富 岡 製 糸 場

ついに世界遺産の富岡製糸場にやってきましたよ〜。 現地駐車場への到着時刻は8:30頃。 富岡製糸場から徒歩2〜3分圏内にコインパーキングや1日停めていくらという駐車場もありますが、我々は経費節減の折、 徒歩10分ちょい離れた市営の無料駐車場に停めることにしました。 ちょうど富岡の街を散歩しながら富岡製糸場に向かえたので丁度よかったです。 周辺は田舎の静かな街という感じで非常に好感が持てます。  都会のザワザワした街並みとはエライ違いですよ。 こういうところに住みたいですね〜。 しばらく街並みを歩きますと途中からはお土産屋さん街になります。 カリントウ饅頭とかシルク石鹸などが有名みたいで、 何軒もお店が出ていました。

お土産屋さん街を抜けると、そこにはテレビで見たことのある富岡製糸場の門やレンガ造りの建物が見えてきます。 異国情緒漂う建物ですね〜。 富岡製糸場の開店(?)時刻は9時丁度。 もう既に人の列ができています。  我々は前から数えて20番目位でしょうか。 思ったよりかは行列は少なかったです。 門に向かって左側には前売りチケットの無い人の列、右側には前売りチケットを持っている人の列。 当然前売りチケットを持っている 人のほうが、早く入れますが、今日に限っていえばそんなに変らなかったかもね〜^^

門を入りますと、そこにはレンガ造りの建物が! 個人的には人工物よりも自然の景色のほうが感動する性分なのですが、やはり世界遺産の称号がつくと、それだけでありがたいような気がしてしまいますね^^;  人間とは肩書に弱い生き物でありました>_< 工場の敷地はかなり広く、全ての見学順路を廻ると軽く2時間30分位はかかります。 当時使用されていた自動織機が展示してあったり、蚕の糸をよって絹糸を造る 実演をしたり、当時のそのままの姿を残す建物など見どころタプ〜リです。 是非皆様もいかがでしょう〜




富岡製糸場は、群馬県富岡に設立された日本初の本格的な器械製糸の工場である。 1872年(明治5年)の開業当時の繰糸所、繭倉庫などが現存している。 日本の近代化だけでなく、絹産業の技術革新・交流などにも 大きく貢献した工場であり、敷地を含む全体が国の史跡に、初期の建造物群が国宝および重要文化財に指定されている。 また、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として、2014年6月21日の第38回世界遺産委員会 で正式登録された。

時期によって「富岡製糸場」(1872年から)、「富岡製糸所」(1876年から)、「原富岡製糸所」(1902年から)、「株式会社富岡製糸所」(1938年から)、「片倉富岡製糸所」(1939年から)、 「片倉工業株式会社富岡工場」(1946年から)とたびたび名称を変更している。 史跡、国宝、重要文化財としての名称は「旧富岡製糸場」、世界遺産暫定リスト記載物件構成資産としての名称は「富岡製糸場」である。 by wikipedia


まず門を入りますと、左側にチケット売り場、右側には記念碑などが建っています。 工場内は個人で思い思いに見学することもできますが、ガイドさんがついて説明しながら廻る(有料200円だったかな)ことも できます。 我々はまたもや経費節減のおり、個人で勝手に廻ることにしました。 有料のガイドさんと廻るサービスはガイドさんと観光客が1対1ではなく、ガイドさん1人に対して観光客が10〜20人位で廻るようになっています。  ガイドさんと廻る方も結構多くいらっしゃいましたね〜。 見学するコーナーの先々でガイドさんが説明しているので、ついついガイドさんの説明が耳に入ってしまいます。 たまたま聞こえてしまったガイドさんの説明は 分かり易かったですよ。 一人200円であれば頼んでも良いと思いました。


門の左側のチケット売り場

門の右側の記念碑


こちらが工場内の見取り図です。 レンガ造りでコの字型をした工場を中心として、工員の宿舎、幹部の住居、病院などがそろっており、さながら小さな街のようになっています。 


工場内見取り図


まず最初にやってきたのが繰糸所です。 中に入りますと、富岡製糸場の歴史や周囲の土地の様子、富岡製糸場に携わった方々の説明など展示されています。 また大型スクリーンに投射されたビデオ(約20分位)で富岡製糸場の簡単な 歴史を見れるので、前提知識があまりなかった管理人でも「なるほど〜」と理解することができました。 工場内を回るときは、まずはこのビデオの閲覧をお薦めしますよ〜。 これを見るのと見ないのとでは工場見学の 理解度、有益度が違ってきます。









繰糸所あるいは繰糸工場は、富岡製糸場の中で中心的な建物である。 敷地中央南寄りに位置する東西棟の細長い建物で、木骨レンガ造、平屋建、桟瓦葺き。 平面規模は桁行140.4 m、梁間12.3 mである。 小屋組は木造の キングポストトラスである。 繰糸は手許を明るくする必要性があったことから、フランスから輸入した大きなガラス窓によって採光がなされている。 この巨大な作業場に300釜のフランス式繰糸器が設置された。  富岡製糸場に導入された器械製糸は、それ以前の揚げ返しを含まない西洋器械をそのまま導入していた事例と異なっており、1873年から1879年の間に実に全国26の製糸工場に導入された。 操業されていた器械(機械)は 時代ごとに移り変わったが、巨大な建物自体は増築などの必要性が無く、創建当初の姿が残された。





お次は昔の「倉庫」として使用されていた建物にやってきました。 倉庫は西と東に1棟づつあるそうです。 いづれも2階建て。 非常に細長い建物で、実際に中に入ってみると、見学場所から一番端が見えない位の 奥行きです。 倉庫の2階は、床や壁、窓など当時のままの姿をしていました。 2階は一部分のエリアしか見学できませんが、そのエリアには当時使用していた「台車」や「絹の袋」が展示されています。





倉庫の1階部分にはシルク製品の売り場がありましたよ。 服飾の知識が皆無の管理人には素材がどうだなどの評論はできませんが、実際に触ってみると、肌触りが非常に良いのが分かります。 でも値段高け〜〜〜>_< 

あと先程の売り場の対面には、手動で糸を紡ぐフランス式繰糸機があります。 これは展示だけなのかと思ったら、職員さんが実際に蚕の糸をお湯につけて、糸の作り方を実演してくれるんですよ。 すげ〜。 糸って こうやってできるんだ〜。 これはすごい仕組みですね。 これを考え付いた先人に敬意を表したいと思います。 この機械は手動ですが、自動の機械になっても原理は同じなんだそうですよ。 これは貴重なものを見ることができました。






東繭倉庫と西繭倉庫は、繰糸所の北側に建つ、南北棟の細長い建物であり、東置繭所、繰糸所、西置繭所の3棟が「コ」の字をなすように配置されている。 東西置繭所ともに1872年の竣工で、桁行104.4 m、梁間12.3 m、 木骨レンガ造2階建てで、屋根は切妻造、桟瓦葺きとする。 その名の通り、主に2階部分が繭置き場に使われた。 両建物とも規模形式はほぼ等しいが、東置繭所は南面と西面に、西置繭所は南面と東面に、それぞれベランダを 設ける。 また、東置繭所は正門と向き合う位置に建物内を貫通する通路を設けている。 この通路上のアーチの要石には「明治五年」の刻銘がある。 開業当初の繭は養蚕が主に春蚕のみを対象としていたため、 春蚕の繭を蓄えておく必要から建設され、2棟合わせて約32トンの繭を収容できたとされている。 2階部分が倉庫とされたのは、風通しなどへの配慮もあった。 東置繭所の1階部分は当初事務所などに、西置繭所の1階部分は 燃料となる石炭置き場に、それぞれ活用されていたが、のちにはどちらも物置などに転用され、建造当初に存在していた間仕切りなどはなくなっている。



倉庫のすぐ隣には「乾燥場」の跡がありました。。。 なぜ「跡」かといいますと、去年か一昨年の大雪の重みで建物がつぶれてしまったんだそうですよ。。。 ということでこの建物は現在復元中だそうです。 何十年も 壊れずに建っていた建物がつい数年前の大雪で壊れるって・・・ やっぱり異常気象?? この乾燥場も早期の再建が望まれているそうですが、なかなか進まないようです。 富岡製糸場の課題の1つにもなっているそうです。



倉庫を出て、更に奥に進みますと、水を溜めておくタンクなども見学できます。 この水をためておくタンクは最初は鉄製ではなかったそうなんですが、建造してすぐ水漏れをしてしまったため、途中から鉄製のタンクに 変更したんだそうです。 タンクの横に穴が開いていましたので、そこから中を撮影してみました。 なかなか面白い写真が撮れました^^


先程の水タンクの周囲には、写真のような建物や機材がありました。 近くに警備員さんがいたので「これは何ですか〜?」と尋ねたのですが、どうもご存じないようでした。 まぁ警備員さんなので業務内容が異なりますね^^;  失礼しました。 ちなみに警備員さんは警備に注力しているため、カメラで記念撮影をお願いしても「業務中ですから」と写真は撮ってくれません。 悪しからずm(_ _)m  ちなみにwikipediaにこの水タンクの説明が載ってましたので掲載します。 どうやら「水タンク」ではなく正式名称は「鉄水溜」というそうです。

鉄水溜あるいは鉄水槽は、蒸気釜所の西側にある鉄製の桶状の工作物。 鉄板をリベット接合して形成したもので、径15メートル、深さ2.4メートルであり、石積の基礎を有する。 創建当初のレンガにモルタルを塗った 貯水槽が水漏れによって使えなくなったことを受け、横浜製造所に作らせた鉄製の貯水槽で、その貯水量は約400トンに達する。 鉄製の国産構造物としては現存最古とも言われる。






水タンクを堪能し、更に先に進みますと、現在改築復元中の建物の見学ができるエリアにやってきました。 こちらに入るのに別途料金(確か200円位)がかかりますが、せっかくここまで来たので、入ることにしました。  入場料を支払い、チケットを係員さんに渡すと、ヘルメットを渡されます。 どうやら工事中なので中に入る人は全員ヘルメットを装着しないといけないみたい。。。 管理人は頭がデカイので被りにくかった〜^^;  しかもコーンヘッドになってしまいましたよ>_<

中に入りますと、工事中の建物は撮影禁止。 仏像や絵画などであれば撮影禁止も分かるのですが、なぜ工事中の建物の撮影は禁止なのでしょう;_;








久々にヘルメットを被った後は、工場の外周を廻ります。 富岡製糸場の造りとしては敷地のほぼ中央に繰糸所や倉庫があり、その周囲に幹部の住宅や病院などが建ち並んでいます。

繰糸場は、繭から生糸をとる作業が行われた場所でした。 創業当初はフランス式繰糸器300釜が設置され、世界最大規模の工場でした。 明治5年から創業停止の昭和62年まで115年にわたって一貫して生糸生産を 行いました。 現在、建物内部には昭和40年以降に設置された自動繰糸機が残されています。 建物には従来の日本にない「トラス構造」という小屋組みが使われており、その様子がよく確認できます。 さらに採光のための 多くのガラス窓や、屋根の上に蒸気抜きの「越屋根」が取り付けられました。 全国から応募した女性たちは、富岡製糸場で器械製糸の技術を学び、のちに地元の工場で指導者となることで、器械製糸技術の普及と日本の近代産業の発展に 大きく貢献しました。













こちらは検査人館。 検査人館は1873年竣工で、東置繭所の東側、女工館の北に建つ。 木骨レンガ造、2階建、南北棟の寄棟造で、桟瓦葺きとする。 規模は東西10.9 m、南北18.8 mである。  もともとはブリューナがフランスから連れてきた男性技術指導者たちの宿舎として建てられたものであったが、検査人ジュスタン・ベランとポール・エドガール・プラーは、無許可で横浜に出かけ、 怠業したという理由で1873年10月30日に解雇されていた。 また、ブリューナが教婦や検査人を連れて来たのとは別の時期に来日し、1872年に雇い入れられた銅工のジュール・シャトロンも、 1873年11月20日には富岡を離れていた。 このため、かわりに外国人医師の宿舎になっていたようである。 正門近くにあり、現在は事務所になっている。 首長館、女工館、検査人館はいずれもコロニアル様式の 洋風住宅と規定されている。 なお、1881年の記録には第4号官舎、第5号官舎の名前も見られるが、いずれも現在は失われている。




こちらは女工館。 女工館は首長館と同じく1873年の竣工で、東置繭所の東側、南寄りに位置する。 木骨レンガ造、2階建、東西棟の寄棟造で、桟瓦葺きとする。 規模は東西20.1 m、南北17.4 mである。  この建物は、ブリューナがフランスから連れてきた教婦(女性技術指導者)たちのために建てられたものであった。 しかし、4人の教婦のうち、マリー・シャレーは病気のために1873年10月23日に富岡を離れ、 同28日に横浜から帰国した。 次いでクロランド・ヴィエルフォールとルイーズ・モニエも病気に罹り、1874年3月11日に富岡を発った。 残るアレクサンドリーヌ・ヴァランは健康ではあったが、 一人だけ取り残されることを良しとせず、同じ日に富岡を発った。 こうして、4年の任期を誰一人まっとうできずに帰国してしまったため、女工館は竣工まもなく空き家となった。  その後、三井時代には役員の宿舎、原時代には工女たちの食堂など、時代ごとに様々な用途に転用された。 by wikipedia



こちらは首長館。 首長館あるいはブリューナ館(ブリュナ館)は、繰糸所の東南に位置する。 木骨レンガ造、平屋建、寄棟造、桟瓦葺き。 平面はL字形を呈し、東西33 m、南北32.5 mである。  内部は後の用途変更のため改変されている。 別名が示すようにブリューナ一家が滞在するために建設された建物である。 もっとも、この建物は面積916.8 m2と広く、一家(夫婦と子ども2人)とメイドだけでなく、 フランス人教婦たちも女工館ではなく、こちらで暮らしたのではないかという推測もある。 その広さゆえに、1879年にブリューナが帰国すると、工女向けの教育施設などに転用され、戦後には片倉富岡学園の校舎としても 使われた。 従来、工女教育のために竣工当初の姿が改変されたことは肯定的に捉えられてこなかったが、むしろ富岡製糸場の女子教育の歴史を伝える産業遺産として、その意義を積極的に捉えようとする見解もある。 by wikipedia





こちらが工場内の病院です。 すぐ隣には入院病棟もありました。 何か昔にNHKの朝の連続テレビドラマ小説でやっていた「梅ちゃん先生」に出てきそうな病院の出で立ちです。

写真は、昭和15年に建てられた、3代目の診療所です。(明治時代には病院と言ってました。) 当初の診療所は敷地の北東部分に建てられ、フランス人医師が治療にあたりました。 また官営時代においては治療費・薬代は工場側が 負担していました。 官営から片倉までの全期間を通じ厚生面が充実していたことが分かります。





更に奥に行きますと、今度は女子の寄宿舎が見えてきます。 中を見学することはできませんが、こちらも繰糸所や倉庫などと同じようなつくりをしているように見えますね。 でも建設時期は違うんだそうです。 

太平洋戦争終戦前に建てられたものとしては、1940年(昭和15年)の浅間寮と妙義寮があります。 これらは女子寄宿舎で、ともに梁間7.3 m、桁行55.0 mの木造2階建てです。 同じ年には首長館の東にあった原時代の 診療所・病室が新しく建て替えられたとのこと。





寄宿舎の脇には川が流れていました。 「鏑川」というそうです。 糸を紡ぐ際にお湯につけながら作業をしますが、そのお湯などをこの川に流していたそうです。 化学工場の排水と違って、お蚕様の糸をお湯に つけているだけだから、あんまり環境汚染にはならない感じなんでしょうかね〜。




最後にやってきたのが、「誰かの家」です。 多分、工場関係者の幹部の方々の家だったのかな〜。 なかなかに趣のある住居です。 明治か大正か昭和の雰囲気を残していますね〜。