史 跡 高 松 城 跡  玉 藻 公 園

いや〜金刀比羅宮ですっかり足が終わってしまったのですが、車で座っていたら少し回復しました。 金刀比羅宮を出発する前に、次はどこに行こうか思案しておりました。 丸亀市付近でもう一箇所観光するか、それとも高松市まで 戻ってどこか観光するか・・・ 帰りの電車の時間の兼ね合いもあったので、今回は安全サイドで高松市に戻って、帰りの電車に乗る前にどこか一箇所を観光することにしました。 高松市付近で観光の候補に上がっていたのは栗林公園、高松城跡玉藻公園、うどん学校等々。  有名処でいけば栗林公園だったのですが、庭園はちょっと前に金沢で兼六園を見たばかりだし、栗林公園は観光に時間がかかりそうだったので、今回は「史跡高松城跡 玉藻公園」にいくことにしました。 お嫁さんは足が終わってしまって回復してなかったので、 玉藻公園観光はパスして車で待っているはずだったのですが、結局死力をふりしぼって観光に付き合ってくれました^^

玉藻公園は行きにサンライズが到着したJR高松駅からすぐのところ。 金刀比羅宮から高松駅までは、国道32号線で一直線です。 片側2車線の大きな通りで、しかも信号がないので、もう高速道路状態ですよ。 でももちろんスピードは控えめに^^  途中に道の駅などもありましたので、トイレ休憩などもとりながら高松市へと入りました。 所要時間は約1時間。 やっぱりレンタカーがあると効率よいですね〜^^



高松城は、日本の香川県高松市玉藻町にあった日本の城である。 別名・玉藻城。 国の史跡に指定されている。 別名「玉藻城」は、万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因み、 高松城周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれていたことに由来するとされている。 高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、1587年(天正15年)讃岐1国の領主となった生駒親正によって、「野原」と呼ばれた港町に築かれた。  現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものである。 近世城郭の海城としては、最初で最大の例で、「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われている。  本丸に建てられた天守は、最下重が萩城や熊本城の天守のように天守台より出張り、最上重が小倉城や岩国城の天守のように「唐造り」であった。 現在は、三重櫓や門など一部の建物と一部の石垣、堀が現存し、城跡は「玉藻公園」として整備されている。 by wikipedia




玉藻公園に到着しました〜。 駐車場はすぐそばに無料駐車場がありましたので、そこに停めて入口に向かいます。 駐車場から入口の門までは徒歩2分と目と鼻の先です。 すぐ横には琴平電鉄琴平線の始発駅高松築港駅がありました。 

公園と名前はついていますが、入口のすぐ脇には櫓があったりとなかなか見応えがありそうですよ。



入口でチケットを購入して中に入ります。 入口を入ってすぐ右手のほうを見ると、見事な櫓が見えました。 ちなみに丸亀城が小さくてホントにこの櫓くらいしかなかったので、この写真が天守だと勘違いしてしまうかもしれませんが、 こちらは「艮櫓(うしとらやぐら)」という櫓です。 艮櫓は1965年(昭和40年)に高松市が東の丸から太鼓櫓跡に移築したものなんだそうです。



艮櫓を見学して、次に向かうのは「披雲閣」と「披雲閣庭園」です。 松平藩時代にも、この地に披雲閣と呼ばれる広大な建物(現在の披雲閣の約2倍)があり、藩の政庁および藩主の住居として使われていましたが、 明治時代に老朽化のため取り壊されました。 その後、松平家第12代当主で貴族院議長も務められた松平ョ壽氏により、3年の歳月と冬至のお金で15万余円の巨費を投じて現在の披雲閣が大正6年(1917年)に完成しました。  この豪壮な和風建物には142畳敷の大書院をはじめ、槙の間、蘇鉄の間などの雅趣を生かした各部屋があり、波の間には昭和天皇、皇后両陛下がご宿泊になられたこともあります。 昭和29年(1954年)に城跡とともに高松市に譲渡されて、 現在は会議、茶会、生花展などの会場として利用され、広く市民に親しまれています。









披雲閣庭園も見事な造形ですね〜。 松の木が非常にきれいに立ち並んでいますよ。 右手の方には披雲閣の建物がひっそりと建っており、松と建物のコントラストが非常に情緒深い雰囲気を醸し出しています。 




披雲閣庭園を抜けますと、また櫓が見えてきました。 先程の艮櫓と似ていますね。 日曜日には内部を観覧できるそうですが、あいにく今日は平日。。。 今日は外観だけを見学します。 写真の建物は3つの建物が一体になっているみたい。  一番左の大きな櫓が「月見櫓」、真ん中の門が「水手御門」、御門の右側が「渡櫓」となっています。

月見櫓は、松平氏入封以後新たに海面を埋め立てて造られた郭の隅櫓として延宝4年(1676年)に2代頼常公の時代に完成されたものです。 ことに渡り櫓は生駒氏築城による海手門を改修して建てられました。 かつて、これらの櫓の外まで海であって、 船からこの水手御門を経て、直ちに城内へ入れるようになっていたところからみて、この櫓は海手出入りの監視防備のための隅櫓であったものと思われます。

月見櫓の特色としては、内部に初層から三層の屋根裏まで通じる4主柱が中央に通っていて、それに梁をかけて組み立てていることや、外壁に装飾的な黒い長押を廻していること、軒は垂木形を塗りださず一連の大壁としていること、 月見櫓より渡櫓に至る一連の建築構造美などが挙げられます。

また江戸時代、この石垣の北側まで海でした。 藩主は、水手御門から小舟で出て、沖に停泊する御座船「飛龍丸」に乗船し、遊覧を楽しんだり参勤交代に出かけたりしたそうです。 水手御門は直接海に向かって開く、海城独特の門で全国唯一の現存例です。







こちらが水門です。

月見櫓から西門のほうに向かうと二の丸跡に参ります。 その間、左手にはお堀を見ることができます。 このお堀の脇には城舟体験ができたり、コイにエサをやったりすることができます。 またこの場所には水門があり、海と繋がっているんだそうですよ。  水門と逆側に目をやると、少し離れたところに海があります。 昨日小豆島に行くときにお世話になった港もすぐそばにあります。

高松城は、北は瀬戸内海、その他の三方に堀を巡らせた海城であり、日本三大水城に数えられます。 明治時代には「讃州さぬきは高松様の城が見えます波の上」と謡われたり、与謝野晶子によって「わたつみの 玉藻の浦を前にしぬ 高松の城 龍宮のごと」詠まれたりしています。 

江戸時代には内堀、中堀、外堀の3重の堀で囲まれていましたが、明治初期に外堀の埋め立てが行われ、徐々に市街化が進み、現在約8万平方メートルのみが城跡として残っています。 また城の北側も明治時代の度重なる築港工事に伴う埋め立てにより、 海と接しないようになりました。 このため、現在、堀と海は唯一城の北側を通る国道30号線の下にある水路によって繋がっています。 堀の水位は潮の干満によって変わっていますが、水門によって水位調節することもできます。  海から稚魚が潮に乗って水門から堀に入り、成長した魚(クロダイ、スズキ等)が泳いでいるのが見えます。










写真の橋は「鞘橋」と言います。 名称の由来は橋上が露天ではなく屋根と側壁がある廊下橋の構造をしており、それを刀の鞘に見立てたことによるのだそうです。 こちらの鞘橋は二の丸と本丸を結んでいる唯一の橋でして、 敵が攻めてきたときなどはこの鞘橋を落とすことで本丸までの道のりが絶たれるようになっています。 これまで見た他の城では、城の本丸を結ぶ橋は道幅はそんなに太くはないですが、しっかりと土壌を埋めて作っていることが多かったですが、 このような木の橋一本で本丸が結ばれているのは初めてかもしれません。

築城当初には屋根や側壁はなく、「らんかん橋」と呼ばれていたとされ、文政6年(1823年)に描かれた絵図『讃岐国高松城石垣破損堀浚之覚』には屋根が描かれていることから、江戸時代中頃に屋根付きの橋になったと考えられている。  1971年に架けられた現在の橋にも銅板葺の屋根がつけられており、堀には海水が引かれていることから、橋脚は腐食のために石材で造られている。 by wikipedia



こちらが天守台/展望デッキです。


天守台の内側の石垣


お堀から見た天守台


天守台の展望デッキからの眺め

「鞘橋」を渡るとそこは本丸です。 本丸の横には天守台/展望デッキがありました。 天守はありませんが、この天守台も最近再建されたものなんだそうです。 是非ここに高松城の天守を再建してくれたら良いのにな〜と思います。  実際にそういう運動も起きているそうですよ。 管理人も応援しています!

天守は独立式層塔型3重4階、地下1階、初層平面が東西13間2尺(約26.2メートル)×南北12間2尺(約24.2メートル)、高さ13間半(約24.5メートル)にもおよんだといい、現存している3重5階の高知城天守(高さ約18.6メートル)や 松山城(高さ約20メートル)の天守を凌ぎ四国最大の規模であった。 また、4階平面が3階平面より大きい、いわゆる唐造で、1重めも天守台から外には張り出させて石落としを開いていたと考えられている。  ほかに、1重目と2重目の比翼入母屋破風と唐破風、4階の火灯窓などの特徴があった。 創建時の天守は下見板張りの黒い外観であったが、1671年(寛文11年)の松平氏による大改修の際に、白漆喰総塗籠の天守に改築されたと見られている。  天守は老朽化により1884年(明治17年)に解体され、1920年に松平家初代藩主松平頼重を祀った玉藻廟が建立された。 2006年より始まった天守台石垣の解体修復工事に伴い、玉藻廟はすべて解体された。 by wkipedia