彦 根 城

滋賀県ツアーも2日目となりました〜。 駐車場に8時に集合し、「西」氏を迎えに行ってから、今日最初の観光地「彦根城」に向かいます。 でも「吉」氏がいないせいか、今日は雨模様。  北日本では結構大荒れの天気になっていたようです。 さて彦根城ですが、夕べブラリ散歩をしたときは暗かったのでよく見えませんでしたが、 今日は綺麗に見えますよ。 小高い丘に建っています。 敷地もかなり広いようですね。 敷地の形は縦長の楕円のようになっています。 彦根城そばの駐車場に停めたのが8時15分位。  そこから徒歩で5分強で城の入り口に到着します。 ちなみに車を停めたのは、昨日宴会をやった「近江や」さんのすぐそばでした。 彦根城の開場時刻が8:30から。 現在の時刻は 8:27分。 2〜3分待ちで中に入ることができました。 チケットは600円。 このチケットで彦根城の中と、すぐそばにある「玄宮園」という庭園を見学することができます。  これとは別に博物館もあり、博物館は別料金となっています。

今日は8:30にすぐに入城したので、城へは1番乗り〜。 雨が降っていたせいもあってか、人はそんなに多くなかったような気がしますね。 人が少なかったので、城や櫓の見学も 非常にスムーズでした。 櫓内の掃除の方は、掃除そっちのけで、櫓の説明などもしてくれたのですが、非常に詳しくて分かりやすい説明をしてくれました。 普段は人が多いので、 こういう説明はしないそうですが、人が少ない時は解説してくれたりするそうです。 早起きは三文の徳ですね^^ ちなみに彦根城を全て見終わって駐車場に戻るときに、 城への入り口を見たら、凄い人の行列ができてました。 やっぱり早めに動いていてよかった〜^^


〜 彦 根 城 〜



彦根城は江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城(標高50m)である。 山は「金亀山」との異名を持つため、 城は金亀城ともいう。 多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。 明治時代初期の廃城令に伴う破却を免れ、天守が現存する。  天守と附櫓及び多聞櫓の2棟が国宝に指定されるほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。  中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少である。 一説では、大隈重信の上奏により1878年(明治11年)に建物が保存されることとなったのだという。

天守が国宝指定された四城の一つに数えられる。 姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストに掲載されたが、 20年以上世界遺産登録は見送られている。 滋賀県下で唯一、城郭建築が保存された。 by Wikipedia


チケット売り場に到着しましたが、まだ開場まで3分位ありました。 するとなんと、有名な「ひこにゃん」があるではありませんか! これは記念撮影をしなければいけません。  今日は管理人が三脚を忘れてしまったので、入れ替わりで写真を撮っていると、スタッフの方が親切に4人での集合写真を撮ってくれました。 地方の方は皆さん良い方ばかりです。 


皆で記念撮影



城っぽくなってきましたね〜。 彦根城は平城とは言っていましたが、標高50mのところに建っているそうです。 なので、入口を入ってから、上り坂が続きます。  写真の上のほうに橋がかかっているが見えると思うのですが、これは敵が攻めてきたときに、城に入れないように、橋を落とすんだそうですよ。 この橋を落とすことで、 空堀ができるとのこと。 このような空堀が城の中に何か所もあります。


入口を過ぎると緩やかな上り坂が続きます

城壁と橋です



城に向かう途中に、昔の倉庫のような建物があり、中を見学することができました。 建物の中の柱などを見ますと、かなり年数が経っていることが分かります。 もしかしたらこれも 江戸時代のものがそのまま残っているのかもしれませんね。






おーっと、ここでお土産屋を発見!! そう言えば今回の旅行ではまだ「西」氏がTシャツを購入していません!! 城の開場時刻は8:30でありましたが、まだお土産屋さんは 開店の準備中って感じでしたね。 でも店員さんは色々丁寧に対応してくれていました。 今回「西」氏はオレンジ色の「ひこにゃんTシャツ」をご購入〜。 





徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。  佐和山城は石田三成が改築した後は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」の一つともいわれたが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを 嫌い、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。 その後直継が家督を継いだが、 幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山に彦根城の築城を開始した。

築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名が手伝いを命じられる天下普請であった。 1606年(慶長11年)2期までの工事が完了し、 同年の天守完成と同じ頃に直継が入城した。 1616年(元和2年)彦根藩のみの手により第3期工事が開始された。 この時に御殿が建造され、1622年(元和8年)すべての工事が完了し、 彦根城が完成した。 その後、井伊氏は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至った。

なお、筆頭家老・木俣家は1万石を領しているが、陣屋を持たなかったため、月20日は西の丸三重櫓で執務を行っていた。 これは、徳川統治下の太平の世においては、 城郭というものがすでに軍事施設としての役目を終えて、その存在理由が、権勢の象徴物へと変じたためであり、江戸幕府の西国への重要な備えとしての役割を担う彦根城も、 彦根藩の各組織の管轄で天守以下倉庫等として江戸時代の大半を過ごした。

幕末における幕府の大老を務めた井伊直弼は、藩主となるまでをこの城下で過ごしている。

明治に入り各地の城が廃城令で破壊・売却されていく中、彦根城も例外ではなかった。 しかし、明治11年10月、明治天皇が巡幸で彦根を通過した際に城の保存を命じたため 破却は逃れたという。 この他に、巡幸に随行していた大隈重信が城の破却中止を天皇に奉上したという説、天皇の従妹にあたるかね子(住持攝専夫人)が奉上したという説もある。 by Wikipedia


こちらが彦根城です。 天守は国宝とのことですが、外装は結構新しいですね。 ちょっと趣がないような気も・・・ 以前行った岡山城を思い出してしまいました^^;  城と言うと、大阪城や名古屋城のように何層にも重なった大きなものを想像しますが、彦根城はこじんまりとしています。 でも天守などは国宝になっているので、中に入ったら感動しちゃうかもね!





彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、 どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くある。 建物や石材の移築転用は縁起担ぎの他、コスト削減と工期短縮のために行われたもので、名古屋城や 岡山城や姫路城、福岡城など多くの城に同様の伝承が伝わっている。 時代劇の撮影などでも使われる天秤櫓は、長浜城から移築したといわれている。 この天秤櫓は、堀切の上の掛橋を渡った突き当たりにあたる、長い多聞の左右の端に2重2階の 一対の隅櫓を構え、あたかも天秤ばかりのような独特な形をしている。 通し柱を用いず、各階ごとに積み上げられた天守は、3層3階地下1階の複合式望楼型で「牛蒡積み(ごぼうづみ)」といわれる石垣で支えられ、2重目以上の窓はすべて華頭窓を配し、 最上階には実用でない外廻り縁と高欄を付けている。 各重に千鳥破風、切妻破風、唐破風、入母屋破風を詰め込んだように配置しており、変化に富む表情を見せる。  大津城天守(4重5階)を3重に縮小して移築したといわれ、昭和の天守解体修理のときに、天守の用材から転用されたものと見られる部材が確認されている。 階段の傾斜角度は、62度。 彦根城は、戦のための城で、壁の鉄砲穴も、外からは見えない様に作られており、敵が中に攻め入っても、階段をのぼってくる敵を、 上から突き落せるように急な角度になっている。 はしごのような階段はただ上の小さな掛かりが掛かっているだけであるので、敵が登らんとすれば、蹴って階段を落とす 構造となっている。 by Wikipedia


中に入りますと、かなり時代を感じさせるような雰囲気で、外装とは全く異なります。 中は非常に良い雰囲気で「城!」って感じがしますよ。 階段などは急勾配で上り下りが大変です。  まさに戦のための作りですね。


こちらが城への入り口です。


井伊直弼の銅像がお出迎え〜


城の中はこんな雰囲気です。


矢狭間です。鉄砲狭間等も沢山ありました。


ものすごく急な階段です。怖い・・・


天守閣に到着しました〜^^


天守からの景色 天気がよかったらね〜


天守からの景色 琵琶湖方面の景色です。


城内に展示されていた資料Part1


城内に展示されていた資料Part2


城の窓から瓦の感じを激写!


昔の人も窓から琵琶湖を眺めてたんですね〜


城から天秤櫓に向かう途中の広場


これが天秤櫓です。


掃除の係の方が彦根城について説明してくれました。


こちらが彦根城の空堀です。




〜 玄 宮 園 〜



城の見学を終えた一同は、今度は「玄宮園」に向かいました。 丁度城から東の方角に降りていきますと、見事な庭園が姿を現します。

玄宮園の原形となる庭園が造営された時期や規模は明確ではないが、江戸時代初期の延宝6年(1678年)に彦根藩4代藩主井伊直興が整備したといわれる。 江戸時代後期の 文化10年(1813年)には第11代藩主井伊直中の隠居屋敷として再整備され、今日に近い形に整えられたといわれる。 玄宮園は御殿部分の「楽々園」に対して名付けられた ものであるが、この呼称がいつ頃から用いられるようになったかははっきりしない。

玄宮園の位置は城内の北東部で内濠と琵琶湖の入江(松原内湖)に挟まれた第二郭と呼ばれる曲輪内にあり、築城当初は重臣川手主水の屋敷が建てられていたが、主水が 大坂夏の陣で死亡してからは空家となり、寛永元年(1624年)ごろに下屋敷が建設されたといわれる。 入江側は1940年代に第二郭の間近まで干拓が進み現在は堀状の溝で 囲まれる形となっているが、往時は庭園北側の水門から舟で琵琶湖まで出られるようになっていた。

園内は中国湖南省の洞庭湖にある玄宗皇帝(唐時代)の離宮庭園を参考に、「瀟湘八景」を「近江八景」に置き換えて作庭されたといわれる。 天守を借景として、中心の 入り組んだ池には4つの島と9つの橋が架かり、畔には臨池閣、鳳翔台、八景亭などの建物が配されている。 by Wikipedia



玄宮園の横には地震のときの避難所がありました。


この景色は趣があるわ〜


このように小さな橋や島が点在します。


やっぱり橋は木造が一番情緒がありますよね。


ここで抹茶を一服できます。(500円也)


今日の玄宮園で一番お気に入りのショット。



玄宮園での見学を終え、一同は駐車場に向かいます。 玄宮園は城のお堀のすぐ脇にあったのですが、どーもこの道、夕べ散歩しているときも通ったような気が・・・ 昼間だとこんな景色なんですね。  歩いて入る途中に白鳥を発見!! 久々のバードウォッチング炸裂です! やはり鳥の写真が釣りの時みたいに盗賊カモメじゃないと様になりますねっ!! ・・・ちなみにさっきから白鳥白鳥って言っているけど合っているよね!?


お堀の景色


白鳥をバードウォッチン!!



〜 パ ク パ ク モ ン ス タ ー 〜


彦根城を見学して大満足の一同ですが、そういえば、朝から何も食してない・・・ 結構腹減りましたよ〜。 とぼとぼ駐車場に向かっているとき! ちょうど今日はマラソン大会??かなにかを やってたみたいで、彦根城の周辺に屋台が出てました。 何を売っているのかな〜と覗いてみると「はしまき」だって。 こんなの見たことないですよね。 これはもう食さなければなりません!!  「はしまき4つ〜! お願いします〜!」

見てみますと、割りばしにお好み焼きのようなものが巻きついています。 だから「箸巻き(はしまき)」なのか〜。 食べてみると、具は何が入っているか分かりません(というかあまり具は入ってない!?)が、 ソースと小麦粉がよく合います。 食事と言うより「おやつ」といった感じでしょうか。 珍しいもの食せたし、お腹も少し膨れたし、大満足です。


はしまきの屋台


これが「はしまき」です〜



「はしまき」も食したし、次の観光地に参りますか! と駐車場に向かっていくと、あれあれあれ〜? 道路を挟んだ反対側にソフトクリームの置物がっ! しかもクリームの部分が緑色しています。  夕べ飲み屋の下でカップタイプのソフトクリームを食しましたが、まだちゃんとしたソフトクリームを食していません!! ということで吸い寄せられるようにお店に・・・

どうやらこのお店はお茶屋さんのようですね。 中には様々なお茶屋、土産物が売られています。 でも一同はそんなものには目もくれず「ソフトクリーム4つお願いします〜!」  どうでしょう〜。 これは美味そうです! 普段抹茶のソフトクリームはあまり食しませんが、これは超まいう〜でしたよ〜。 クリームの部分を見ますと、抹茶のクリームが2種類ミックスになっています。  1つは抹茶の味が濃いクリーム、もう1つは牛乳もプラスされたマイルドな抹茶クリーム。 こここれは超まいう〜!! 抹茶の刺激的な味と、マイルドな味がベストマッチして、すばらしいハーモネーです!!  皆様も彦根城にお越しの際は是非お試しください。


源三郎さんの店先の置物


抹茶ソフトクリーム×4