比 叡 山 延 暦 寺

一同がまず向かったのが、比叡山延暦寺です。 小学生だか中学生だかの教科書にも出てくる非常に有名なお寺です。 最澄が開いたお寺ですが、この名前にも聞き覚えがありますよね。  他にも織田信長が焼き討ちにしたのでも有名ですし、2年前にやっていた大河ドラマ「平清盛」でも何度も登場しました。 歴史的にも非常に大きな影響を与えたお寺でもあります。

米原駅から比叡山までは100kmちょいあります。 湖岸道路は割と空いているのですが、大津の市街地に入ると急に渋滞発生!! 琵琶湖大橋を渡る前は畑ばかりだったのですが、 橋を渡った瞬間から様々な商業施設や食べ物屋などが立ち並びます。 かなり栄えているようですね〜。 比叡山に入るには、この渋滞を抜けなければいけないようです。 また比叡山に 行くには途中から有料道路を使わないといけないみたい。 この有料道路は「比叡山ドライブウェイ」といいまして、全長8.1kmの自動車道です。 道路は日光のいろは坂のように グネグネした道で、所々紅葉が色づいていました。 途中に琵琶湖を展望できるところもあります。 結構標高が高いので、大きな琵琶湖もよく見えます。

有料道路を登っていくと、最初に出てくるのが「横川」という区画です。 比叡山延暦寺は「東堂」「西塔」「横川」の3つの区画に分かれています。 我々が最初に訪れたのは、 このうちの「横川」です。 でも延暦寺って結構広くて、横川を見学するだけで1時間30分はかかりましたよ。 このため、多分メインの区画であろう「東堂」「西塔」 には行けませんでした・・・>_< ちょっと見積りが甘すぎましたね^^; いつか延暦寺はリベンジしたいと思います。 今回は「横川」についてご紹介します。



延暦寺は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。 延暦寺の名より比叡山、また叡山と呼ばれることが多い。 平安京(京都)の北にあったので 北嶺(ほくれい)とも称された。 平安時代初期の僧・最澄により開かれた日本天台宗の本山寺院である。 住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。

最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。 天台法華の教えのほか、密教、禅、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て 大きな力を持った。 特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。

「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔、西塔、横川など、三塔十六谷の堂塔の総称である。 延暦7年(788年)に最澄が一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。  開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(824年)のことであった。

延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、 新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。 比叡山は文学作品にも数多く登場する。 1994年に、ユネスコの 世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。


駐車場から入口の方に向かいますと、何かイベントがあったのか、抽選のガラガラがありました。 無料で引けるということで4人共引いたのですが、全員ハ〜ズ〜レ〜^^; でも当たっても商品はアメちゃんとかそんな感じのやつでした。  こういう大きな寺や神社に行くと、大体入口は鳥居があったりすることが多いですが、横川の入口は写真のような人工物でした。 また入口を入りますと、道の脇に写真のような絵の看板が立っており、延暦寺についての色々な説明が書いてありました。


横川入口

比叡山前衛的アート


開創の最澄は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766年)、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれた。 15歳の宝亀11年(781年)、近江国分寺の僧・行表のもとで 得度し、最澄と名乗る。 20歳の延暦4年(786年)、奈良の東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となった。 青年最澄は、思うところあって、 奈良の大寺院での安定した地位を求めず、郷里に近い比叡山にこもって修行と経典研究に明け暮れた。 最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智の 著述になる「法華三大部」(「法華玄義」、「法華文句」、「摩訶止観」)を研究した。

延暦7年(789年)、最澄は三輪山より大物主神の分霊を日枝山に勧請して大比叡とし従来の祭神大山咋神を小比叡とした。 そして、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる 小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。 この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(824年)のことであった。  時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。

延暦21年(803年)、最澄は還学生(短期海外研修生)として、唐に渡航することが認められ、延暦23年(805年)遣唐使船で唐に渡った。 最澄は、霊地・天台山におもむき、天台大師智直系の 道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学んだ。 また、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、?然(しゃくねん)禅師より禅を学んでいる。  このように天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持っていた。 後に延暦寺から 浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源がここにあるといえる。 by Wikipedia

比叡山で修行した著名な僧
良源(慈恵大師、元三大師 912年 - 985年)比叡山中興の祖。
源信(恵心僧都、942年 - 1016年)『往生要集』の著者
良忍(聖応大師、1072年 - 1132年)融通念仏宗の開祖
法然(円光大師、源空上人 1133年 - 1212年)日本の浄土宗の開祖
栄西(千光国師、1141年 - 1215年)日本の臨済宗の開祖
慈円(慈鎮和尚、1155年 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。
道元(承陽大師、1200年 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖
親鸞(見真大師、1173年 - 1262年)浄土真宗の開祖
日蓮(立正大師、1222年 - 1282年)日蓮宗の開祖


横川は本堂にあたる横川中堂を中心とする区域です。 西塔から北へ4キロメートルほどのところにあり、第3世天台座主慈覚大師円仁によって開かれました。 本堂は、遣唐使船をモデルとした舞台造りの横川中堂です。 他に往生要集著者の源信僧都が隠居していた 恵心堂やおみくじ・魔除けの角大師で有名な元三慈恵大師良源を祀っている四季講堂(元三大師堂)などがあります。

横川の中に入りますと、最初にお目見えするのが、この「横川中堂」です。 色は赤で統一され、厳かな雰囲気を醸し出しています。 舞台造りで全体的に見て船が浮かんでいる姿に見えるのが特徴です。 お堂の中央部が2メートル程下がっていて、そこに本尊として 慈覚大師作と伝えられる聖観音菩薩が祀られています。 現在の建物は昭和46年に再興された建物です。


横川中堂Part1

横川中堂Part2


横川中堂を過ぎ、ゆるやかな上り坂を上がっていくと、そこに鐘がありました。 前を行くカップルが鐘を鳴らしていたのを見て、もう鳴らしたくてしょうがありません。 どうやらこの鐘は誰がついても 良いみたい。 実は管理人はこういうちゃんとした鐘をつくのはこれが初めて。 除夜の鐘などで参拝客が鳴らしたりするのはテレビで見たことがありますが、実際に自分でやってみると結構感動しますね〜。  しかも非常に音が大きいのに驚きました。 「西」氏が鐘をつくときに、鐘の下に「頭」氏が立ったのですが、鐘をついた瞬間に「頭」氏の鼓膜が破れていました(笑) でもこういう鐘って、 時刻を周囲の人に知らせる役割も持っていると思うのですが、こんなに何度もついたら、今何時が分からなくなってしまいますね^^;


いい感じの鐘

鼓膜が破れる直前の「頭」氏




こちらは「恵心堂」といいます。

恵心僧都源信の旧跡であり、阿弥陀如来を祀り、念仏三昧の道場です。 源信はこの恵心堂において『往生要集』や『二十五三昧式』などを著わし、後の浄土宗や浄土真宗などの源となる日本浄土教の基礎を築きました。


こちらは「元三大師御燈明」といいます。 全然違いますが、「岡」氏は麻雀の役「大三元」と間違えていました^o^ でもぱっと見は似てる・・・

元三大師(912〜985年)が、女人禁制で会えない母月子(物部氏の娘)(比叡山のふもとの千野、苗鹿寺にいる)に 消息を知らせるために、年1回この地で、松明を灯し、元気でいることを知らせたと言われています。


「四季講堂」です。 真ん中の通路の脇に石が敷き詰められていますが、この石が日本庭園とかでよくある模様になっているんですよ。 誤って石の中に入ってしまいましたら、仕込み杖を持った比叡山の兵僧に怒られてしまいましたm(_ _)m

慈恵大師(良源)(元三大師)の住居跡と伝えられる元三大師堂は、康保4年(967年)、村上天皇の勅命によって四季に法華経が論議されたことから四季講堂とも呼ばれています。 現代のおみくじの形は、元三慈恵大師良源が考え出したと言われており、 この元三大師堂はおみくじ発祥の地となります。 ここでは、角大師(つのだいし)のお姿を授与していて、魔除けの護符になっています。


こちらは「比叡山行院」といいます。 もう辺りは大分暗くなり始めています。

ここは天台宗の僧侶を育成する場所なんだそうです。 春・夏・秋の三期があり、春と秋は在家や寺の子弟向け、夏は学生(叡山学院や大正大学生)用とされています。 定められた期間の中で、天台宗の歴史から作法や護摩などを学んでいきます。


横川は一応グルリと一周できるようになっているのですが、途中何か所か枝葉のように分かれ道があります。 時間的に東堂や西塔には行けそうもないので、横川の全部の建物を見てみよう!ということで 「定行院」という方に行ってみたのですが、これがまたすごい急坂!! 行きは下りだったのですが、いくら行っても先が見えません! この坂はいったいどこまで続くの!? こういう 長い坂を降りると、途中から膝が笑っちゃうんですよね。 なんとか下りきったのはいいですが、最初の駐車場に戻るには、今下ってきた道をそのまま戻るしかないみたい・・・ ってこの坂は相当 長かったですよ!? これ上るの!? 「岡」氏「西」氏「頭」氏はチャッチャと上っていましたが、ぶ〜で〜の「増」氏はちょっと厳しい。。。 途中、後ろ向きになって坂を上がったりしながら、 ようやく最初の分岐点にたどり着きました。 今日は本当によく歩いた一日です^^;


よ−やく「定行院」に到着しました〜。 「定行院」という建物もありましたが、その奥には銅像もありました。 これは建物、銅像のどちらがメインなんでしょう。 なんとなく今回は銅像を載せておきます^^;

調べてみますと、この銅像はかの有名な日蓮上人の銅像なんだそうですよ。 でも、あの坂を上り下りする割には感動の薄い銅像でした^^; ってそんなこと言っちゃ罰があたるねm(_ _)m  日蓮は、鎌倉時代の仏教の僧。 鎌倉仏教の宗旨のひとつ日蓮宗(法華宗)の宗祖。 死後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。


〜 比叡山ドライブウェイ 〜

先程少しふれました、比叡山ドライブウェイには所々景色を見るためのスペースがあります。 我々も途中でちょろっと寄ってみました。 ここはなんという展望所なのかは分かりませんが、 車が数台停められるようになっておりまして、その先から琵琶湖を一望することができます。 ここらへんから見える琵琶湖というのは南側にあたり、大分幅が狭い部分なのですが、 それでもデカイ! やはり日本一の湖ですね!! そして眼下に広がるのは大津市街です。 帰りはすっかり日が暮れていましたが、夜景も結構綺麗でしたよ。

また比叡山はそんなに高い山ではないのですが、やはり標高が少しあるということで気温が低いのでしょう、モミジの木はあちらこちらで紅葉していました。


展望台から琵琶湖をのぞむ

比叡山は結構紅葉していましたよ〜