広島平和記念公園

麗ちゃんのお好み焼で、腹も満ち足りたので、お次は広島市内観光に向かいます。 今日の帰りの飛行機が16:40発で、いつもよりも大分遅めなため、 3日目も観光する時間が取れました。 ちなみにいつもの旅行では最終日は午前中か正午過ぎの飛行機で羽田に向かい、そのまま羽田空港のライオンで 反省会ってパタンでしたが、今回は珍しく3日目も余裕があります。

平和記念公園には、お馴染みの広電のチンチン電車で参ります。 乗車時の時刻は11:30頃でしたが、市電は激混みでした。 広島駅から約15分位で 平和記念公園に到着します。 広電の市内は運賃150円で統一されています。 運転間隔も短く、まさに市民の足としての役割を感じます。

しかし、平和記念公園も公園内を観光するのはもう20年位ぶりになるかもしれません。 原爆資料館を見学したのは確か小学校1年か2年だったと記憶しています。  これだけ年月が経っても原爆資料館の展示物や記念式典のことは忘れられません。 No More HIROSIMA!


「原爆ドーム その1」

広島県物産品の販売促進を図る拠点として造られた広島県物産陳列館は、大胆なヨーロッパ風の建物で、県下の物産品の展示・販売のほか、博物館・美術館としての役割も担っていました。  その後、広島県立商品陳列所、広島県産業奨励館と改称し、戦争が激しくなった1944(昭和19)年3月には産業奨励館としての業務が廃止され、内務省中国四国土木出張所や広島県地方木材・ 日本木材広島支社などの統制会社の事務所として使用されていました。
「原爆ドームその2」

原爆の投下により、建物は一瞬にして大破し、天井から火を吹いて全焼、中にいた30人余りの人々は全員死亡したと伝えられています。  なお、前夜宿直に当たっていた県地方木材会社の4名のうち、1名は原爆投下直前の8時前後に自転車で帰宅し自宅前で被爆し負傷したものの、 原爆投下当日に産業奨励館に勤務していた人物の中で唯一の生存者となったそうです。

爆風がほとんど真上から働いたため、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠とともに象徴的な姿をさらしました。  そして、その形から、占領が明けた頃には「原爆ドーム」という言葉が広く使われ始めました。
「原爆ドームその3」

ドームの保存については、「原爆による惨禍の証人として保存する」という意見と、「危険物であり、被爆の惨事を思い出したくないので取り壊す」という意見が対立しましたが、 1966(昭和41)年に永久保存を決定、広く募金を呼びかけ、これまで3度の保存工事が行われました。

一時は取り壊される可能性が高まっていたが、流れを変えたのは1人の女子高校生、楮山ヒロ子の日記といわれています。 彼女は1歳のときに被爆し、15年後の1960年、「あの痛々しい産業奨励館だけが、 いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろうか」等と書き遺し、被爆による放射線障害が原因とみられる急性白血病のため亡くなりました。  この日記を読み感銘を受けた平和運動家の河本一郎が中心となって保存を求める運動が始まり、1966年に広島市議会は永久保存することを決議するにいたったそうです。
「原爆ドームその4」

人類史上最初の原子爆弾による被爆の惨禍を伝える歴史の証人として、また、核兵器廃絶と恒久平和を求める誓いのシンボルとして1996(平成8)年12月「世界遺産条約」に基づき ユネスコの世界遺産一覧表に登録されました。
「原爆の子の像」

三脚のドーム型の台座の頂上に金色の折鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像(平和な未来への夢を託している)が立ち、左右に少年少女の像(明るい未来と希望を象徴)があります。  佐々木禎子さんをはじめ原爆で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め、世界に平和を呼びかけるものです。
「平和の灯」

台座は、手首を合わせ、手のひらを大空にひろげた形を表現しています。 水を求めてやまなかった犠牲者を慰め、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求するために建築されました。 

全国12宗派から寄せられた「宗教の火」、溶鉱炉などの全国の工場地帯から届けられた「産業の火」が1945(昭和20)年8月6日生まれの7人の広島の乙女により点火されました。  この火は、1964(昭和39)年8月1日点火されて以来ずっと燃え続けており、「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴となっています。  毎年、核兵器廃絶と被爆者援護の充実を訴えて、広島県内の市町村を一周する「平和の灯リレー」が行われています。また、1994(平成6)年に広島市で開催されたアジア競技大会の 聖火に点火されるなど、各種行事において平和のシンボルとして採火されています。
「原爆死没者慰霊碑」

世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を、平和都市として再建することを念願して設立したものです。  碑文については主語をめぐるさまざまな議論がありましたが、広島市は碑文の趣旨を正確に伝えるため、日・英の説明板を設置し、 「碑文はすべての人びとが原爆犠牲者の冥福を祈り戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である  過去の悲しみに耐え憎しみを乗り越えて全人類の共存と繁栄を願い真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれている」と記しています。

中央の石室には、国内外を問わず、原子爆弾に被爆し、亡くなられた方の名前を記帳した原爆死没者名簿が納められています。名簿は関係者の申し出により書き加えられ、 2010(平成22)年8月6日現在で、97冊(269,446人の名前が記帳された96冊と「氏名不詳者 多数」と記された1冊)になっています。
「祈りの泉 & 広島平和記念資料館」

「水を水を」と言いながら息絶えた原爆犠牲者の御霊に捧げ、慰める心を込めて建設された泉です。 東西27m、南北19mの長円形の池に多数の噴水を設け、夜間は色彩照明を行っています。 この噴水は1964(昭和39)年11月、広島銀行が建設し、広島市に寄贈しました。 当時、西日本一の豪華な噴水と言われ、毎分11トンの水を10mの高さまで噴き上げています。  夜間は赤、青、黄、緑、乳白色の水中カラーランプ153灯の照明で彩られます。

〜施 設 情 報〜

「平和記念公園」