipedia




〜 松 阪 神 社 〜

先程の御城番屋敷を通り抜けると、鳥居が建っていました。 その先を見てみると神社がありそうな雰囲気でしたので、ついでに行っときました。 上り坂を少し上ると境内に到着します。  ゆかりの人の名前を見ると、こちらも松阪城に縁のある蒲生氏郷さんが関係しているとか。 境内は木々に囲まれて非常に静かでしたね。 ここでもお参りしていきました。



先程の御城番屋敷を通り抜けると、鳥居が建っていました。 その先を見てみると神社がありそうな雰囲気でしたので、ついでに行っときました。 上り坂を少し上ると境内に到着します。  ゆかりの人の名前を見ると、こちらも松阪城に縁のある蒲生氏郷さんが関係しているとか。 境内は木々に囲まれて非常に静かでしたね。 ここでもお参りしていきました。



本殿の脇から入ったところに「本居宣長ノ宮」というお宮がありました。 なんだか「本居宣長」って聞いたことありますよ。 有名な人ですよね。 インターネットで調べてみると、次のように記されていました。

本居宣長は18世紀最大の日本古典研究家。 伊勢国松坂(三重県松阪市)の人。 木綿商の家に生まれるが、医者となる。  医業の傍ら『源氏物語』などことばや日本古典を講義し、また現存する日本最古の歴史書『古事記』を研究し、35年をかけて『古事記伝』44巻を執筆する。