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瑞鳳殿に入る前には、こちら瑞鳳寺があります。瑞鳳寺は宮城県仙台市にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院です。江戸時代初期の寛永14年(1637年)、仙台藩2代藩主伊達忠宗によって、藩祖伊達政宗廟の瑞鳳殿とともに政宗の菩提寺として香華院の院号で創建されました。境内には、高尾門や鐘楼、伊達忠宗寄進の梵鐘などのほか、殉死した家臣や戊辰戦争、西南戦争での戦死者らの墓があります。 |
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こちらが瑞鳳殿入り口の風景です。さすがに杜の都と呼ばれるだけあって木が多いような気がします。ただし、こちらにあったのは花粉症持ちには厳しい杉の木です。しかも、この日は風が強く、かなり花粉が飛んでいたのではないでしょうか。 ここら辺の杉の木は大変見事なもので、樹齢は数百万年ありそうです。木の高さも50mはゆうにありそうです。瑞鳳殿の敷地には相当数植えられています。 |
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こちらが有名な瑞鳳殿です。 仙台藩祖伊達政宗は生前に自らの死後は、遺骸を仙台経ヶ峰に葬ることを遺言し、寛永13年(1636年)没しました。 政宗の後を継いだ二代藩主伊達忠宗は、政宗の遺言に従い、翌寛永14年(1637年)10月政宗の御霊屋(おたまや、霊廟)を建立し瑞鳳殿と命名しました。 瑞鳳殿は、本殿、拝殿、唐門、御供所、涅槃門からなり、桃山文化の華麗な建築を誇っています。昭和6年(1931年)には国宝に指定されています。 しかし、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)7月10日、仙台はアメリカ空軍による仙台空襲を受け大被害を蒙り、瑞鳳殿も仙台空襲により焼失してしまいました。 この時、二代忠宗を祀る感仙殿、三代綱宗の善応殿も共に焼失しています。 昭和49年(1974年)瑞鳳殿再建工事に先立ち、跡地の発掘調査が行われて伊達政宗の遺骨や副葬品が出土しました。 昭和54年(1979年)再建工事により本殿、拝殿、涅槃門、御供所および感仙殿、善応殿が再建されました。 |
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不思議なものを見つけたのでご紹介です。これは自動ドアなんです。この園内は入口と出口が決まっており、おそらく逆走を防ぐためのものと思われます。なので、逆側からは開きません。園内にはここに一箇所のみ設置されていますが、あまり存在意義が分からない自動ドアでした。。。 |
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こちらが二代忠宗を祀る感仙殿です。 伊達 忠宗は、江戸時代初期の大名である。陸奥国仙台藩の第2代藩主。伊達政宗の次男。母は田村清顕の娘・愛姫。 正室は徳川家康の娘・清雲院(市姫)と婚約していたが夭折したため、池田輝政の娘・振姫(徳川秀忠の養女)。 生母が政宗の正室・愛姫(陽徳院、田村清顕の娘)である。庶長子であった兄・秀宗は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に父・政宗とともに参陣し、戦後、大御所徳川家康から参陣の功として 政宗に与えられた伊予宇和島10万石を別家として継ぎ、その初代藩主となった。そのため、本家の後継者と定められた。幼名は虎菊丸。1636年(寛永13年)、父・政宗の死去に伴い、 38歳で家督を相続する。忠宗は徳川氏から妻を迎えて幕府との関係を強めると共に、仙台藩の地位と基盤固めに務めて大いに功績を残したため、『守成の名君』と評された。 1658年に死去、享年60。 |
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こちらが三代綱宗を祀る善応殿です。 伊達 綱宗は、陸奥国仙台藩第3代藩主で、伊達氏第19代当主。父は第2代藩主・伊達忠宗(綱宗は忠宗の六男)。母は後西天皇の母・逢春門院の妹・貝姫。 幼名は巳之介。六男であったが、兄・伊達光宗の夭折により嫡子となる。万治元年(1658年)、父・忠宗の死により家督を継いで第3代藩主に就任。 しかし綱宗自身が若年で暗愚だったため、酒色に溺れて藩政を顧みなかったこと、さらには叔父に当たる一関藩主・伊達宗勝(伊達政宗の十男で、忠宗の弟)の政治干渉、そして家臣団の 対立などの様々な要因が重なって、藩主として不適格と見なされて幕命により万治3年(1660年)、21歳の若さで隠居させられた(綱宗隠居事件)。家督は綱宗の2歳の長男・綱村が継いだ。 綱宗自身はその後、作刀などの芸術に傾倒していったといわれる。 綱宗は正徳元年(1711年)、江戸で死亡。遺体は仙台に運ばれ、祖父政宗、父忠宗が眠る経ヶ峯に葬られた。綱宗の墓所は善応殿と呼ばれた。 |