高  野  山

和歌山城を後にした一行が次に向かったのが高野山です。 言わずと知れた空海上人(弘法大師)が開いた日本仏教の聖地です。 和歌山に来たら是非訪れたい地ですよね〜。  和歌山城から高野山までは、途中までは普通の道路だったのですが、途中から酷い山道に・・・ これはWRCで出てきそうな峠道です。 今日のレンタカーも安全機能が充実しており、 急ハンドル、急ブレーキなどを感知すると、すぐに「急ハンドルを検知しました。 安全運転を心がけてください」と言われちゃうんですよ。 山道に入ってからはずっと安全機能が働いていました>_<

るるぶの高野山のコーナーでは壇上伽藍、金剛峯寺、奥の院が紹介されていました。 地図を見ると、高野山の一体は色々なお寺が建ち並んでおり、全部を見るのは結構時間がかかりそうなんですよね。  実は今日はそんなに時間位余裕があるわけではないので、るるぶに従って壇上伽藍と金剛峯寺、奥の院といった有名どころ3ヵ所を見学することにしました。 更に今回、お寺だけでなく、紅葉も よかったんですよね。 標高が高いからか、モミジが赤く染まって秋を感じることもできました。


空海は、最澄(天台宗の開祖)と並び、平安仏教を開いた僧である。 著作家、書道家としても優れ、灌漑事業などを行った社会事業家、綜藝種智院を開設した教育者としての側面もある。  後世には「お大師様」として半ば伝説化・神格化され、信仰の対象ともなっており、日本の仏教、芸術、その他文化全般に与えた影響は大きい。 空海は宝亀5年(774年)、讃岐国屏風浦に生まれ、 俗姓を佐伯氏といった。 十代末から30歳頃までは修行期で、奈良の寺院で仏典の研究に励み、時に山野に分け入って修行した。 延暦23年(804年)、留学生(るがくしょう)として唐に渡航。  長安・青龍寺の恵果に密教の奥義を学び、大同元年(806年)帰国している。 空海が時の嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは弘仁7年(816年)のことであった。  空海は、高い峰に囲まれた平坦地である高野山を八葉蓮華(八枚の花弁をもつ蓮の花=曼荼羅の象徴)と見なし、山上に曼荼羅世界を現出しようとしたものである。 高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置する。 100か寺以上の寺院が密集する、日本では他に例を見ない宗教都市である。 京都の東寺と共に、 真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が修禅の道場として開創し、真言密教の聖地、また、弘法大師入定信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めている。  2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部。by wikipedia


〜 壇 上 伽 藍 〜


壇上伽藍付近に到着したのですが、駐車場が小さくて、どこ行っても満車・・・ しょうがないから壇上伽藍のそばに路上駐車をしておきました。 どうやら周りに停まっていた車もみんなそうみたい。  これだけ有名な観光地なんだからもう少し駐車場を整備してほしいものです。

壇上伽藍は一般寺院でいう本堂の区画。 国の史跡・世界遺産。 空海(弘法大師)が曼荼羅の思想に基づいて創建した密教伽藍の総称であり、高野山の二大聖地の一つである(ほかの一つは奥の院)。  金堂は高野山全体の総本堂で高野山での主な宗教行事が執り行なわれる。 ほかに大塔、御影堂、不動堂などが立ち並び、不動堂は国宝に指定されている。 また、弘法大師伝説のひとつである飛行三鈷杵が かかっていたとされる「三鈷の松」や、高野四郎(俗称)と呼ばれる大鐘楼も伽藍に存する。by wikipedia


持国天像・多聞天像・広目天像・増長天像の
四天王がまつられている「中門」といいます


高野山御開創当時、お大師さまの手により
御社に次いで最初期に建設された「講堂」


真言密教の根本道場におけるシンボルとして
建立された「根本大塔」。堂内そのものが
立体の曼荼羅になっているそうです


こちらは「准胝堂」。本尊の准胝観音は、
弘法大師が得度の儀式を行う際の本尊として
自ら造立されたと伝えられています


こちらは「孔雀堂」。後鳥羽法王の御願
による祈雨の修法を成就した功績により
宣旨を受け、本尊が奉安されました


こちらは「西塔」。大塔と西塔が大日如来の
密教世界を具体的に表現する「法界体
性塔」として二基一対として建立された


「山王院」とは地主の神を山王として礼拝
する場所の意味であり、現在の建物は文禄3年
(1594年)に再建されたものです


「六角経蔵」です。鳥羽法皇の皇后であった
美福門院が、鳥羽法皇の菩提を弔うため、
一切経を納めるために建立された経蔵



〜 綺 麗 な 景 色 〜

壇上伽藍から金剛峯寺に向かうと途中に紅葉や橋などがありまして、インスタ映えしそうな景色が多かったです。 もみじは真っ赤に染まり今が一番の見ごろではないでしょうか。



こちらは「蓮池」といいます。 湖面に橋が映りこんでいますね。 橋の周りにはモミジが良い感じに色づいていますよ。 今年初めて紅葉を見ることができました。

昭和の頃までは美しい蓮が咲き誇っていました。 この池には小さな祠がまつられています。 明和年間のこと、干ばつが度々起こり、民衆は苦しみました。  そこで明和8年(1771年)、瑞相院慈光というお方が善女竜王像と仏舎利を寄進し、蓮池の中島に小さな祠を建立しておまつりしたところ、たちまちに霊験が現れたそうです。  平成8年(1996年)には祠とともに橋が修復され、毎年10月17日には縁日としてお勤めが行われています。




壇上伽藍から金剛峰寺に向かってすぐの所にある小道で「蛇腹道」と言います。 両側にはモミジの木が植えられており、こちらも蓮池同様にすばらしい景色です。 旅行客も皆さんここで立ち止まって写真を撮っていました。

高野山はお大師さまが「東西に龍の臥せるがごとく」と形容され、壇上伽藍を頭として現在の蓮花院までを龍が臥している形に例えたのでした。  そして、ちょうどこの小道が龍のお腹付近にあたることから蛇腹路と呼ばれるようになりました。




「蛇腹道」を通り過ぎ少し歩くと、またまた紅葉の綺麗な場所を通り過ぎます。 こちらは「霊宝館」と呼ばれる場所で、高野山に伝えられている貴重な仏画・仏像などの文化遺産を保護管理し、一般にも公開する目的で開設された施設なんだそうです。  今日は中には入りませんでしたが、この入口の紅葉がとても綺麗だったので足を停めて撮影してみました。


〜 金 剛 峰 寺 〜

壇上伽藍から徒歩5分少々で金剛峯寺に到着します。 先程の壇上伽藍に比べると、地味な感じですが、その反面厳かさは増していますね。 

「金剛峯寺」という名称は、お大師さまが『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと伝えられています。  東西60m、南北約70mの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え境内総坪数48,295坪の広大さと優雅さを有しています。


金剛峰寺の入口に到着しました。
こちらも紅葉が綺麗でしたね〜


正門をくぐって境内に入ります。



金剛峯寺前駐車場より境内に入って来るとき、最初にくぐられる門を正門といい、金剛峯寺の建物の中で一番古く、文禄2年(1593年)に再建されて以来、今日まで建っています。  右のほうを見ますと小さな入り口があります。 このくぐり戸は一般の僧侶がもっぱら使用しています。 昔はこの門を正面から出入りできるのは天皇・皇族、高野山の重職だけでした。  一般参拝の方はあまり関係のない話ですが、高野山では門の出入り一つでも、厳しいルールが存在したのです。







〜 奥  ノ  院 〜

奥の院は壇上伽藍や金剛峯寺から少し離れたところにあります。 徒歩だと30分以上かかってしまいそうだったので、車で移動しました。 奥の院は壇上伽藍や金剛峯寺のように華やかな雰囲気は全くなく、 静かで森閑とした雰囲気です。 早い話が墓地なんですね。。。 でも普段よく見る墓地とは随分違いますよ。 墓石自体が長方形ではなく、石灯篭のような形をしたものが多いです。 墓石の代わりに仏像が 立っていたり、ロケットのオブジェがあったりと様々です。 今回は時間の関係で最終ゴールまではいけず、半分位までしかいけなかったのですが、エリアによって随分雰囲気も異なりましたよ。  最初に入った入口からしばらくは時代も古いものが多かったですが、最後のほうに行ったエリアでは最近建てられたものが多かったですよ。 また場所によっては昔の武将の墓所があったりもします。  何か不思議な雰囲気を醸し出している場所でした。 何か神がかっているような感じ!?


いくつか入口があったみたいですが、我々は多分「一ノ橋」というところから
入ったんだと思います。 ここが奥ノ院参拝ルートの正式ルートなんだそうです。


一ノ橋を渡り進んでいきます。 奥ノ院の最深部まではどうやら一本道で繋がっているようですが、両脇には色々な銅像や不思議な形をした墓石が並んでいます。 










この奥ノ院には有名な武将のお墓もあるんですよ。 実際にお骨が埋められているのかは分かりませんが、誰でも知っているような名武将のお墓を何個も見ることができました。

有名なお墓には番号が振られていて、どうやら音声案内などで説明などを聴くこともできるようになっていました。 番号が付いていることに途中で気づいたのですが、途中見つけられない番号もありましたね。 何でも織田信長のお墓もあるんだそうですよ。  これは見落としてしまいましたね。 でもなんで焼き討ちをした信長の墓がここにあるんでしょうねぇ。。。 歴史ミステリーだ。


こちらは徳川8代将軍の吉宗公のお墓です


武田信玄・武田勝頼のお墓


紀州徳川家7代宗将のお墓


石田光成のお墓


薩摩島津家のお墓


長州毛利家のお墓


更に奥に進んでいくと、「汗かき地蔵」「姿見の井戸」がありました。 どちらも聞いたことがある名前ですね。

汗かき地蔵は、常に人々の犯した罪に苦しみ、その苦しみを慈悲によって代わって受け、そのため汗を流しておられると言われています。 黒っぽい石材に地蔵尊が半肉彫りされていて、実際にツユが吹いて汗が流れているように見えるときがあるそうです。 

また姿見の井戸は、昔からこの姿見の井戸を覗き込んで、自分の影が映らなければ、三年以内に亡くなってしまうという恐い言い伝えがあります。


汗かき地蔵


姿見の井戸

奥ノ院を一の橋から歩いてきましたが、そろそろタイムリミットです。 後から地図を見てみたら、ゴールの弘法大師御廟まであと1/3位まで来ていた模様。 でもこれ以上行っちゃうと、夜の晩御飯の予約時間に間に合わないので、 ちょうど「中の橋」から一般道に出て車に戻ることにしました。 中の橋に来ると、今までの景色が一転して急に現代風のお墓になりましたね。 武将のお墓があったエリアは古めかしい雰囲気でしたが、随分落差が激しいですね〜^^

中の橋付近は、これまた紅葉が綺麗でした。 赤い欄干の橋や、その奥には英霊殿と書かれた建物がありました。 英霊殿は第二次世界大戦の戦死者を供養するために建立されたものだそうです。






中の橋から一般道に向かう道の両脇にもお墓?のようなものがあったのですが、結構企業名が書かれたものが多かったですね。 東証一部に上場しているような大企業も名を連ねていました。 なんでなんでしょうね。。。

その中でも特徴的だったのが、新明和工業株式会社の慰霊碑。 ロケットがそびえ立っていましたよ^^;