高 知 城

桂浜から自動車で1時間弱で高知城に到着します。  近くには県庁などもあり、県の中心部に位置しています。 国の史跡に指定されているんだそうです。  前述の通り、管理人は大河ドラマをよく見る人なのですが、高知城といえば、最近で言えば「龍馬伝」、 少し前ですと「功名が辻」で登場していましたね。 「龍馬伝」のときは山内容堂(豊信)の居城として、 「功名が辻」のときは山内一豊が着工した城として登場しました。 なにやらドラマの内容と城とが シンクロする感じになります。



高知城は、土佐国土佐郡高知(現在の高知県高知市丸の内)にあった城である。  平山城であり、現在の城跡は国の史跡に指定されている。 戦国時代以前は大高坂山城と称した。 

城郭の形式は梯郭式平山城。 高知平野のほぼ中心に位置し、鏡川と江の口川を外堀として利用している。  現在見られる城は、江戸時代初期に、土佐藩初代藩主・山内一豊によって着工され、2代忠義の時代に完成した。  4層6階の天守は、一豊の前任地であった掛川城の天守を模したといわれている。 

明治6年に発布された廃城令や、第二次大戦による空襲を逃れ、天守・御殿・追手門など15棟の建造物が現存し、 国の重要文化財に指定されている。 また、この15棟の現存建造物に加えて、土佐山内家宝物資料館に丑寅櫓の 一部であると伝わる部材が収蔵されている。 

高知城全域は高知公園として開放されており、本丸御殿・天守は懐徳館という資料館として利用されている。  高知城の周辺には、高知市役所、高知県庁、地方裁判所、地方検察庁などの行政機関や司法機関が立ち並び 高知県の行政の中心地となっている。また、城内には山内一豊、板垣退助の銅像がある。




山内 一豊は、戦国時代から安土桃山時代、江戸時代の武将・大名。 土佐山内氏の当主。  父は岩倉織田氏の重臣・山内盛豊、母は法秀尼。 祖父は山内久豊。 兄に山内十郎、弟に山内康豊。  妻は内助の功で知られる見性院(大河ドラマ「功名が辻」では「千代」)。  のちに康豊の嫡男・山内忠義(第2代藩主)を養子とした。 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らに仕え、 関ヶ原の戦いにおいて徳川方に与した軍功により土佐国20万石を与えられた。土佐藩初代藩主。 家紋は三つ柏紋。


「功名が辻」というのは大河ドラマで有名ですが、この原作は司馬遼太郎大先生の作品なんですよ。  物語の内容は「天下へ華々しく進む織田軍の中に、「ぼろぼろ伊右衛門」と呼ばれる山内伊右衛門一豊という男がいた。  そんな彼のもとに、千代という美しい女子が嫁いできた。 伊右衛門は千代に上手く励まされ、少しずつではあるが立身していく。  千代の夢は伊右衛門が一国一城の主となること。 千代は伊右衛門をべた褒めしてやる気を出させたり、 ひそかに蓄えた金(十両)で馬を買わせるなどして、夫を盛り立てていく。」というもの、この銅像はそのときの馬を買ったときのものなんですね。


板垣 退助は、日本の武士(土佐藩士)、政治家。 幼名は猪之助。 退助は元は通称。位階勲等爵位は従一位勲一等伯爵。  自由民権運動の主導者として知られ、生存時、一般庶民から圧倒的な支持を受けていた。 没後も民主政治の草分けとして 人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券100円券に肖像が用いられた。

高知城の紅葉


仲間由紀恵がドラマで着たうちかけ


昔の雰囲気を残す石垣


天守閣から見た高知市内




〜路 面 電 車〜

高知市内に入ると、主要地域に路面電車が走っていました。 そういえば以前行った、札幌でも走っていましたし、 熊本でも走っていました。 広島にもありますし、ここ高知にもあるんですね〜。 路面電車って実はまだ日本では 結構走っているんですね。

高知を走っている路面電車を運用している会社は「土佐電気鉄道株式会社」です。  もっぱら地元では土電(とでん)と呼ばれているんだそうです。 県外では土佐電鉄、と東京の都電を区別するのに 鉄道関係雑誌などでは土佐電と呼ばれることが多いそうです。  路面電車は高知市内で伊野線・後免線・桟橋線の3つの路線を運営しています。 これらの路線は「はりまや橋停留場」で交差しています。  総延長は25.3kmで、広島電鉄に次ぐ規模の路線を有するそうです。 市内中心部と東西の郊外を直接結んでおり、 電車の運転頻度も比較的高いため、利用しやすいです。 確かにひっきりなしに路面電車が往来していましたね。 

電車を見るのは楽しいのですが、路面電車が走る道路を運転するのはちょっと難しいですね。  信号機も路面電車専用のものがあり、信号の種類が多いし、右折するときなどは、青になったからといって、 ちょっとだけ車を前に出して右に頭を突き出す、なんてことはできません。 路面電車とぶつかりますもんね。  なので、右折レーンの表示の仕方も、普通の右折ラインと異なっておりました。