名 胡 桃 城 址

諏訪峡はなかなか良いお散歩コースでした。 ちょうど滞在時間は1時間弱って感じでしょうか。 次が今日予定していた観光地の最終となります。  以前に国分寺連合で群馬に旅行に来たときは上田城址に行きましたが、群馬には真田家に関係の深いお城がたくさんあるんですよ。 今回ご来店したのは、その中の1つ「名胡桃城址」です。 続100名城にも数えられていますよ。 

諏訪峡から名胡桃城址までは30分くらいで到着します。 以前にNHKの大河ドラマで「真田丸」を放映していたときも、草刈正雄扮する真田正幸が「名胡桃城がー」としゃべっていたような気がしますね^^  城址の隣には小さいですが資料館がありまして、その中に名胡桃城の説明をしているVTRが流れていたのですが、その中で草刈正雄がこの地を歩いている映像が流れていました。  実際にこの地を訪れていたんですね〜。




名胡桃城址の資料館横に20台は停められそうな駐車場がありますので、こちらに車を停め徒歩1分で入口に到着します。  こちらは城址ということで、昔の遺構は空堀くらいしか残っていません。 でもこんな空堀がしっかりくっきり残っているのも珍しいですよね。  結構空堀って他のところで見ると、ただの斜面・・・って感じのところも多いですが、ここのは一見して堀だと認識できるくらいしっかり残っています。  さすが続100名城に認定されるだけありますね。 城址の入口や中には六文銭の旗があちこちでなびいておりました。 これでもかっていう位、真田家ですね〜^^;  





こちらの城址は当時の名胡桃城の地形がほぼそのまま残されているみたいです。 もしかしたら史実に基づいて手直しはしてあるかもしれませんけどね。  ちゃんと堀と堀の間には、門のようなものも設置して少し城らしさを醸し出していました。  設置している建造物が新しめなので、ちょっと雰囲気が失われた感もありますが、でもこの建造物のおかげで、郭の位置や広さなどがよりわかりやすくなっています。   









名胡桃城は現在の群馬県利根郡みなかみ町下津にあった日本の城。 1949年(昭和24年)に「名胡桃城址」として群馬県指定史跡に指定された。  利根川上流の右岸断崖部に位置し、川を挟んで北東に位置する明徳寺城と対峙する。 歴史的には、真田昌幸の沼田城の支城として、また1590年の小田原征伐の誘因となったことで著名である。by wikipedia  





遺構は馬出しから三郭・二郭・本郭・ささ郭と主要な郭が直に並ぶ連郭式の山城で、両側が切り立った天然の要害である。  近年の月夜野町教育委員会による発掘調査で、土塁址・三日月堀・虎口・通路・門礎石址・掘立柱建物址などの重要な遺構が多数確認されている。  廃城となった後、ほとんど改変を受けていないため、築城当時の遺構が比較的良好に残されている。 by wikipedia  



こちらは二郭(にのくるわ)の中にあった建物の土塁基底部だそうです。 二郭には6戸の建物が存在していたそうです。 二郭自体は約65m×50mの台地になっていて、西側の縁辺は広く崩落して波打った形になっています。  今回は南虎口という門のほうから入ったのですが、入ってすぐ左側に礎石のような感じで建物の位置や柱の位置を示しています。 この建物群の両脇には土塁や石積みなどもあります。 実際に建物があったら雰囲気出るのにな〜。  やはりこちらの城址は天守がないので、ほんの少しさみしい感じがしますね^^;  




こちらは先ほどの建物群の反対側の虎口で「北虎口」です。 ちなみに虎口というのは防御施設としての出入口のことです。 小口や戸口に虎の字をあてて勇猛さ危険を意味するようにしています。  ここの二郭の北虎口は、郭内の通路から続く4個の礎石による門址で、そのうちの一つは石塔の切石が再利用されています。 通路の東脇の溝は、門をくぐり暗渠排水として本郭堀切まで伸びており、溝横から立ち上がる土塁の腰部には4〜6段の自然石による乱石積みが見られます。 

本郭堀切は幅14〜16m、深さ7〜9mあり、法面は二郭側より本郭側の方が20度ほど急傾斜で、土橋の左右で堀幅を変えて、大きくクランク状に侵入する構造になっています。 また、門址の西側に続く土塁の下からは、幅約3m、深さ約1.5mの堀が確認され、空堀から土塁へと改築されていました。  堀切造成の際に堀り残した橋の基壇上には6本の柱穴がみつかり、木橋が架かっていたことがわかりました。  










北虎口を通り抜け更に奥に進みますと本郭に到着します。 本郭は長さが約51m、幅が約30mの洋梨形をしています。 両側の崖面とも大きく崩落しているため、現在はコンクリートで補強されています。  このことから当時の本郭はもっと広かったことが分かります。 郭の縁辺には土塁の基底部分が残っていて、土塁が周囲を囲んでいました。 この城には天守はなく、本郭内の虎口や建物の状況はまだ分かっていないそうです。  










ここが城址の最終地点「ささ郭」です。 真田正幸さんも昔にここから城下を見渡したのでしょうか。 でもこの地形を見ると、城としても非常に堅固なのがわかりますし、難攻不落で重要な拠点だったのが分かりますね。  端のほうに、石造りの祠のようなものがありましたが、誰が置いたのか分かりませんが、五円玉が六文銭のように並べてありました。 これはついついやりたくなっちゃう気持ちは分かります^^;

ささ郭とは、城の主体になる本郭が外に対してむき出しにならないように設けた郭で、唯一この城址に残存する土塁を両側にもつ狭長通路でした。 ささ郭の先端側には袖郭と物見が続き、尾根づたいに下方に通じていました。  ささ郭は長さが約31m、幅が約14mで中央には約1m掘り込んだ幅2〜5mの通路があり、その両側を1mほど盛り上げた土塁ではさんでいました。 通路の先端には礎石が4個設置され、搦手門がありました。  土塁の内側には、自然石を3〜4段乱雑に積んだ石積みが見られます。 本郭との間は幅12m、深さ約6mの堀切で区画され、幅1mほどの狭い土橋で連結されていました。  現在は礎石門址、通路、石積み、土橋などは、保存のため埋め戻されてみることができません。   










城址のすぐ横には資料館もありました。 こちらの資料館はそんなに大きくはないですが、城自体の説明に特化しているのでとてもシンプルでわかりやすくなっています。  他の城でも中が資料館になっているところが多くありますが、史料が多すぎて途中で飽きちゃうんですよね。 でもここのようにシンプルに展示してもらえると、最後まで興味深く見ることができます。  こちらの資料館では主に城のつくりや、当時の大名からの書簡(写しだけどね)などがあって、内容もとても興味深いものでした。 まさにシンプルイズベスト! 

最後に六文銭のシールなどを無料で配布しておりましたので頂いて帰りました。 普段はあまりこういうものは持ち帰らないのですが、他ならぬ真田家ですからね。  今日はありがたく頂戴してまいります。