三 井 寺(園 城 寺)

いや〜思いのほか石山寺は良いお寺でしたね〜。 お次に参りますのは「三井寺」です。 この「三井寺」という名称は、実は通称でして、本当の寺の名前は「園城寺(おんじょうじ)」と言うんだそうです。  「三井寺」と呼ばれるようになったのは、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったんだそうです。  天智天皇ってすごいですよね。 昔小学生の頃に社会で習った「中大兄皇子」のことですよ。 大化の改新のお方ね! 西暦は645年ですから飛鳥時代にあたるのでしょうか。 ものすごい歴史のあるお寺なんですね〜。  ちなみに天武天皇は中大兄皇子の弟、持統天皇は天武天皇の奥方、更に持統天皇は始めて女性で天皇になった方です。 そうそうたる名前が並んでいますね。

そういえば全然関係ないんですが、最近カメラの調子が悪いみたいで、逆光気味に写すと画像にオーブみたいな光の玉のようなものが写りこんじゃうんですよね・・・ レンズの内側にホコリが入っているのかな。。。 結構落としたりしているからねぇ。 そろそろ寿命かもしれません>_<


先程の石山寺を出発したのは16:15頃。 石山寺からは、琵琶湖の湖西側を北上します。 石山寺からは一般道で約40分で到着します。 道の途中には近江大橋が見えたり、大津城跡が見えたり、ドライブとしても見所が多いですね。  またこの周辺は大津市になるのですが、結構栄えていますよ。 高級ホテルもいくつも建っていましたし、街が賑わっていましたね。



さ〜三井寺の駐車場に到着しましたよ〜。 親戚の方によると、いつもは駐車場係の人が駆け寄ってきて駐車料金を支払うんだとか。 でも。。。誰も来ない。。。 また参拝料を支払おうと受付に行くと・・・ 閉まってる・・・ よく見てみると、拝観時間は8:00〜17:00までなんだって^^;  でも中に入れないかというと・・・ 出入り自由みたい・・・ なんと無防備なっ! 親戚の方によると、拝観時間外でも散歩したり、ジョギングする人が寺の中を自由に入ることができるみたい。 でもさすがに文化財とか仏像は見ることができませんでした。 夏至は過ぎたとはいえ、まだまだ日は長いですね〜。 境内は結構広いのですが、明るいうちに観光することができました。

琵琶湖南西の長等山中腹に広大な敷地を有する三井寺は、正式名称を「長等山園城寺(おんじょうじ)」といい、天台寺門宗の総本山です。 平安時代、第五代天台座主・智証大師円珍和尚の卓越した個性により、天台別院として中興されました。  以来今日まで続く千二百年以上の歴史の中で、源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の法難に遭遇しましたが、智証大師への信仰に支えられた人々によって支えられつつ、苦難を乗り越えてきた様から、「不死鳥の寺」としても知られています。 by 三井寺HP






駐車場を出て境内に向かうと、いきなり見事な楼門がお出迎えしてくれます。 こちらは「大門(仁王門)」と言います。 先程の石山寺の東大門も見事でしたが、楼門の大きさで比べると、こちらの方が巨大ですよ。  こちらの大門は、三井寺の表門で、檜皮葺の二階建ての楼門。 もとは天台宗の常楽寺(湖南市石部町)にあったのを豊臣秀吉が伏見城に移し、その後、慶長6年(1601)に徳川家康が三井寺に寄進したんだそうです。  出てくる登場人物がまた有名人ばかり。 それだけこの琵琶湖周辺ってのは重要な拠点だったのでしょうね〜。

楼門をくぐりますと、境内の案内図が出てきました。 先程の石山寺も広かったですが、三井寺はそれ以上に広いですね! 実際我々は回る(一部は飛ばしました))のに1時間もかかってしまいましたよ。 でも色々な建築物がじっくり見れてよかった〜。  さすがに拝観時間を過ぎているので、観光客は0人でしたよ。 完全に三井寺を貸切状態です。 こんなことは始めてかもしれませんね。 普通観光しようと思っても拝観時間外だったら行かないもんね〜



楼門を潜り抜けて、最初にお出ましになったのが「食堂(釈迦堂)」です。 こちらは檜皮葺屋根の簡素な住宅風建築です。 御所の清涼殿を移築したと伝え、多くの僧や衆徒を擁した寺院では食堂(じきどう)として用いられたのこと。  現在は、清涼寺式釈迦如来像を本尊としてまつることから釈迦堂と呼ばれています。  平安時代には、著名な歌人藤原公任が、千僧供養や結縁潅の檀主となって食堂において法会を行ったとの記録もあり、古くから釈迦如来を祀っています。  今日は見れませんでしたが、本尊の釈迦如来像は、「三国伝来の釈迦」として信仰を集めてきた京都嵯峨の清凉寺ご本尊の模刻像で、釈尊の御姿をそのまま写したとされ、その独特の尊容から「清凉寺式」と呼ばれています。  こちらは室町時代の建物で、重要文化財に指定されているんだそうです。



更に先に進みますと、大きな建物がっ! こちらが三井寺の総本堂である国宝の「金堂」です。 秘仏の弥勒仏は、後白河法皇はじめ歴代の天皇や源頼朝、足利尊氏、徳川家康など武将から篤い信仰を集めてきました。  平安時代、鎌倉時代を通じて、源平の争いや南北朝の動乱などにより再建を繰り返してきました。 現在の建物は、豊臣秀吉の正室北政所(おね)によって再建されたもので、桃山文化を代表する壮大華麗な名建築として国宝に指定されています。  堂内には円空仏や尊星王像をはじめ多くの仏像が安置され、三井寺の信仰と歴史にふれることができます。 内部は、外陣・内陣・後陣に区切られ、本尊・弥勒仏を安置する内陣中央は床を張らず一段下げて土間にするなど伝統的な天台系密教仏堂の形式を伝えています。


正面から見た金堂


横から見た金堂

屋根の造りも見事です

金堂の横の方を歩いていくと、↓の写真のような小屋がありました。 木の格子で厳重に守られていますね。 こちらは「閼伽井屋」と言いまして、こちらも重要文化財です。 もうさっきの石山寺と言い、三井寺と言い、重要文化財の宝庫ですね!  ちなみにこの「閼伽井屋」の内部には井泉が湧き、天智・天武・持統天皇の 産湯に使われたことが三井寺の名前の由来になっているんだそうですよ。 暗くてよく見えませんでしたが、確かに水が湧いていたように思います。



金堂の横には、近江八景に数えられる「三井の晩鐘」がありました。 この大きな鐘は、特に音色がすぐれており、古来より「音の三井寺」と称され、「形の平等院」、「銘の神護寺」と共に「日本三名鐘」の一つに数えられています。  なんとここにも管理人の大好物の「日本三大○○」がありましたよ。 梵鐘も鐘楼も桃山時代 慶長7年(1602)のものです。 鐘の高さは208.6cm、口径は123.6cmです。 管理人も撞いてみたかったな〜。



こちらにはおみくじがあるようです。 このおみくじは「三井寺鐘みくじ」という名前が付いていました。 神社にいくと木の箱を振って、出てきた棒に書いてある番号のおみじくを受付でもらうってのがほとんどだと思いますが、 こちらのおみくじは変わっていましたよ。 まずは志納金200円を受付で納め、鐘みくじを一枚引きます。 そしたら鐘みくじを御籤鉢の水に浸けます。 そうするとなななんと、鐘みくじの中央部分に番号が浮かび上がってくるんだとか!  この番号を受付に持って行っておみくじを頂くんだそうです。 これ前にテレビでやっていたのを見たことがありますね。 なかなか凝っていますね^^


鐘みくじの説明書き

ここが御籤鉢なのかな!?


更に先にすすみますと、これまた古い建物が見えてきましたよ。 こちらは「園城寺一切経蔵」と言います。 一切経蔵とは仏教の全ての経典、つまり一切経(大蔵経ともいう)を治める施設のことで、この経蔵には版木の一切教が収められています。  この経蔵は、桁行1間、梁間1間、1重、宝形造、檜皮葺の禅宗形式を持った建物ですが、裳階をつけているため、柱間が三間三間、屋根が二重に見えます。 内部には一切教を納めた八角形の輪蔵(回転書架)を据えています。  全体におだやかな感じを持ち、禅宗様経蔵の古い例として貴重なもので、室町時代中期を降らぬ建物とされます。 なおこの経蔵は、もと山口県の国清寺にあったものを毛利輝元によって慶長7年(1602)に移されたものと言われています。  明治39年(1906)4月に国の重要文化財になりました。



今度は三重塔と、隣には今までの建物と少し外観が異なる建物が見えてきました。 こちらももちろん2つ共に重要文化財です。

三重塔は慶長6年(1601)、徳川家康が三井寺に寄進したものです。 もと奈良県吉野の比蘇寺(現在の世尊寺)の東塔で、豊臣秀吉が文禄3年(1594)に伏見城に移していたのを再び移建したそうです。 軒深く三重の釣合もよく、相輪の水煙などに中世仏塔の風格をよく伝えています。

三重塔の隣に鎮座しているのは「唐院・潅頂堂」と言います。 入母屋造、檜皮葺、正面中央に軒唐破風を設ける上品で軽快な住宅風建築です。 慶長年間に大師堂の拝殿として建立されたもので、内部は前後2室に分かれており、伝法潅頂などの密教儀礼が行われます。



三重塔

唐院・潅頂堂


三井寺の魅力は、建物や仏塔、鐘楼だけではありません。 個人的には、三井寺の「道」がとても良い感じだな〜と思いました。 三井寺は敷地がとても広いので、様々な太さの道が縦横無尽に走っています。 きっとその時代時代で形を変えてきたんだと思いますね〜。  所によっては石畳だったり、所によっては城壁かと思うほど塀があったり、きっと時代時代で造りや形状が異なるんでしょうね〜。 石垣や石畳の石を見ると見るからに古そうな石があるんですよ。 先程の石山寺のように石垣にコケが生えていて、情緒的に見える物もありました。  また建物を覆う塀なども、寺のものにしては随分背が高いんですよね。 もしかしたら戦国時代や室町時代など戦乱の世では、寺も城の1つとして機能していたのかもしれません。 色々想いを巡らせると、非常に感慨深いものがありますね〜。 こちらの三井寺は、それだけ想像を掻き立てられる歴史があるんですね〜。







またまたお寺が出て参りました! こちらは「微妙寺」という少し微妙なお名前のお寺です。 微妙寺は、正暦5年(994)に慶祚阿遮梨によって創建された三井寺の五別所の1つです。 別所というのは、平安時代以降、広く衆生を救済するため本寺(本境内)の周辺に設けられた三井寺の別院で、水観寺、微妙寺、近松寺、尾蔵寺、常在寺があるんだそうです。  慶祚(955〜1019)は、三井寺を隆盛へと導いた高僧で、鎌倉時代の説話集「十訓抄」によると「往生要集」で知られる恵心僧都源信の朋友として知られています。 ご本尊の十一面観音像は、9世紀の平安仏で、古来より厄除開運、健康長寿、財福授与などを願って、参詣者が押し寄せ、かぶっていた笠がぬげるほど賑わったことから「笠ぬげの観音様」と呼ばれ信仰されきました。 



道を歩いていると、見事な石像が見えてきました。 片膝をついた恰好で座した石像です。 お顔は少し下の方を向いている感じでしょうか。 少し珍しい石像ですね。

こちらは「衆宝観音」様です。 三十三観音の1つ。 衆宝とは衆生が求めてやまない財宝のことで、右手を岩に置き、左手を立て膝の上に置く特異な観音様です。 三個の蓮華のうち未開の蓮華は未だこの世に姿を現さない我々の状態を、 半開の蓮華は現世に生きる私たちを、全開の蓮華は完成された人格が表現されているんだそうです。 この観音様を信仰すれば財宝が貯まり、福徳を授けられ、出世が叶うと言われるありがたい観音様なのです。

あとこの観音様に向かう途中に何体かお地蔵様があったのですが、これはなんだったんだろう。 普通のお地蔵様よりも顔がでかいような・・・



童地蔵

南無童地蔵菩薩

南無童観音菩薩


いや〜三井寺はホントに広いですね。 段々と足が終わりかけてきましたよ。 でもまだまだ先はあるみたい。

こちらは「毘沙門堂」と言います。 毘沙門堂は、正面一間、側面二間、1重、宝形造、檜皮葺の小建築で、極彩色を施した唐様式の建造物です。 もとは園城寺五別所の1つであった尾蔵寺の境内南勝坊にあったもので、明治42年(1906)に山内に移され、昭和31年(1956)解体修理に伴い、保存管理の上から現在地に移されました。  建立についてのはっきりした資料はありませんが、寺蔵の「元禄五寺社改帳」によれば、南勝坊の造立が元和2年(1616)とされています。 組物、軒廻り、天井などの形式手法から、近世初頭の特徴をよく表しています。 昭和27年(1952)3月に国の指定文化財となりました。



案内図を見ると、どうやらここが最終地点のようです。 こちらは西国第14番札所の観音堂です。 こちらの敷地は結構広くて、敷地内に鐘楼や百体観音堂、観月舞台、絵馬堂、手水舎などが配置されていました。 休憩所もあったので、飲み物を購入して一休み。 時刻は17:30を過ぎようとしていますが気温は全然下がらないですね。 もう管理人のハンドタオルはビショビショで絞ると汗が染みだしてきます。 時折吹くそよ風が唯一の救いでした^^;  実は自宅を出る前に今日は暑くなると予想していたのでハンドタオルではなく、普通の大きいタオルを持って行こうとしていたのですが、さすがに初めてお会いする親戚の前で、でっかいタオルはないだろうと家に置いてきてしまったんですよね>_< やっぱりタオル必要でした。。。

こちらの観音堂の本尊は如意輪観音像で、33年に一度に開帳される秘仏です。 後三条天皇(1034〜73年)の病気平癒を祈願して延久4年(1072)に創建されたと伝えされています。  その後、文明年間(1469〜86年)に現在地に移されましたが、貞享3年(1686)に焼失し、元禄2年(1689)に再建されました。 重層入母屋造、本瓦葺の大建築で、内部は正堂(本尊をまつる)と礼堂を合の間でつなぐ密教系観音堂の古い形式をとどめながら内陣には元禄期の華やかな意匠をみせるなど近世的な観音霊場にふさわしい建築となっています。


観音堂


鐘楼


観月舞台

手水舎


さ〜それでは駐車場に行きますか! と思ったら、帰る途中にも神社がありました。 一体ここにはいくつの寺や神社があるんでしょうね〜。 以前京都の大徳寺に行ったときも敷地の中にいくつも寺がある風景を見ましたが、あんな感じですね。  ↓の説明にもありますが、境内はウサギの手水舎や、ウサギの石仏など、ウサギ一色でした。 神社にウサギが祀られるのって珍しいよね。

こちらのお寺は「三尾神社」と言います。 太古の頃、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が長等山(ながらやま)の地主神(じぬしのかみ)として降臨したのが縁起の始まりとされます。 伊弉諾尊はいつも赤、白、黒三本の腰帯を垂らし、その姿が 三つの尾を曳くように見えたことから「三尾大神(みおおおかみ)」と名づけられました。 地元では「みおんさん」と親しまれ、祭礼の際には大勢の参拝者で賑わいます。 兎にゆかりを持つ宮は全国でも珍しく、卯の年には大勢のお参りが見られます。 



ウサギの銅像の口から水が出てる

ウサギの石像が鎮座します




〜琵 琶 湖 疏 水〜

駐車場に行く前に少しだけ寄り道を。 実は琵琶湖の水は滋賀県だけでなく、京都府、大阪府の飲み水にもなっているんですよ。 琵琶湖の周囲には「疎水」と呼ばれる水路があるんです。 しかもこの疎水は明治時代に造られたものなんですよ。 三井寺ほどではないですが、こちらも歴史があるんですね〜。 このような水路が色々なところで見ることができるんですが、建造物はレンガで組まれていて、なんだか明治だな〜という雰囲気を醸し出しています。 写真は細い水路の出入り口なので、こじんまりとしていますが、もっと大規模な施設も車の移動中に見ることができました。

琵琶湖疏水は、第1疏水(1890年に完成)と第2疏水(1912年に完成)を総称したものである。 両疏水を合わせ、23.65m3/sを滋賀県大津市三保ヶ崎で取水する。 その内訳は、水道用水12.96m3/s、それ以外に水力発電、灌漑、下水の掃流、工業用水などに使われる。  また、疏水を利用した水運も行なわれた。 水力発電は通水の翌年に運転が開始され、営業用として日本初のものである。 その電力は日本初の電車(京都電気鉄道、のち買収されて京都市電)を走らせるために利用され、さらに工業用動力としても使われて京都の近代化に貢献した。  疎水を利用した水運は、琵琶湖と京都、さらに京都と伏見、宇治川を結んだ。 落差の大きい蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理のインクラインが設置され、船は線路上の台車に載せて移動された。  水運の消滅に伴いインクラインはいずれも廃止されたが、蹴上インクラインは一部の設備が静態保存されている。 無鄰菴や平安神宮神苑、瓢亭、菊水、何有荘、円山公園をはじめとする東山の庭園に、また京都御所や東本願寺の防火用水としても利用されている。  一部の区間は国の史跡に指定されている。 また、疏水百選の1つである。 by wikipedia