安 土 城 跡

昼食を頂いて大分膨満感ですね〜。 とてもお上品な食事を頂けて大満足です。 この後は車で20分位のところにある、安土城跡にやって参りました。 今回の旅行で一番楽しみにしていた場所です! もちろん安土城は本能寺の変の後に、 原因不明の出火で焼失してしまっており、天守は残っていませんが、石垣や石段上の階段などはしっかりと残っています。 そしてこの安土城は他で見た城とは大分造りが異なるんですよね。 こういう城ってなかなか他では見れませんよ。  一応天守跡まで上れるようになっているんですが、結構急勾配だし距離もあるみたい。 最初は途中まで上って引き返そうと思っていたのですが、親戚の方も城好きな管理人に気を遣ってくださり、天守跡まで上ることにしました。  天守跡まで上って織田信長と同じ目線で琵琶湖を見渡すと、なにやら感慨深いものがありました。 本当にすばらしい城でした。





さ〜、安土城跡に到着しましたよ〜。 天下の安土城ということだったので、お土産屋さんが並んでいたりするのかと思ったら、結構シンプルでしたよ。 駐車場も砂利の狭い駐車場しかありませんでしたし、お土産屋さんも小さいものが一軒だけ。  滋賀県は観光にあまり力を入れていないとはいえ、これはちょっと寂しい感じですね〜。 でもその分、城が当時のまま残されているということも言えると思いますので、悪いことではないですね^^;

駐車場から大手口のほうに向かいますと、正面には安土山がそびえ立ちます。 この山全体が安土城という感じなんですね。 道の途中には石垣も見えてきます。 この石垣に近寄ってみましたが、おそらく築城当時のものではないかと思います。 天守の周りだけでなく、天守の外周と思われる部分まで石垣が残っているのも珍しいと思いますよ。  しかも全然人の手が入っておらず、昔のままの状態のように見えました。




更に前方に進んでいきますと、受付の建物が現れます。 こちらで入場券を購入するみたい。 昔はこんな受付はなく、そのまま入れたそうなのですが、山の中にある寺がここの安土山の所有権を主張していざこざがあった末、このような受付が出来て有料化されたとのことです。 入場料は700円でした。


受付を通り過ぎますと、前方には急な階段が延々と続いていますよ。 今まで色々な城に行きましたが、こんなに道がまっすぐ続いている城ってないですよね。 多くの城は城を防御するために通路を迷路のようにしたり、途中の壁の中に鉄砲狭間や矢狭間があるものですが、安土城にはそういったものは一切ありません。  なんでも、この安土城は軍事拠点としての機能より、政治的な機能を優先させて作られたものと考えられているそうです。 なるほど、もう天下統一間近の信長にとってはこの城は今でいう県庁とか市役所のイメージだったのかもしれませんね。



大手道を少し進みますと、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の邸宅跡が見えてきます。 先程この安土城は軍事機能はないと言いましたが、大手道の脇にはこのような武将の邸宅がいくつかありました。 恐らく有事の際に敵がこの石段を上がろうとした場合は、このような武将の邸宅から兵が出て喰いとめるのではないかなと思いますね。

大手道に面したこの屋敷は、上下2段に別れた郭で構成されています。 下段郭の入口となるこの場所には、壮大な櫓門が建っていました。 1階を門、2階を渡櫓とする櫓門は、近世の城郭に多く見られるものですが、秀吉邸の櫓門はその最古の例として貴重です。  門内の石段を上がると、馬6頭を飼うことができる大きな厩が建っています。 武士が控える遠侍と呼ばれる部屋が設けられている厩は、武士の生活に欠かせない施設です。 下段郭には厩が1棟あるだけで、それ以外は広場となっています。 背面の石垣脇に設けられた幅2mの石段は上段郭の裏手に通じています。


上段郭は、この屋敷の主人が生活する場所です。 正面の入口は大手門に面して建てられた高麗門です。 その脇には重層の隅櫓が建ち、防備を固めています。 門を入ると右手に台所があり、更に進むと主屋の玄関に達します。  玄関を入ると式台や遠侍の間があり、その奥に主人が常住する主殿が建っています。 更にその奥には内台所や遠侍があります。 3棟の建物を接続したこの建物群の平面積は366平方mあり、この屋敷では最大の規模を持っています。


この秀吉邸のそばには前田利家の邸宅もあったそうです。 前田利家邸の虎口は、大手道に沿って帯状に気づかれた石塁を切って入口を設け、その内側に枡形の空間を造った「内枡形」と呼ばれるものです。 発掘調査の結果、石塁や門の礎石ともに後世に破壊されていて、その間口はさだかではありませんが、羽柴邸と同じ規模の櫓門が存在していたと推定されています。  門をくぐると左手には高さ6mにもおよぶ三段の石垣がそびえ、その最上段から正面にかけて多聞櫓が侵入した敵を見下ろしています。 また一段目と二段目の上端には「武者走り」という通路が設けられ、戦時に味方の兵が多聞櫓よりもっと近くで敵を迎え撃つことができる櫓台への出撃を容易にしています。  正面右手の石垣は、その裏にある多聞櫓へ通じる石段を隠すために設けられた「蔀の石塁」となっています。 入口の右手は隅櫓が位置しており、その裾の石垣が蔀の石塁との間の通路を狭くして敵の侵入を難しくしています。  このように前田利家邸の虎口はきわめて防御性が高く、近世城郭を思わせる虎口の形態を安土城築城時にすでに取り入れていたことが分かります。



山の中腹にはお寺がありました。 こちらは織田信長の菩提寺なんだそうですよ。 自由に撞ける鐘があったり、見事な門、三重塔などもありました。 お寺の名前は「遠景山ハ見寺」と言います。

遠景山ハ見寺は、臨済宗妙心寺派の寺院である。 安土城築城築城(天正四年)の際、信長公が他所より移築し自らの菩提寺とした。 信長の死後、安政元年、火災により本堂などを焼失。  今は礎石のみが三重の塔の北側に遺る。 昭和七年、仮本堂が伝徳川家康邸跡に建てられ、現在に到っている。 信長公所用の鉄鍔、陣羽織が伝えられている。 by ハ見寺HP


こちらが仁王門です。室町時代の建立で、信長公の命で甲賀から移築された。
門内に安置される金剛力士像も同じく国の重要文化財。


三間三重で室町時代の享徳三年(1454)に建立された。
国の重要文化財に指定される。


こちらは自由に撞いてOKとのこと。 ただし1回だけね^^
全員で1回づつ撞いていきました〜


大分上ってきましたよ〜。 でも石段は更に上の方まで続いていますね。 結構しんどいですよ。 親戚の方ももうご高齢なので、少しづつ休みながら上っていきます。 管理人もこういう階段をのぼると心臓がすぐに破裂してしまうところですが、 今日はゆっくり休みながらいけたので、全然楽でした。 最初は階段上るのに自信がなかったですが、ゆっくり行けば上れることが分かったので、少し安心しました。


まだまだ上り階段は続きます

後ろを振り向くとこんな感じです


石段を上っていると、所々に「石仏」というものがありました。 この石仏は、築城の際に大手道の石材として使われたものです。 城普請に使用する多くの石材は、近郊の山々から採取しましたが、石仏や墓石等も含まれていました。  出土した石仏等は、本来は信仰の対象となっていたものですが、築城の経緯を示すために発見当時の状態で保存しているんだそうです。



またまた邸宅跡が現れましたよ〜。 こちらの御宅は武井夕庵(たけいせきあん)の邸宅跡です。 武井夕庵は織田信長の右筆であり、茶人でもあります。 ちなみに「右筆」というのは武家の秘書のことです。 文章の代筆が本来の職務だったそうですが、 時代が進むにつれて、事務官僚としての役目になっていったそうです。

武井夕庵は元々は美濃の斉藤道三、義龍、龍興の3代にわたって右筆として近侍した方ですが、途中で道三と袂を分かち、斉藤氏を滅ぼした織田信長に仕えるようになったそうです。 織田信長に仕えてからも右筆となりあの織田信長にいつくもの諫言をしたとも伝えられているそうです。  また外交面でも活躍した方で、豊臣秀吉と共に小早川隆景、吉川元春との交渉なども行ったそうです。



安土城を上りはじめてから25分位経ちました。 先程までの石段はなくなり、ちょっと普通のハイキングコースのようになりましたよ。 しかし先程の石段は相当にきつかったですね>_<  まだ我々は観光だからいいですが、天守があった安土時代には、織田信長から登城を命じられたら、速攻でこの石段を登って城に行かなければいけなかったんですから武将も大変ですよね〜。 



おっとここでまたまた邸宅跡が出てきました。 こちらは誰の邸宅かな〜、何々「織田信澄」!? あまり聞いたことのないお名前ですが、多分織田信長の親類ですよね。。。 wikipediaで調べてみると、 「尾張の戦国大名・織田信秀の三男・織田信勝(信行)の嫡男として生まれる。 享年に諸説あり、このために生年は確定することができないが、織田信長の甥にあたり、その嫡男である従兄弟の織田信忠とはほぼ同年代であったと考えられる。  本能寺の後は、信澄が光秀の娘婿であった事が災いし、市中には謀反は信澄と光秀の共謀であるという事実とは異なる噂が流れており、疑心暗鬼に囚われた信孝と長秀は、信澄を襲撃して大坂城千貫櫓を攻撃した。 信澄は防戦したが、丹羽家家臣・上田重安によって討ち取られた。」だそうです。



黒金門跡にやってきました。 天守まであともう少しです。 こちらは安土城の中心部に入る最初の入口だったそうで、防御性を高めるために巨石を集めて頑強な構造にするとともに、訪問者にインパクトを与えようとしたと考えられます。  黒金門跡周辺は安土城の中でももっとも大きな石が使われている場所です。

平成5年度の発掘調査では、黒金門付近も天守と共に火災にあっていたことが分かりました。 多量の焼けた瓦の中には、菊紋・桐紋などの金箔瓦も含まれていました。 壮大な往時の姿が偲ばれる黒金門より先は、信長が日常生活を送っていた安土城の中枢部となります。  高くそびえる天守を中心に本丸・二の丸・三の丸等の主要な郭で構成されるこの一帯は、標高が180mを超え、安土山では最も高いところにあります。 東西180m、南北100mに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、 周囲からは屹立しています。 高石垣の裾を幅2〜6mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれています。 外周路の要所には、隅櫓・櫓門等で守られた入口が数か所設けられています。 この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口道・七曲口道からの入り口なのです。





今度は「仏足石」なるものが出てきましたよ。 こちらは二の丸跡付近から発掘されました。 これもおそらく、築城の際、石垣の一部として使われたものと思われます。  仏足石とは、本来、お釈迦様の足跡を表現した物で、古代インドでは仏像に先立ち、崇拝の対象にされていました。 我が国では奈良の薬師寺のものが現存する最古(奈良時代、国宝)のものとして有名ですが、この仏足石は中世の数少ない遺物として大変貴重なものです。 byハ見寺HP



あともう少しで本丸跡に到着します。 その前に織田信長の本廟がありました。 こちらは羽柴秀吉が天正11年1月三法師に年賀を表すべく登城し、翌二月、信長公ゆかりの安土城二の丸跡に太刀、烏帽子、直垂などの遺愛品を埋葬して本廟としたんだそうです。  そして6月2日の一周忌には、織田一族や家臣を集め、盛大に法要を行なったそうです。 これにならって、現在でも毎年6月2日には信長忌として、ハ見寺にて法要を行なっています。 byハ見寺HP



ついに本丸跡に到着しました〜。 現在の時刻は13:52。 上りはじめてから45分です。 随分高いところまで上ってきましたね〜。

天守台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきました。 東西約50m、南北約34mと東西に細長い敷地は、三方を天守台・本丸帯郭・三の丸の各石垣で囲まれ、南方に向かってのみ展望が開けています。  昭和16年と平成11年の2度に渡る発掘調査の結果、東西34m×南北24mの範囲で碁盤目状に配置された119個の礎石が発見されました。 約2.18mの間隔で整然と配置された自然石の大きな礎石には焼損の跡が認められ、 1辺約36cmの柱跡が残るものもありました。 12〜18cmの柱を約1.97m間隔で建てる当時の武家住宅に比べ、本丸建物の規模と構造の特異性がうかがえます。 

礎石の配列状況から、中庭をはさんで3棟に分かれると考えられるこの建物は、天皇の住まいである内裏清涼殿と非常によく似ていることが分かりました。 西方の清涼殿風の建物は、密に建ち並んだ太くて高い床束が一階の床を支える高床構造の建物であったと考えられます。  なぜ安土城天守の直下に清涼殿に酷似した建物が建てられたのでしょう。 「信長公記」には天守近くに「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、内に「皇居の間」が設けられていたことを記しています。  信長の二度にわたる安土城への天皇行幸計画は実現しませんでしたが、この本丸建物こそ、天皇行幸のために信長が用意した行幸御殿だったのではないでしょうか。



本丸からこの階段を上がると、天守跡に到着です〜。 天守跡はインターネットの画像で見たことがありますが、早くこの目で見たいものです!!



天守跡に到着です〜。 おお〜画像で見た景色が眼前に〜! 敷地自体は思ったよりも広くはないようです。 地中には礎石が整然と並んでいますよ。 そうか〜ここに安土城の天守があったのか〜。 また天守を取り囲む石垣の上から琵琶湖方面を見ると、非常に良い景色ですね〜。  現在の琵琶湖はずっと遠くに見えますが、安土城の天守があった頃は、この山の下まで琵琶湖の湖畔があったそうですよ。 近代に埋め立てなどを行い陸地になったとのこと。 昔は琵琶湖が天然の掘になっていたんですね〜。 そうか〜織田信長もこの景色を見ていたんですね〜、いや〜感無量です!  ちなみに織田信長はここにあった天守にそのまま住んでいたそうですよ。 城の城主ってのは普通は天守には住まずに、本丸御殿とか二の丸御殿とか屋敷を建てて、そこに住むものなんですが、多分城に住んだ武将というのは後にも先にも織田信長だけなんではないでしょうか。

天守跡は背丈ほどの高さの石垣に囲まれ、東西、南北それぞれ約28mの台地になっています。 今は礎石が1.2mおきに整然と並ぶだけですが、この部分は、天主の穴蔵(地階の部分)にあたり、その上にさらに大きな天主がそびえていました。  五層七階(地上六階・地下一階)の天主はイエズス会の宣教師ルイス・フロイスによれば、ヨーロッパにもあるとは思えないほどの壮大さであったといい、高さ33mの木造高層建築は、当時我が国で初めての物であったそうです。 by ハ見寺HP





お城を見るときに忘れてはいけないのは石垣でしょう。 安土城の石垣は、花崗岩の石仏等以外は安土山や近くの繖山をはじめ、湖東地方で産出される湖東流紋岩という石を用いているそうです。  石垣はほとんど加工せず、自然石を巧みに使って積み上げられています。 この石垣は近江の穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石工の集団が携わっていたそうです。  安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになったとのこと。 それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られました。  彼らは全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するようになったといいますが、現在も不明な部分が多いそうです。