山 中 城 跡 公 園

韮山反射炉を出発したのが15:45。 ここからは国道1号線沿いにある、山中城跡に向かいます。 この時間だと日が落ちる前に到着できるか微妙なところ。 韮山反射炉からは少し北上して国道1号線に入り、あとはひたすら箱根の峠を沼津側から上っていきます。  国道1号線を沼津側から上るってのも、もう20年以上ぶりじゃないでしょうか。 そういえば自分の車ではないですが、以前お義父さんとお義母さんとお嫁さんと4人で沼津にバスツアーに行ったときにここを通りましたね。 ただバスだと前がよく見えないので、あまり思い出に浸れない感じ。 

国道1号線を上り、途中でようやく「山中城跡」の看板がっ! もう周囲は少し薄暗くなり始めていますよ〜。 山中城跡は特に門もないので、時間になると閉まって入れなくなることはないのですが、城の中に入ると電灯などの照明が一切ないので遅くなりすぎると真っ暗になって、単純に怖いです。  なので、到着後2人の足取りはかなり早かったですね^^; あ〜もう少しゆっくり見たかったな〜。。。 こりゃもう一回行っとかないといけないな^^;



山中城跡公園の駐車場に到着〜

ここから城跡公園に入っていきます

山中城跡の景色はこんな感じ。 一応100名城にも数えられていますので、入口は立派・・・でもなかったか^^; トイレも併設された駐車場のほか、道路を渡った入口の門の前にも駐車場がありますので、20台位は車を停められるのではないでしょうか。  入口の周囲はなんにもないです。 ホントにトイレだけ。 100名城なので、お土産屋さんでもあるのかな、と思っていましたが、見事に何もないです。 

山中城は、戦国時代末期の天文年間から永禄年間(1530〜1560年頃)、小田原に本城をおいた後北条氏によって番城(城主を置かない城)として築城されました。 山田川や来光川の源流に挟まれ、急峻な斜面に囲まれた自然の要害の地につくられた山城は、標高580メートル、城の範囲は東西500メートル、南北1,000メートルに及びます。  城からの展望はよく開け、西櫓からは御殿場・裾野方面が、岱崎出丸からは伊豆北部と駿東の大半を一望のもとに見渡すことができます。 by 三島市HPより  



城の奥にはこのような道が続いています


ここらへんも土塁の跡なんでしょうかね


大小の土手や堀を見ることができますね

空堀も結構深いですよ

入口をくぐり、奥のほうに進んでいきますが、道は横2m位の舗装していない小路が続いています。 両脇は緩やかな傾斜がある土手やくぼみなどがありますが、こちらはきっと空堀とか土塁の跡なんだと思いますよ。  こちらの山中城跡は天守や櫓の建物はなく、本丸や二の丸、空堀などしか残っていません。 でもここの空堀は結構有名なんですよね。 この先どんな風景なのか非常に楽しみです。  



この堀の形状が非常に特徴的ですよね


綺麗に木々が植えられています

こちらが前にテレビでよく見た「空堀」ですね。 なんだかジャンボチョコレートモナカの蓋の裏側のような形をしていますね。 これは再現したものなのか、それとも元からあったものか分かりませんが、かなり特徴的な空堀ですよね。  この空堀は西の丸や西櫓の周辺で見ることができます。 こんなに全体的に綺麗に空堀が見えるのって珍しいのではないでしょうか。 おそらく、他の場所にもこのような空堀を見ることができたのかもしれませんが、もう日が沈むまであと少しなので、本丸への通り道のここの部分しか見ることができませんでした。

山中城は、後北条氏の築城技術を駆使して造られた城で、戦国時代末期の山城の様子が大変よく分かります。 昭和9年(1934年)に国の指定史跡となり、三島市では、400年間埋もれていたこの山城の発掘調査を、昭和48年から開始しました。  発掘調査によって、曲輪の周囲に巡らされた堀や土塁などの防御施設、堀の上に架かっていた木橋の跡や門柱跡などが明らかになりました。 なかでも「障子堀」や「畝堀」は後北条氏の城に特徴的な堀の形で、堀の中に土手状の畝を掘り残して区画し、上から見ると障子や田畑の畝のように見えることからそう呼ばれています。  現在は、型くずれ防止のために芝生が張られていますが、本来はローム層(赤土)がそのまま露出し、滑りやすく、登り難い造りになっています。 出土品には、鉄砲玉・石つぶて・兜の前立などの武器・武具・陶磁器や古銭・キセルなどの日用品があります。by 三島市HPより  



西の丸は結構敷地が広いです

西の丸からも堀が見えました

山の一番高いところまでやってきましたよ。 たぶんここの西の丸が、山中城の中で一番標高が高いところなのではないでしょうか。 この曲輪は3,400平方メートルもあるそうです。 見張り台はすべて盛土を積み上げており、曲輪の三方をコの字型に土塁を築いています。 ここからは遠くの景色がよく見えますよ。 西櫓からは敵がどのように攻めてくるかなども一望できますよね。  方角で言いますと、ここからは丁度沼津方面が見えることになると思いますが、きっと北条氏は西からやってくる豊臣秀吉の軍勢をここで引き留めようとしたのではないでしょうか。

山中城のある伊豆地方北部は、武田・今川領と国境を接しており、本城である小田原城にとって西方防御の要の地でありました。 天正年間、全国制覇をめざす豊臣秀吉が小田原攻めに着手すると、山中城は韮山城、足柄城とともに最前線の軍事拠点として重要視され、堀や出丸などの大改修が行われました。  天正18年(1590年)3月29日、6万7千の豊臣軍の総攻撃をうけ、4千の北条勢は必死に防戦しましたが、鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。 豊臣方で一番槍を果たした渡辺勘兵衛の「渡辺水庵覚書」は、この戦闘がいかに凄まじいものであったかを物語っています。  いま、三ノ丸にある宗閑寺境内には城主松田康長以下、敵味方の武将の墓がひっそりと苔むして並んでいます。 今回は残念ながら宗閑寺には行けませんでしたが、今度ゆっくりもう一度ご来店したいと思います。  



すばらしい夕日でした

もうすぐ日が沈みますよ。 こんなに綺麗な夕日を見たのは久方ぶりですよ。 あまりに綺麗な写真だったので、今回の旅行のHPの代表写真にしようか迷ったほどです。 太陽も非常に大きく見えますし、雲もない青空でしたので、日が沈むまでここで眺めておりました。  なんだか夕日に映える空堀も綺麗でしたよ。 

夕日が沈むとあっという間に辺りが暗くなってきましたよ。 本当はここから本丸のほうも見学したかったのですが、さすがにお嫁さんが「暗くなるぅぅぅ」と慌てはじめてしまったので、本丸は涙を呑んで断念! まぁ今回は空堀が見れただけでも御の字です。  ここからは駐車場まで下りなので、2人共ベンジョンソンクラスの走りで駐車場まで戻りました。 ホントに小路に照明なども一切ないので、暗くなったら迷子になって凍死は必至です。 途中転倒もなく無事に駐車場にたどり着くことができました。  でもトイレに寄って行こうと思ったら、トイレのシャッターを係員さんが締め始めているぅぅ・・・ ちょっと待って〜。 一旦開けてもらって、事なきを得ました。 係員さん、その節は大変申し訳ありませんでしたm(_ _)m