清  水  寺

うえ村さんで超まいう〜京都風料理を頂き馬力も出てきたので、いよいよ2日目のメイン清水寺に向かいます。 昼ごはんを食べる前は「この坂はいつまで続くんだ〜」と 超ネガティブになっていましたが、昼ごはんを食して、特にアルコールも入ったので、超ポジティブになりました^^ 実際はうえ村さんから清水寺まではそんなに距離はありませんでした。  人が多かったので、少し時間がかかったような気がしましたが、普通に空いていれば5分位の距離だったと思います。

二寧坂・産寧坂がこんなに混んでいるんだから、清水寺自体も混んでいるに決まっていますよね>_< これまであまり見かけなかった観光バスもメチャメチャ沢山入ってきますよ。  鳥居の先にチケット売り場があるようですが大渋滞>_< もしかしたら朝の早いうちに清水寺に来ていたほうがよかったのかもしれないと思いました>_<



清水寺は、京都府京都市東山区清水にある寺院。 山号を音羽山。 本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮である。 もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。  西国三十三所観音霊場の第16番札所である。

清水寺は法相宗(南都六宗の一)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。 また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、 日本でも有数の観音霊場であり、鹿苑寺(金閣寺)、嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地で、季節を問わず多くの参詣者が訪れる。 古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている。 by wikipedia


〜 清 水 寺 入 口 〜

二寧坂・産寧坂を抜けると急に開けた場所に出ます。 そこには赤い鳥居や寺社の建物、その奥にチケット売り場がありました。 清水寺も見たくてしょうがない場所ではあったのですが、 あまりの人の多さに、「もういいかな・・・」とめげそうになりましたが、意を決して突入することにしました。 でもやっぱりゆっくり見れないから写真が雑になってしまいましたm(_ _)m


こちらが一番最初に登場する仁王門です。 清水寺というと、絶壁に建った茶色っぽい建物のイメージが強かったので、いきなり赤い建物が出てきてビックリしてしまいましたよ。

仁王門は応仁の乱(1467〜1477年)によって焼失しましたが、15世紀末に再建され、平成15年(2003)に解体修理されました。 清水寺の正門で、幅約10メートル、奥行き約5メートル、棟高約14メートルの、室町時代再建当時の特徴を示す堂々たる楼門です。  入母屋造り、檜皮葺(ひわだぶき)、鮮やかな丹塗りのため「赤門」とも呼ばれています。

先程の仁王門から右の方に行きますと、西門が建っています。 長い階段の上に清水寺を守るように建っています。 でも後ろの建物が工事中・・・ ちょっと情緒度マイナス100ですね>_<

現在の建物は寛永8年(1631)再建のもの。 もとの創建時期は分かっていませんが、史書「帝王編年記」など鎌倉時代の文献に見えるので、おそらく浄土教が流行した平安時代末期にはできていたと推測されています。  ここから見る西山の日没は素晴らしく、極楽浄土に往生する入り口の門、浄土を観想する日想観(にっそうかん)の聖所であったと考えられています。  平成6年(1994)に桧皮屋根の葺き替えと、彩色の全面復元がなされました。

仁王門を通り過ぎると左手に鐘楼があります。 ここらへんの建物は全部赤い色をしていますね。 良く見ると細かいところの装飾がいい感じです。 でもちょっと新しすぎる感じがするなぁ。。。 もう少し古ぼけてたほうがいいような気もしますが・・・

慶長12年(1607)の再建で、平成11年(1999)に彩色復元され、桃山様式の美しい彫刻が一層華やかに蘇りました。  牡丹彫刻の懸魚(けぎょ)や菊花彫刻の蟇股(かえるまた)、四隅の柱の先にある獏と象の木鼻などが見どころです。

こちらは随求堂といいます。 塔頭慈心院(たっちゅうじしんいん)の本堂で、享保3年(1718)の再建。衆生の願い、求めに随って、叶えてくれるという大功徳をもつ大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)を本尊(秘仏)としてお祀りしています。  また、堂内には大聖歓喜天(だいしょうかんきてん)や粟島明神(あわしまみょうじん)など縁結び、安産、子育ての神仏もお祀りしています。 千鳥破風に施された「龍の鏝絵(こてえ)」は傑作として知られています。 平成18年(2006)、解体修理によって美しくよみがえりました。 ・・・だから新し過ぎだって^^;


〜 本    殿 〜

チケット売り場から寺まではすぐの距離でした。 よく見かける清水寺の写真では、絶壁に建った寺を横から写したものですが、中はこのようになっているんですね〜。 寺の中には 仏像があったり、お賽銭箱などもありましたが、あまりの人の多さで、中に入る気もしませんでした。 寺の正面には手すりがあり、その眼前はもう絶壁。 正に今自分が清水の舞台に立っている状態です。 しかしこんなに人が多いと、床が抜けて本当に 飛び降りてしまいそうですよ^^;

手すりのある最前列に行くのも一苦労。 何人もの外国人を押しのけ、ようやく最前列に到着しました。 しかしすごい景色ですね! こんな絶壁から景色を見れる寺はそうはないでしょう。  緑の山々の間から京都市街を臨むことが出来ます。


清水の舞台Part1


清水の舞台part2

本堂は徳川家光の寄進により寛永10年(1633年)に再建されたもの。 「清水の舞台」とも呼ばれる。 屋根は寄棟造、檜皮葺きで、正面(南面)左右に入母屋造の翼廊が突き出し、外観に変化を与えている。  建物の前半部分は山の斜面にせり出すようにして建てられ、多くの長大なケヤキの柱(139本という)が「舞台」と呼ばれるせり出し部分を支えている(釘は使われていない)。 このような構造を 「懸造(かけづくり)」、あるいは「舞台造」と言い、観音菩薩は補陀洛山(ふだらくさん)に現われるという『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)の所説に基づくものである。  内々陣には、3基の厨子が置かれ、中央の厨子には本尊の千手観音立像、向かって右の厨子には毘沙門天立像、左の厨子には地蔵菩薩立像をそれぞれ安置する。 三尊とも秘仏である。 本尊厨子の左右には 千手観音の眷属である二十八部衆像を安置し、内々陣左右端には風神・雷神像が安置される。 

思い切って物事を決断することを「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と言うが、清水寺の古文書調査によれば、実際に飛び降りた人が1694年から1864年の間に234件に上り、生存率は85.4パーセントであった。  明治5年(1872年)に政府が飛び降り禁止令を出し、柵を張るなど対策を施したことで、下火になったという。 by wikipedia


清水の舞台からの景色Part1


清水の舞台からの景色Part2



〜 清水の舞台を横から撮影! 〜

寺の手すりずたいに左のほうに歩いていくと、よく見かける写真スポットに到着します。 ここは一方通行になっているようで、後戻りはできないのですが、知ってか知らずか外国人はなぜかUターンしていきます。  これがあの景色が見える場所か〜〜!! ようやく来た!って感じですね〜〜 もう大感激です!! やはり清水寺はここから見る風景が一番良いですね〜^^

宝亀9年(778年)、大和国興福寺の僧で子島寺で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。 金色の水流を見出した 賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。 年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが 来るのを長年待っていた。 自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。 行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に 安置した。 これが清水寺の始まりであるという。

その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758年 - 811年)は、修行中の賢心に出会った。 田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めて この山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。 後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、若武者と老僧 (観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。 延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮(もとの賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として 地蔵菩薩と毘沙門天の像を造りともに祀ったという。 以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。 by wikipedia


この写真は冒頭にも使いましたが、もう1回!

延暦24年(805年)には太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。 『枕草子』は「さわがしきもの」の例 として清水観音の縁日を挙げ、『源氏物語』「夕顔」の巻や『今昔物語集』にも清水観音への言及があるなど、平安時代中期には観音霊場として著名であったことがわかる。
清水寺の伽藍は康平6年(1063年)の火災(扶桑略記に言及)以来、近世の寛永6年(1629年)の焼失まで、記録に残るだけで9回の焼失を繰り返している。 平安時代以来長らく興福寺の支配下にあったことから、 興福寺と延暦寺のいわゆる「南都北嶺」の争いにもたびたび巻き込まれ、永万元年(1165年)には延暦寺の僧兵の乱入によって焼亡している。 現在の本堂は上記寛永6年の火災の後、寛永10年(1633年)、 徳川家光の寄進により再建されたものである。 他の諸堂も多くはこの前後に再建されている。

豊臣秀吉は清水寺に130石の寺領を安堵し、徳川幕府になってもこの寺領が継承された。 近世の清水寺は「三職六坊」と呼ばれる組織によって維持運営されていた。 「三職」とは寺主に当たる「執行」、 副寺主に当たる「目代」、寺の維持管理や門前町の支配などを担当する「本願」を指し、執行職は宝性院、目代職は慈心院、本願職は成就院がそれぞれ務めた。 「六坊」はこれに次ぐ寺格を有するもので、 義乗院、延命院、真乗院、智文院、光乗院、円養院の6か院である。 このうち、宝性院は仁王門北方に現存する。 慈心院は本堂のみが随求堂(ずいぐどう)として残っている。 成就院は近代の中興の祖である 大西良慶(後述)が住坊とした所で、境内北側に位置し、現在は清水寺本坊となっている。 「六坊」の6か院はいずれも境内南方にまとまって所在したが、このうち真乗院は織田信長によって廃絶され、 以後は成就院によって寺籍のみが継がれていた。 義乗院、智文院、光乗院、円養院も廃仏毀釈の時期に廃絶し、現在は延命院が残るのみである。  明治維新までは、清水寺は法相宗に真言宗を兼ねていた。 その名残が大日堂や三重塔に残されている。 by wikipedia


微妙に角度を変えて、もう一度ご堪能くださいm(_ _)m



〜 そ の 他 の 見 ど こ ろ 〜

有名な景色を撮影して大満足の我々は、そのまま順路に沿って清水寺内を散策しながら見て回りました。 しかし清水寺の敷地も相当に広いですね〜。 有名な撮影スポットを過ぎると、今度は下り坂になります。  途中には三重塔があったり、音羽の滝と呼ばれる滝があったりします。

ゆるゆる歩いていきますと、今度は下から清水の舞台を見上げることもできます。 いやはや大昔からこんなところに立派な寺院を建てるって、ホントすごいと思いますよ。


清水の舞台とお別れしたら下り坂になっりますが、途中分かれ道があって上り道がありました。 とりあえず人だかりも少なくなってきたので、足は疲れてはいますが気合い一発で上ってみると、清水の舞台からも見えた三重塔がありました〜!

こちらは子安塔と言います。 子安塔は、聖武天皇、光明皇后の祈願所と伝わっていますが、詳しい創建時期はわかっていません。 現在の建物は明応9年(1500)のもので、明治の終わりまで仁王門の左手前に建っていましたが、本堂の南に位置する、 錦雲渓を隔てた丘の上に移築されました。 高さ約15メートル、檜皮葺の三重塔の内部には、子安観音(千手観音)をお祀りし、名前の通り安産に大きな信仰を集めてきました。

三重塔を過ぎて更に進みますと、また人だかりができています。 随分行列しているようですね。 こちらは音羽の瀧と言います。 管理人はもう並ぶの嫌だったので、写真だけ撮ってスルーしてしまいました^^;

清水寺の開創の起源であり、寺名の由来となったのがこの瀧です。 こんこんと流れ出る清水は古来「黄金水」「延命水」と呼ばれ、清めの水として尊ばれてきました。  3筋に分かれて落ちる清水を柄杓に汲み、六根清浄、所願成就を祈願するため、連日、行列ができるほどの人気の場所ですが、元は瀧行の場。 開基行叡居士(ぎょうえいこじ)、開山延鎮上人(えんちんしょうにん)の伝統を守り、現在も 水垢離が行われています。

音羽の瀧を過ぎて少し視線を上に向けると、なんと先程までいた清水の舞台があるではありませんか! しかしすんごい所に建っていますね。 下から見上げると、よくもこのようなところにお寺を建てたな〜と感服します。  しかし下から見上げると、城壁のような感じに見えますね。 これも普段は見れない景色ですね。


〜 茶 わ ん 坂 〜

清水寺の参道は一番最初にご紹介した二寧坂・産寧坂なんだそうですが、他にも清水寺に通じる道はあります。 もうさすがに混雑状態の二寧坂・産寧坂を歩くは辟易していたので、 ちょっと空いてそうな「茶わん坂」から帰ることにしました。 名前の通り、この通り沿いには茶碗や湯のみなど焼き物を売っているお店がありました。 二寧坂・産寧坂ほどの情緒はありませんが、 何より空いているのが嬉しい^^ この坂を降り切るとバス停があります。