島 原 城

諫早湾干拓堤防道路を渡って雲仙市に入り、更に南下して島原市に入りました。 ここまで長崎の道路は市の中心部など では信号も多く、関東の道路と同じような感じですが、少し中心部を離れると信号がまばらになり、ほぼノンストップで 移動できます。 これなら燃費も良いし、所要時間も読みやすいです。

さて、島原と言えば「島原の乱」で有名ですよね。 島原最初の観光スポッツは「島原城」です。 国分寺連合の旅行では ほぼ100%に近い位お城を見学します。 でも正直九州のお城って、熊本城しか知らなかったのですが、島原にも立派な お城が建っているんですね〜。 もちろん天守は昭和に入ってから再建されたものですが、外見はなかなかの見栄えですよ。

お城に着き、車から出ると、外は強風が吹き荒れておりました。 管理人以外の皆さんはシャツの上にジャンパーを 着ておりましたが、管理人はいつものように、Tシャツとフリースだけ。。。 でも体温調節機能がバカになっているので 少し涼しい程度でした。



島原城は1618(元和4)年から、松倉豊後守重政が4年ないし7年の歳月をかけて築いたものです。 五層天守閣を中核に、 大小の櫓を要所に配置した、安土桃山期の築城様式を取り入れた壮麗な城でした。 それ以来約250年間、4氏19代の居城 として、数多くの物語が生まれました。 しかし、明治の御一新で惜しくも解体されてしまいました。 天守閣をはじめ すべての建物をなくした島原城は、石垣とお掘だけを残して長年の風雪に耐えてきました。 島原人の心のよりどころ として「お城」の復活を待ち続けてきましたが、その熱意が実って1960(昭和35)年にまず「西の櫓」が、 続いて1964(昭和39)年に「天守閣」を復元することができました。 そのとき館内を資料館にして、収集した史・資料を 「キリシタン史料」「郷土史料」「民俗史料」と各階毎に展示しています。 その後、1972(昭和47)年には「巽の櫓」を 復元して、郷土出身者で文化勲章受賞者である北村西望先生の彫塑を展示する「西望記念館」を開館しました。  さらに1996(平成8)年には、雲仙普賢岳噴火災害を映像と各種資料で紹介する「観光復興館」を開きました。


かつてここには森岳と言う小山がありました。 そこへ何万と言う労力と長い歳月をかけて、1620年代に島原城が誕生 しました。 同時に島原城下町を整備しました。 城郭は南に偏って本丸があり、そこには33メートル(17間)の天守が そびえ立ち、北隣に二の丸が廊下橋で結ばれていました。 さらに北側に三の丸があって、御殿が置かれました。 その 外郭は東西約360メートル、南北約1260メートル。 周囲に約3900メートルの塀をめぐらせて、要所には大小16の櫓を 配置していました。 その内部に上士屋敷を、外部に下士屋敷を置いて、4万石の大名にしては過分な城であったようです。

石垣は緩やかな曲線を描きながら垂直近くに立ち、築後390年にもなりますがびくともしません。 そこには屈曲(突角)が 13箇所見られます。 これは防衛上の死角をなくすためだけでなく、城に権威を与え、またそれが美観を醸し出しています。

お堀もまた美しいです。 春の菖蒲、夏は蓮の花に彩りされてすがすがしい。 冬はその蓮の枯葉の間に澄み切った空と 天守閣を写してと、風情があります。 さすが兵法の大家、築城の名人、松倉豊後守重政の作です。

現在の島原城は1964(昭和39)年の建築で、藩日記や諸記録、大正末の島原城絵などを元に築城当時のように復元された ものです。 年間20万から30万人が訪れて、島原観光の名所となっています。 



お約束の顔出しタ〜イムッ「岡」氏「西」氏

くノ一のお嬢さん

駐車場から城の入り口までは30秒で到着します。 入口付近には昔の恰好(?)にコスプレした女性が立っておりましたので 撮影させて頂きました。 駐車場の忍者の女性といい、入口付近のこの女性といい、島原城の方はコスプレがお好きです^^  そして管理人もコスプレがお好きです^^



さあ〜記念撮影も完了したところで、お城に入城してみたいと思います。 城の中は5階建になっており、城の中心部に 階段が設置されています。 各階にテーマがありまして、それぞれ1階が「キリシタン史料」、2階が「郷土史料」、 3階が「民族史料」、4階が「休憩所」、5階が「天守・展望台」になっています。 それでは順々にご紹介して いきましょう〜。


〜 1階 キリシタン史料 〜







〜 2階 郷土史料 〜







〜 3階 民族史料 〜







〜 5階 天守・展望台〜

天守の頂上にやって参りました〜。 諫早のほうでは雨が降る一幕もありましたが、島原城ではなんとか少し薄日もさして いました。 おかげで、天守からの眺めも最高です〜。 先程諫早干拓道路からも見えた雲仙岳が綺麗に見えますよ。  山あり、海あり、川ありで島原は結構良い土地ですね〜。 さらに人もとても優しくて都会育ちだと、つい人を疑って しまいますが、そんな自分が恥ずかしくなってしまいます>_<









〜 ご参考 島原の乱 〜

島原の乱は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。 島原におけるキリスト教再興を目的とした一揆だった。  島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれる。 寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。

島原の乱は、松倉勝家が領する島原藩のある肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、これに藩によるキリシタンの迫害、 更に飢饉の被害まで加わり、両藩に対して起こした反乱である。 島原はキリシタン大名である有馬晴信の所領で領民のキリスト教信仰も盛んであったが、慶長19年(1614年)に有馬氏が転封となり、 代わって大和五条から松倉重政が入封した。 重政は江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣したり、島原城を新築したりしたが、そのために領民から年貢を 過重に取り立てた。 また厳しいキリシタン弾圧も開始、年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し拷問・処刑を行ったことがオランダ商館長ニコラス・クーケバッケルやポルトガル船長の 記録に残っている。

次代の松倉勝家も重政の政治姿勢を継承し過酷な取り立てを行った。 天草は元はキリシタン大名・小西行長の領地で、関ヶ原の戦いの後に寺沢広高が入部、次代の堅高の時代まで島原同様の圧政と キリシタン弾圧が行われた。



過酷な取立てに耐えかねた島原の領民は、武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化、密かに反乱計画を立てていた。 肥後天草でも小西行長・佐々成政・ 加藤忠広の改易により大量に発生していた浪人を中心にして一揆が組織されていた。 島原の乱の首謀者たちは湯島(談合島)において会談を行い、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた 当時16歳の少年天草四郎を一揆軍の総大将とし決起することを決めた。 寛永14年10月25日(1637年12月11日)、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害、 ここに島原の乱が勃発する。

島原藩は直ちに討伐軍を繰り出し、深江村で一揆軍と戦ったが、兵の疲労を考慮して島原城へ戻った。 一揆軍の勢いが盛んなのを見て島原藩勢が島原城に篭城して防備を固めると、一揆軍は島原城下に 押し寄せ、城下町を焼き払い略奪を行うなどして引き上げた。 島原藩側では一揆に加わっていない領民に武器を与えて一揆鎮圧を行おうとしたが、その武器を手にして一揆軍に加わる者も多かったという。  一揆の勢いは更に増し、島原半島西北部にも拡大していった。 一時は日見峠を越え長崎へ突入しようという意見もあったが、討伐軍が迫っていることにより断念する。

これに呼応して、数日後に肥後天草でも一揆が蜂起。 天草四郎を戴いた一揆軍は本渡城などの天草支配の拠点を攻撃、11月14日に本渡の戦いで富岡城代の三宅重利(藤兵衛、明智秀満の子)を討ち取った。  勢いを増した一揆軍は唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃、北丸を陥落させ落城寸前まで追い詰めたが本丸の防御が固く落城させることは出来なかった。 攻城中に九州諸藩の討伐軍が近づいている事を知った 一揆軍は、後詰の攻撃を受けることの不利を悟り撤退。 有明海を渡って島原半島に移動し、援軍が期待できない以上下策ではあるが島原領民の旧主有馬家の居城であった廃城・原城址に篭城した。  ここに島原と天草の一揆勢は合流、その正確な数は不明ながら、37,000人程であったといわれる。 一揆軍は原城趾を修復し、藩の蔵から奪った武器弾薬や食料を運び込んで討伐軍の攻撃に備えた。 



乱の発生を知った幕府は、上使として御書院番頭であった板倉重昌、副使として石谷貞清を派遣した。 重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍は原城を包囲して再三攻め寄せ、12月10日、20日に総攻撃を 行うがことごとく敗走させられた。 城の守りは堅く、一揆軍は団結して戦意が高かったが、討伐軍は諸藩の寄せ集めで、さらに上使であった板倉重昌は禄が小さく九州の諸侯はこれに従わなかった為、 軍としての統率がとれておらず、戦意も低かったため攻撃が成功しなかったと考えられる。

事態を重く見た幕府では、2人目の討伐上使として老中・松平信綱、副将格として戸田氏鉄らの派遣を決定した。 功を奪われることを恐れ、焦った板倉重昌は寛永15年1月1日(1638年2月14日)に信綱到着前に 乱を平定しようと再度総攻撃を行うが策もない強引な突撃であり、連携不足もあって都合4,000人ともいわれる損害を出し、総大将の重昌は鉄砲の直撃を受けて戦死し、攻撃は失敗に終わった。 

新たに着陣した松平信綱率いる、西国諸侯の増援を得て12万以上の軍勢に膨れ上がった討伐軍は、陸と海から原城を完全包囲した。側衆・中根正盛は、与力20余騎を諸方に派遣して一揆の動きを詳細に調べさせ、 望月与右衛門ら甲賀忍者の一隊が原城内に潜入して兵糧が残り少ないことを確認した。 これを受けて信綱は兵糧攻めに作戦を切り替えたという。

1月6日、長崎奉行の依頼を受けたオランダ商館長クーケバッケルは、船砲五門(ゴーテリング砲)を陸揚げして幕府軍に提供し、さらにデ・ライプ号とベッテン号を島原に派遣し、ポルトガル旗を掲げて 海から城内に艦砲射撃を行った。 しかし砲撃の目立った効果も見られず、また細川忠利ら諸将から外国人の助けを受けることへの批判が高まったため、信綱は砲撃を中止させた。 しかし信綱は、 ポルトガルからの援軍を期待している一揆軍に心理的に大きな衝撃を与えることこそが狙いで、日本の恥との批判は的外れであると反論している。 実際この砲撃による破壊効果は少なかったが一揆軍の 士気を削ぐ効果はあったと考えられている。



島原藩主の松倉勝家は、領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いたとして責任を問われて改易処分となり、後に斬首となった。 江戸時代に大名が切腹ではなく 斬首とされたのは、この1件のみである。 同様に天草を領有していた寺沢堅高も責任を問われ、天草の領地を没収された。 後に寺沢堅高は精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶となった。 

また、軍紀を破って抜け駆けをした佐賀藩主鍋島勝茂も、半年にわたる閉門という処罰を受けた。 重昌の嫡子である板倉重矩も、同じく抜け駆けを行ったことと父親の戦死の責任を問われ、 一年もの謹慎処分を受けている。



島原城の敷地の中には、様々な銅像が建っています。 なぜこんなに銅像があるのか説明書きがあったような気がする のですが、忘れてしまいましたm(_ _)m

中でも面白かったのが、「喝ッ! 少しは反省しなさい!」と書かれた銅像です。 「西」氏が反省しておりました(爆)

少しは反省しなさい!!


なぜか謝る「西」氏






島原城の周りには様々な記念館があります。 観光復興記念館、民具資料館、そして西望記念館です。  この西望記念館は彫塑界の巨匠で、文化勲章を受賞された郷土出身の北村西望先生の米寿を祝して1972(昭和47)年に 開館たものだそうです。 先生の、1世紀に近い長い創作活動の軌跡をたどれる、世界でも類のない美術館で、 その代表作品約70点を展示しています。

彫刻家を志した若き時代の、たくましく力感あふれる独自の作品。 大戦という激動の時代を生き抜いて、平和への希求を 爆発させた平和祈念像。 その平和にかけた願いは、私たちの心に強い印象を刻んでいます。 還暦を超えてもなお力強く、 若々しく再び歩み始め、新たな境地を示すその創作活動。 先生の限りない創作活動には圧倒されます。

こちらが西望記念館です。










なぜか日本人は銅像にお金を置きたがる