松 代 城 跡

善光寺のお次は「松代城跡」にやって参りました。 善光寺を出たのが14:40頃で松代城跡には15:15頃に到着〜、一般道で約30分ほどでした。 善光寺に向かう方面の道路は割と混んでいましたが、松代城跡方面に向かう道は空いていました。  松代城跡というのは最初は石垣があるだけなのかと思っていたのですが、近くに真田の宝物館があったり、武将の住居跡があったりと、結構見応えのある場所でした。

元々この城は「海津城」と呼ばれていたんだそうですよ。 そういえば以前NHKでやっていた「真田丸」でも「海津城」ってよく出てきたような気がします。 戦国時代は武田信玄の領地で上杉謙信と北信濃の支配権を争う上で重要な軍事拠点になっていたそうです。  江戸時代に入ると、田丸氏、森氏に続き、1622年に真田信之が入城したんだそうです。 真田信之は有名な真田幸村のお兄さんですね。 現在は国の史跡に指定されています。 あ〜なんだか大河ドラマを思い出しますよ。


〜松  代  城  跡〜


松代城は、戦国時代に武田信玄によって築城された城といわれ、明治の廃城まで300年余りにわたって北信濃の拠点的場所でした。 廃城後は建物が打ち壊されたために、城としての景観を失い、わずかに石垣が残るのみでしたが、 1981年に現存する城郭建築である新御殿(真田邸)とともに国の史跡に指定されました。 長野市では、1995年より環境整備工事を行って発掘・文献調査をもとに、櫓門・木橋・石垣・土塁・堀などの修理・復元をしました。  2004年4月より、江戸時代の姿に限りなく近い状態で再現され、一般公開しています。 by 長野市HPより

さ〜それでは太鼓門前橋を渡っていざ入城〜。 石垣の外からも見えましたが、中には桜の木が咲いているようです。 お堀には桜の花が塊になる「花いかだ」ができておりました。 こんなに綺麗な花いかだは初めて見ましたよ。


こちらが太鼓門です

綺麗な花いかだですね〜


太鼓門を抜けますと本丸です 眼前には広い広場が広がっています。 桜の木が何本もあり、少し花が散りかけてはいますが、見応えは十分です。 善光寺に引き続き良い花見ができました。

この本丸内には江戸時代中ごろまで政庁や藩主の住居のための御殿がありました。 調査では建物礎石や井戸跡、焼けた土壁など、享保2年(1717)の火災で焼失した御殿の痕跡が多数見つかっています。 しかし度重なる水害の影響により、明和7年(1770)に 城の南西に位置した花の丸に御殿を移しました。


太鼓門と桜


本丸の広場の桜

本丸は結構広いです
海津城跡の記念碑


こちらが松代城の城壁です。 大小さまざまな自然石を巧みに積み上げた特徴的なものです。特に本丸北西の戌亥隅櫓の石垣は松代城内でも古い近世初頭のものと言われており、その高さと勾配の美しさは、当時の石工の技術の高さを物語っています。 石垣の修理工事では、可能な限り特徴を活かし、 明治以降の改変や消失したもの、構造的に不安定になっている箇所について、当時と同じ工法で積み直しています。



先程は本丸の太鼓門というところから入城しましたが、今度は裏手に位置する北の櫓門から城外に出ていきます。 お堀をグルリと周り、太鼓門のほうに戻っていきます。 多分北の櫓門を出たところが二の丸になるのかな。


こちらが北不明門です

二の丸引橋です



〜真  田  邸〜


真田邸の門構え


門をくぐるとお屋敷があります

松代城跡から歩いて数分のところに真田邸がありました。 こちらは中に入ることもできまして、生活をしていた部屋から風呂場、トイレなども見ることができます。

真田邸は、元治元年(1864)に、松代藩9代藩主の真田幸教によって建てられました。 当初は幸教の義母の貞松院の住居でしたが、やがて隠居した幸教の住居となり、明治以降は真田家の私邸として使われていました。  敷地内には御殿と表門、7棟の土蔵などの付属建物に加え、庭園が一体のものとして残されており、全国でも数少ない御殿建築の遺構です。 このため昭和56年には松代城とあわせて国史跡に指定されています。  御殿には35の主要な部屋があり、外部の人間が出入りする「表」の部分と、生活のための私的な「奥」の部分とに分かれています。 それぞれの部屋は、用途によってつくりや大きさ、唐紙や装飾などに違いがあります。


「御次の間」
主要な部屋に隣接し、声がかかって
実際に入るまでに控えているための部屋


「杉戸」
この杉戸には境界の意味があり、ここで
私的な空間と公的な空間を仕切っています


「御寝所」
主人の寝室です。天井には花鳥の唐紙が
貼り付けられるなど特別な部屋になっています


「御湯殿」
土間の部分に湯船があったそうです
右側は湯が流れるように傾斜がついています


「手洗の間」
主人用のトイレなんだそうです。


庭園側にある長い廊下です。


こちらが真田邸の庭園です。 9代藩主真田幸教に好まれた庭園は、「水心秋月亭」と名付けられました。 心字池を中心に三尊石・滝口を南東に配した庭園は、ノロシ山をはじめとする周囲の山々を借景として取り込んでいます。  池の水は城下町南部武家屋敷地の複数の「泉水」を経て真田邸に流れ込んでいます。





〜旧  白  井  家〜

真田邸から歩くこと1〜2分位でしょうか。 今度は「旧白井家」にやってきました。 なんとこの旧白井家の表門は長野市の指定有形文化財に指定されているんだそうです。 現在は建物は休憩所として使用されています。  中ではお茶を出してくれたりするみたいですよ。 今回は入りませんでしたけどね。

旧白井家表門は、表柴町に建っていたものですが、平成12年に現在地に移築復元しました。 建築年代は松代藩文書などから弘化3年(1846)であることが分かっています。

白井家は、松代藩の中級武士であり、真田家家中明細書によると、白井初平が高百石、元方御金奉行、御宮奉行などを務めました。 子の平左衛門も文武学校権教授に出仕し、また佐久間象山との親交も密にしていました。 


こちらが表門です

表門は、三間一戸形式の長屋門で、門部は太い槻の角材でつくられています。 間口が20メートル余の長大な門で、背面に3つの居室部を付設し、白井家の陪臣武士などが居住したと見られ、門に住宅が続いているのも珍しい例といえます。  桟瓦葺の大型な長屋門は松代藩では天保期から多くなっていますが、それ以前には茅葺の門が一般的でした。

旧白井家表門は、長大な間口に対して茅屋根を低くおさえ、正面は門口の左右に出窓と与力窓のみの単純構造で意匠性にすぐれています。 松代藩の代表的な表門として旧松代城下の面影を今に伝える貴重なものです。


門を入ると左側に休憩所があります




〜旧 樋 口 家 住 宅〜

今度は旧樋口家住宅にやってきました。 この周辺にはこのような建物が多く存在しています。 本当はもう1つ「藩校文武学校」というのもあったのですが、残念ながら工事中で見学することができませんでした。 いつも国分寺連合の旅行では 見ようと思っていたものが工事中で見れないってことがよくあるのですが、今回はここだけだったので良かったですよ^^


こちらが表門です


これが母屋です


樋口家は江戸時代、真田藩士として目付役などを務め、江戸時代末期には禄高二百三十石の上級武士の家でした。 その歴史は樋口家文書「樋口家譜略伝」によりますと、武田家の家臣であったと伝えられています。 当初住んでいた場所は 不明ですが、樋口家文書から、明和2年(1765)、六代樋口角兵衛邦蕃のときに現在地へ移り、近年まで続いていたそうです。

母屋は木造平屋建、寄棟造、茅葺。 文久2年(1862)に修理されたことが判明しており、少なくともそれ以前の建物であることがわかります。 桁行14.53メートル、梁間7.26メートル、延べ床面積139.91平方メートル。


部屋の様子です


結構広くてゆったりとしています

長屋は、木造平屋建、寄塔造、茅葺。 壁の下張に大正期の新聞が使用されていたことから、大正期遺構にここに建てられたと推測されます。 また主要部材の痕跡から江戸期の部材を再度利用し建てられたことがわかります。 


庭園から母屋を撮影。 庭園結構広いです


庭園の綺麗な桜(?)




〜真 田 宝 物 館〜

最後にやってきたのが真田宝物館。 真田というと、真田幸村とか真田昌幸を思い出す人が多いと思いますが、こちらは松代藩としての真田宝物館なので、あくまで真田信之以降の江戸時代のものが多かったように思います。  でもなかなか普段江戸時代の松代藩のことにふれることは少ないので、とても良い勉強になりました。 貯蔵物も非常に多く見応えありですよ。

この真田宝物館ですが、元々は昭和41年に真田家12代当主の真田幸治が真田家に伝わる大名道具などを寄贈し、その年に長野市が松代高等学校の移転跡を活用して真田宝物館として開館したんだそうです。 



こちらの宝物館は珍しく撮影禁止ではなかったので、バシャバシャと写真を撮りまくっておりました。 結構多かったのは、昔の書状。 こちらの宝物館では、その書状が誰から誰に宛てたもので、どんな内容なのかがしっかり解説してあるので、 非常に分かりやすかったです。 








貴重な宝物を見学し終わり、最終コーナーを抜けたところに! 出た〜! 顔出しのやつ! そういえば今回の旅行ではまだ一回もやってませんでしたね! 「岡」氏と「西」氏が顔を出してハイ、パチリ。  今回は、左が真田信之、右が真田昌幸でした。 でもちょっと小さくなってしまったなぁ。。。>_<