多 賀 大 社

彦根城の次は、「多賀大社」に向かいます〜。 多賀大社というのも非常に有名ですよね〜。 彦根城から多賀大社までは車で約15分です。 今日は朝早くから行動していたのが功を奏しました。  多賀大社に到着すると有料駐車場がありますが、我々が到着したときは全然スカスカだったのですが、帰りに見たら駐車場待ちの車の行列ができていましたよ。 それもそのはず、今の時期は 七五三だったのですね。 周囲は綺麗に着飾ったお子様とスーツの親御さん達で大賑わいでした。

さすが有名な神社だけあって、中は厳かな感じですね〜。 正面の鳥居の先には変なモッコリした橋が掛かっています。 その奥に拝殿がありますが、どことなく平等院鳳凰堂のような感じの 建物に見えます。 鳥居を入って右側に、神社の敷地の地図のようなものがありましたが、それを見ると、敷地は結構広いみたい。 一瞬昨日の比叡山延暦寺を思い出してしまいました。  まぁでもせっかくきたんだし、見れるところは見てしまおうよっ! ということで見学し始めましたが、一般客が観れるのは拝殿前だけで更に奥にいけるのは、何か祈祷する人だけみたい。  他にも見学できるところがないか、駐車場の警備員さんにも聞いたのですが、他にはないみたいです>_<。。。



多賀大社拝殿

多賀大社は、滋賀県犬上郡多賀町多賀にある神社である。 伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)の2柱を祀り、古くから「お多賀さん」として親しまれた。  また、神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集めた。 当社にはお守りとしてしゃもじを授ける「お多賀杓子」という慣わしがあるが、これは「お玉杓子」や 「オタマジャクシ」の名の由来とされている。

和銅5年(西暦712年)編纂の『古事記』に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」と当社の記載がある。 「日本書紀」には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち 「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」とあり、淡路島に「幽宮」を構えたとされる。 「古事記」以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上君の祖神を 祀ったとの説がある。 犬上君(犬上氏)は、多賀社がある「犬上郡」の名祖であり、第5次遣隋使・第1次遣唐使で知られる犬上御田鍬を輩出している。

藤原忠平らによって延長5年(927年)に編まれた『延喜式神名帳』では、当社は「近江国犬上郡 多何神社二座」と記載され、小社に列した。 「二座」とあるため、この時代には すでに伊邪那岐命・伊邪那美命2柱が祀られていたと分かる。 なお、摂社(境内社)で延喜式内社の日向神社は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を、同じ摂社の山田神社は猿田彦大神を祀る。  多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮(このみや)神社は、伊邪那岐命・伊邪那美命・事勝国勝長狭(コトカツ クニカツ ナガサノミコト)の3柱を祀り、多賀社の南方2kmの小高い丘 (神体山)に鎮座する。 授子・授産、鎮火の神として崇敬される。

室町時代中期の明応3年(1494年)には、神仏習合が進み、当社には神宮寺として不動院(天台宗)が建立された。 神宮寺配下の坊人は全国にお札を配って信仰を広め、当社は 中世から近世にかけて伊勢・熊野とともに庶民の参詣で賑わった。 「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との 俗謡もあり、ここに見る「お多賀の子」とは、伊勢神宮祭神である天照大神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神の御子であることによる。 なお、社に残る垂迹曼荼羅(すいじゃくまんだら)は 坊人が国を巡行して神徳を説く際に掲げたものである。 また、多賀社が隆盛したのは、近江国が交通の結節点だったことにもよる。

天正16年(1588年)には、多賀社への信仰篤かった豊臣秀吉が「3年、それがだめなら2年、せめて30日でも」と母の延命を祈願し、成就したため社殿改修を行い大名に与えるに等しい 1万石を寄進した。 境内正面の石造りの太鼓橋(大僧正慈性により寛永15年〈1638年〉造営)は「太閤橋」の雅名でも呼ばれる。

元和元年(1615年)には社殿が焼失したが、寛永10年(1633年)に徳川家光が再建を命じ、5年後に完成した。 明和3年(1766年)には屋根の葺き替え等の大改修が成る。 ところが、 安永2年(1773年)にまたも焼失。 天明2年(1782年)にも火災に遭った。 寛政3年(1791年)には暴風で社殿が倒壊した。 このように江戸期の多賀社は災難続きであったが、 その都度彦根藩および幕府からの手厚い寄進・寄付が行われた。

明治初年の神仏分離令を機に廃仏毀釈の動きが広まり、多賀社の神宮寺も廃絶した。 別当職不動院は1868年(明治元年)に復飾せられ、境内にあった全ての神宮寺は払拭せられた。 多賀社は、1871年(明治4年)に県社兼郷社、1885年(明治18年)に官幣中社となり、1914年(大正3年)に官幣大社に昇格した。 1947年(昭和22年)「多賀大社」に改称した。

1930年(昭和5年)、本殿を改修。 大社造の本殿等の屋根の檜皮葺の葺き替え、ならびに参集殿新築造営は、1966年(昭和41年)から行われ、1972年(昭和47年)に完成した。  また、当社は2002年(平成14年)から「平成の大造営」を行っており、2005年(平成17年)の時点で一部は竣工している。 by Wikipedia


実は多賀大社の中に入る前に、土産物屋で「近江牛まん」なるものを頂いたのですが、なんとその後に「頭」氏に差込みがぁぁぁぁぁ!! しばらくトイレから出てくることはありませんでした。 合掌m(_ _)m  確かに朝は腹減ってましたが、彦根城で「はしまき」食して、そのあとすぐに「抹茶ソフトクリーム」を食して、間髪入れずに「近江牛まん」だもんね。 腹減りから一気に満腹状態です。

トイレも無事終わり、多賀大社を見学します。 本当は建物だけを激写したかったのですが、何せ七五三連隊が多くて、人がいなくなることがありません。 というより時間が経つにつれてどんどん 人が増えていきます。 


多賀大社の正面の鳥居


太閤橋


御神門


神馬舎


社務所


何かの大釜



〜 近 江 牛 ま ん 〜


駐車場に車を停めて、多賀大社の見学に向かおうとしたら、すぐそばにあった土産物屋さんの並びに「近江牛まん」の文字がっ!! ご当地物には本当に弱いです^^; 多賀大社を見学する前に 頂いておきました。 これ結構高くて400円もしましたよ。 そして食べてみると、普通の肉まんのような感じ。 でも近江牛の姿を思い出しながら食すると、なんとなく近江牛っぽい味がしてきます^^;


お店はこんな感じ


食べる前の近江牛まん

食べかけの近江牛まん。 中はこんな感じです。