ペ リ ー ロ ー ド

途中でブラリした峰温泉大噴湯公園を出発したのは13:45頃。 ここから国道135号線でさらに南下して一路下田市に入ります。 今日はず〜っと国道135号線を南下してきましたが、一回も渋滞なしで、非常にスムーズでしたね。  休日ともなると観光客がどっと押し寄せて、こんなにスイスイとは行かないと思いますよ。 伊豆って東伊豆を走る国道135号線と中伊豆を縦断する国道414号線、西伊豆を走る136号線の3本が大きな道だと思いますが、昔は渋滞にはまると全然動かないイメージがあったのですよね。  管理人はよく知らないのですが、伊豆スカイラインとか伸びて渋滞解消しているんですかね〜。

今日宿泊するホテルは、部屋に温泉の内風呂が備わっているので、早めにホテルに入って部屋風呂でゆっくりくつろぎた〜い^^ ということでちょっと早いですが、これが1日目の最後の観光地となります。  1日目の最後にやってきたのはペリーロード。 下田と言えばペリーが黒船でやってきた場所でも有名ですが、このペリーロードは下田で下船したペリー提督が実際に歩いた道なんだそうですよ。  街並みも少し古めかしくて、当時の雰囲気を残しているのではないでしょうか。 横須賀の久里浜もペリーが来航した場所ですので、ペリー公園という公園があって、公衆便所位の資料館などもあるのですが、下田のペリーロードみたいなのはないなぁ。  ペリー関係では横須賀は全然下田に負けてます>_< もっとペリーを観光に使っても良いのではないかと思うんですけどね〜。


〜 ペ リ ー 胸 像 〜



ペリーロードってのは、特定の住所がないので、車のカーナビゲーションだとなかなか目的地にたどり着きにくいんですよね。 なのでペリーロード付近まで行って、あとは道路の看板頼りで行ってみました。  でも最初はペリーロードを通過して全然違うところに出てしまった・・・ 途中まで看板があるのに、途中から何もなくなってしまうんですからしょうがないよねぇ。。。 2週目チャレンジしてようやくペリーの銅像を発見し、近くの駐車場に車を停めることができました。 

駐車場を出てすぐのところにペリーの銅像が建っております。 この辺は漁港になっているようですね。 所狭しと漁船が係留されていました。 なかなか周囲の景色もいい感じです。 ということでペリー提督の銅像と記念撮影です。  そもそもペリー提督はどんな人物なのでしょう。 wikipediaで調べてみると次のように記載されていました。 本名は「マシュー・カルブレイス・ペリー」さんです。 「ペリーはアメリカ海軍の軍人。  江戸時代に艦隊を率いて鎖港をしていた日本へ来航し、開港への交渉を要求したことで知られる。 来航当時の文書には「ペルリ(漢字では彼理 / 伯理)」と表記されていた。」by wikipedia 確かに、管理人は小学生の頃は「ペルリ」って教わったような気がしますね。  でも近所に「ペリー公園」があったので、ちょっと混乱していたような記憶があります。  


〜 ペ リ ー ロ ー ド 〜


庶民的かつ歴史的な雰囲気を醸し出しています


道沿いに小川が流れていますが、これが良い雰囲気


地面は石畳でオシャレな感じですよ


これが江戸末期の景色なんだね


道の距離は長くないですが色々な表情が見えます

色々な形状の橋がいくつも掛かっています

ペリーロードの景色と共に、ペリーさんの日本開国任務について、さらにwikipeaの情報をご紹介します。 「1852年11月に、東インド艦隊司令長官に就任、日本を捕鯨船の寄港地とするため交渉するよう依頼する大統領の親書を手渡すよう指令を与えられた。  同年11月、アメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアの親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航。 フリゲート「ミシシッピ」を旗艦とした4隻の艦隊はマデイラ諸島・ケープタウン・モーリシャス・セイロン・シンガポール・マカオ・香港・上海・琉球(沖縄)を経由した。  1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、浦賀に入港。 7月14日(6月9日)、幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸、戸田氏栄と井戸弘道に大統領の親書を手渡した。 ここでは具体的な協議は執り行われず開国の要求をしたのみで、湾を何日か測量した後、幕府から翌年までの猶予を求められ、食料など艦隊の事情もあり、琉球へ寄港した。  太平天国の乱が起こり、アメリカでの極東事情が変化する中、1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて現在の横浜市の沖に迫り、早期の条約締結を求め、3月31日(3月3日)に神奈川で日米和親条約を調印した。  またその後、那覇に寄港して、7月11日、琉球王国とも琉米修好条約を締結した。 その後、艦隊は香港に向かった。 by wikipedia  


〜 旧  澤  村  邸 〜


なまこ壁ですね

駐車場からペリーロードに入って、すぐのところには「旧澤村邸」と書かれた古い住宅地のようなものがありました。 今回は足が終わりかけていたので、中には入りませんが、住宅地の中も見学できるようになっていました。  壁のなまこ壁もとても綺麗に保存されていますね。 旧澤村邸はなまこ壁と伊豆石造りの建築様式を用いた建造物で、大正7年に建築されました。 その後外観のなまこ壁を保存・修復しながら耐震改修を行い、トイレを新設するなどして現在は下田市の無料休憩施設として利用されています。

ペリーロードだけでなく、このエリア周辺には「なまこ壁」という独特な工法の建物が何軒かありました。 以前、岡山の美観地区に行った際にも、こういう壁を見たような気がしますよ。   この周辺にあったなまこ壁は、どこの壁も斜めの格子状のデザインでありました。 なまこ壁って言いますと白い部分は漆喰でやっているはずなんですが、ここのはどうなんでしょうね。 漆喰にしてはザラザラ感が全くないので、もしかしたら漆喰を模倣した別素材なのかもしれません。  でも壁一面に斜めの格子柄ってすごい特徴的ですよね〜。  


〜 下 田 了 仙 寺 〜


了仙寺の正面入り口です


門がお出迎えしてくれます


こちらが本堂の建物です

ここが遺跡のある洞窟です

小川を先まで進みますと、お寺さんが見えてきましたよ。 道に設置してあった観光案内図を見ますと、他にも2〜3お寺さんがあるみたいです。 今回ご来店したお寺さんは「下田了仙寺」と言います。  下田了仙寺は寛永12年(1635年)下田奉公今村正長によって創建された日蓮宗の寺で、国指定史跡です。 嘉年7年(1854年)日米和親条約が締結され、下田が開港、了仙寺はペリーと日本全権の交渉場所となり、日米和親条約下田追加条約が締結されました。  境内には1000株のアメリカジャスミンが香りを放っています。 満開は5月です。 境内のMoBS黒船ミュージアム(有料)にはペリー・黒船・異文化交流をテーマとした3000点を越える国内最大の黒船の原本資料が収蔵されています。 今回は資料館はパスしておきました。  やっぱり足が終わりかけると、色々なところをスキップしてしまいます。

またお寺を少し奥に入ったところには、「了仙寺横穴遺跡」というのがありましたよ。 こちらの洞窟は、今から約1300〜1400年前の古墳時代に墓として利用されていたと考えられているそうです。 洞窟内からは人骨と共に勾玉や水晶製の切子玉等の玉類、金銅製の腕輪や耳飾り等の装身具、土師器、須恵器が出土しました。  これらの遺跡は死者と共に埋められた副葬品であり、その質や量からみてこの地域の有力者の墓と考えられています。 了仙寺横穴に代表される洞窟や岩陰に死者を埋葬した遺跡は河津町や西伊豆町にもみられ、伊豆半島南部の古代の特徴を示していると考えられています。   


〜 またまた、なまこ壁 〜


正直壁を見てると目がチカチカするよね^^;


ここで見たなまこ壁の中で一番面積広いです

格子状の模様を拡大撮影! なんだか錯覚しそう

観光案内板を見ますと、ペリーロードから少し外れたところにもなまこ壁の家があるようですよ。 一通りペリーロードを歩きましたので、少し離れたなまこ壁を見てから駐車場に戻ることにしました。  先ほどの了仙寺から徒歩で5分少々のところに、なまこ壁を発見!! もうこの頃にお嫁さんは足が終わりかけています。 疲労ではなく、足底腱膜炎が再発しているみたい。。。 今日はそんなに多くは歩いていないので、管理人はまだ全然足は大丈夫でした。  こちらのなまこ壁も立派ですね〜。 何か斜めの格子を見ていると、面積が大きすぎるせいか、目がシバシバしますよ。 でも非常に特徴的で見応えがあります。 

なまこ壁というのは、土蔵などに用いられる日本伝統の壁塗りの様式の一つです。 壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の目地(継ぎ目)に漆喰を蒲鉾形に盛り付けて塗る工法によるもので、目地の盛り上がった形がナマコ(海鼠)に似ていることからその名がついているんだそうです。  なまこ壁は江戸時代以降に出現した工法で潮風や台風などの自然災害に強く、土壁や板壁よりも耐火性に優れることから全国的に普及したんだそうです。  


〜 下  田  漁  港 〜


こちらが下田漁港の様子です〜

海の上にこの鳥が何羽もいました。何の鳥だろう

最後のなまこ壁を見た後、駐車場までは海岸沿いを歩いて帰りました。 海岸といっても岸壁には漁船がズラリと並んでいますね〜。 ずっと海岸沿いに岸壁が続いていて、散歩するのに非常に良い道になっていますよ。 犬の散歩をしている人もいましたね。  管理人が現在住んでいる横須賀は、千葉や伊豆と少し似ているところがあるな〜と思っていたのですが、下田漁港は三崎港とも雰囲気が全然違うような気がしますね。 今思い返すと、漁船の数が全然下田のほうが多いね。  これは一体何漁の漁船なんでしょうね〜。 やっぱりキンメダイ!?