鹿児島散歩Part2

いや〜しかしさっきの黒豚しゃぶしゃぶは本当に美味かったな〜。 ということで今日も飲んだ後の散歩に出陣します!! 昨日は天文館付近を練り歩きましたので、今日は昨日とは違う道を行きました。  天文館の繁華街を外れると大分寂しい感じにはなりますが、四国のときのように街が真っ暗になることはありません。 所々に飲み屋があったり、ラーメン屋があったり、こういう雰囲気は関東とあまり変わらない かもしれませんね。

ここ鹿児島は江戸時代は島津藩が治めていました。 大河ドラマで「篤姫」をやっていましたが、その時の登場人物の銅像などが結構街の中に建っていましたよ。 今日は西郷さんや島津藩の家老だった小松帯刀 などの銅像を見ることが出来ました。 やはり明治維新の立役者達だけにこの街のシンボルにもなっているのだと思います。



〜 小 松 帯 刀 〜

最初に発見した銅像はこちら! 先ほども少しふれた、島津家の家老だった小松帯刀です。 明治維新の立役者としても有名ですが、明治政府樹立後、道半ばで病に倒れました。 明治維新の登場人物の中でも非常に重要なポジションにいた人物です。

小松 帯刀は、幕末・明治維新期の薩摩藩士、政治家。 本姓は平氏(平惟盛入婿により建部氏より改姓)。 家系は禰寝(根占)氏嫡流、小松氏当主(平朝臣小松帯刀清廉)。 通称は尚五郎、帯刀。官位は従四位玄蕃頭。  家紋は抱き鬼菊の葉。 一般には小松帯刀として知られる。 維新の十傑の1人。

在京中は土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬と昵懇となった。 亀山社中(のちの海援隊)設立を援助したり、坂本の妻お龍の世話をしている。 長州の井上馨と伊藤博文を 長崎の薩摩藩邸にかくまってグラバーと引き合わせ、その後、鹿児島へ井上を伴って薩長同盟の交渉を行った。 尚、薩長同盟における密約や桂小五郎が滞在したのも、京都における清廉の屋敷であったと伝えられる。 第二次長州征討には反対し、慶応3年(1867年)の薩土盟約や四侯会議など、諸藩との交渉に関与した。 討幕の密勅では請書に、西郷隆盛・大久保利通とともに署名している。 大政奉還発表の際は藩代表として徳川慶喜に将軍辞職を献策し、 摂政二条斉敬に大政奉還の上奏を受理するよう迫った。 西郷・大久保とともに薩摩に戻って藩主島津忠義の率兵上洛を主張する。 上洛の随行が命じられるも、病によりこれを断念している。 明治2年(1869年)9月、明治維新の功により 賞典禄千石が授けられる。 

新政府においては、総裁局顧問、徴士参与や外国事務掛、外国官副知官事、玄蕃頭などの要職を歴任した。 フランスが、江戸幕府の借金を新政府が返済しないなら横須賀造船所を差し押さえると主張した際、清廉と大隈重信はイギリスから資金を 借りてフランスに返済して窮地を脱している。 他にも堺事件や浦上四番崩れの交渉を行った。 またグラバーや五代友厚とともに、日本初の西洋式ドックを備えた小菅修船場を建設した。 明治2年(1869年)、病気により依願退職。  版籍奉還では、久光を説得し率先して自らの領地を返上して範を示した。

明治3年(1870年)に数え年36歳の若さで大阪にて病死し、最期は妾の琴が看取った。


小松帯刀銅像



〜 大 久 保 利 通 〜

こちらは大久保利通の銅像です。 大久保利通も明治維新の立役者。 この銅像は鹿児島中央から鹿児島市電が通る大通りの脇に建てられています。

大久保 利通は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。 位階勲等は贈従一位勲一等。 明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。 また維新の十傑の1人でもある。 その遺族は、華族令当初から侯爵に叙されたが、 これは旧大名家、公家以外では、木戸孝允の遺族とともにただ二家のみであった。

文久2年(1862年)に久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らとともに公武合体路線を指向して、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主・松平慶永の政事総裁職就任などを進めた。 慶応2年(1866年)、第二次長州征討に反対し、薩摩藩の出兵拒否を行っている。  慶応3年(1867年)、雄藩会議の開催を小松や西郷と計画し、四侯会議を開催させる。 しかし四侯会議は慶喜によって頓挫させられたため、今までの公武合体路線を改めて武力倒幕路線を指向することとなる。 小松、西郷とともに公議政体派である土佐藩の後藤象二郎、寺村道成、真辺正心(栄三郎)、福岡孝弟、浪人の坂本龍馬、中岡慎太郎との間で将軍職の廃止、新政府の樹立等に関する薩土盟約を三本木の料亭にて結ぶも、思惑の違いから短期間で破棄。  武力による新政府樹立を目指す大久保・西郷・小松は8月14日に長州藩の柏村数馬に武力政変計画を打ち明け、それを機に9月8日に京都において薩摩藩の大久保・西郷と長州藩の広沢真臣・品川弥二郎、広島藩の辻維岳が会し出兵協定である三藩盟約を結んだ。  10月14日、正親町三条実愛から倒幕の密勅の詔書を引き出した大久保は、小松・西郷らと詔書の請書に署名し、倒幕実行の直前まで持ち込むことに成功した。 しかし、翌日に土佐藩の建白を受けていた江戸幕府将軍・徳川慶喜が大政奉還を果たしたため、 岩倉ら倒幕派公家とともに、王政復古のクーデターを計画して実行する。

慶応4年(1868年)1月23日、太政官にて大阪への遷都を主張する。 明治2年7月22日(1869年8月29日)に参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。 明治4年(1871年)には大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として 外遊する。 外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立し、明治六年政変にて西郷らを失脚させた。 明治11年(1878年)5月14日、石川県士族の島田一郎・長連豪・杉本乙菊・杉村文一・ 脇田巧一、島根県士族・浅井寿篤により紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺された(紀尾井坂の変)。


大久保利通像



〜 西 郷 隆 盛 〜

西郷隆盛像の前で記念撮影をしました。 ちょうど西郷隆盛像の正面には公園がありまして、そこからこの銅像をバックに撮影できるようになっています。 カメラを置くのに丁度良い石のオブジェもありました。

西郷 隆盛は、日本の武士(薩摩藩士)、軍人、政治家。 薩摩藩の盟友、大久保利通や長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称される。 維新の十傑の1人でもある。 

薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長子。 幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変えた。 隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父吉兵衛の名を届けたため、 それ以後は父の名を名乗ったからである。 一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った、本名は8代目西郷吉兵衛隆永と言う。 次弟は戊辰戦争で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛。 大山巌(弥助)は従弟、 川村純義(与十郎)も親戚である。

薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。 斉彬の急死で失脚し奄美大島に流される。 復帰するが、新藩主の実父で事実上の藩主の島津久光と折り合わず、 再び、沖永良部島に流罪にあう。 しかし、家老小松帯刀や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。 江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、 幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。

その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。 さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。 朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として 自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。 明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。 佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など 士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。


大久保利通像



〜 坂本龍馬 お龍 〜

ここにも坂本龍馬とお龍の銅像がありました。 この銅像は普通に歩道に建てられているのですが、この他にも明治維新に関わった人達の銅像がありました。  今日は坂本龍馬とマブダチ(死語)の「岡」氏「西」氏が記念撮影しました。


左からお龍、「西」氏、坂本龍馬、「岡」氏



〜 照 国 神 社 〜

こちらは照国神社と言います。 夜中だったので、中に入ることはできませんでしたが、大きな立派な鳥居がありましたので激写しておきました。 この写真手ブレしまくりですが、実はこの鳥居は道路の真ん中からでないと正面から撮れないんですよ。 交通量が少ないとは言え、上下合わせて4車線の大きな道路だったので、ちょっと怖かったです。  撮ってすぐに逃げたらブレまくりになってしまいました。

照国神社(てるくにじんじゃ)は、鹿児島県鹿児島市照国町にある神社。 照国大明神(島津斉彬公)を祀る。 祭神は薩摩藩第11代藩主の島津斉彬。

祭神は島津家28代当主で安政5年(1858年)7月に50歳で急逝するが、文久2年(1862年)に祭神の遺志を継いだ弟久光と甥忠義が鹿児島城内西域の南泉院郭内に祭神を祀る社地を選定し、翌3年5月11日に孝明天皇の勅命による 「照国大明神」の神号授与を受けて祠を造営したのが創祀で、翌元治元年(1864年)に改めて東照宮が建っていた地に社殿を造営、照國神社と称した。 明治6年(1873年)に県社に列し、同15年(1882年)には別格官幣社に昇格。  明治維新における祭神の功績と薩摩藩の役割が考慮されたと考えられる。


照国神社の鳥居



〜 山  形  屋 〜

夜中に場所分からずにフラフラ歩いていますと、立派なデパートがありました。 さすがに夜中なので閉店していますが、建物の規模は結構なものですよ。 多分、関東では高島屋とかそんな感じなんじゃないかと思います。

山形屋は、鹿児島県鹿児島市の老舗百貨店であり、南九州地域(鹿児島・宮崎両県)で5店舗を展開する山形屋グループ百貨店の旗艦店である。 山形屋の創業は1751年(宝暦元年)、デパートメントストア化は明治時代中頃、近代的なデパート建築 となったのは大正時代初期と古く、地方百貨店の先駆け的存在であり、神戸以西におけるデパート第1号である。 商業面積は約33,000u、年間売上高は約500億円にも上り、地方百貨店としてはトップクラスの収益力を誇っている。  百貨店の共同仕入機構であるA・D・Oに加盟している。 1号館1階には山形屋バスセンター(鹿児島交通・三州自動車のバスターミナル)を併設し、鹿児島市内及び薩摩半島中南部を中心とした広域エリアから集客している。


山形屋の前の通り