水 戸 城 跡

那珂湊おさかな市場でお土産を購入しましたので、次は今晩宿泊するホテルがある水戸に向かいましょうか。 実は前回国分寺連合の旅行の際も水戸城跡には行こうとしていたんですよ。 でもいくら車のナビゲーションに入れても現地に到着することができなかったのです。。。>_<  今日こそは水戸城跡にたどり着きたいと思いますよ。 事前に購入しておりました観光本のるるぶで水戸城跡の所在地について調べましたところ、なななんと! 本日お世話になりますホテル「京成ホテル」さんから徒歩で3分のところにあることが判明!!  ということで、まずはホテルの駐車場に車を停めて、水戸城跡まで歩いていくことにしました。 こりゃラッキ〜。 今回はなんとか水戸城跡に行くことができそうです。

先程の那珂湊おさかな市場を出発したのが14:40頃。 なんと那珂湊の駐車場代は一日停めても100円でした。 これなら無料にしても良さそうなものですが・・・ 那珂湊おさかな市場から水戸までは一般道で丁度1時間位でした。  確か前に水戸駅周辺に行った時は、割と都会だったような記憶があるのですが、水戸駅までの道中は田んぼの中の1本道を走ったり、那珂川のほとりの1本道を走ったりと、およそ都会とはほど遠い道をひた走りました。 でもカーナビゲーションであと10分で水戸に到着!  と出たところから、少しづつ都会の感じになってきましたよ。 さっきまでほとんど信号もなかったけど、いきなり都会になった感じね。 さっきまでは田舎の雰囲気でしたが、やっぱり水戸駅周辺は都会でした。


〜 水 戸 城 跡 周 辺 に 到 着 〜

まずはホテルの駐車場に車を停めまして、徒歩で水戸城跡に向かいたいと思います。 ホテルの駐車場の目の前は、いかにもお城っぽいような通りが続いていますよ。 周囲には小学校など学校の施設が多く点在しているようですね。  小学校の壁や門がさながらお城の塀や城門を模したような感じでした。 後ほどご紹介する水戸藩の弘道館という学校の原型みたいな施設もあるといこともあって、ここらへんに学校が集中しているのかもしれませんね。  


小学校の入り口が城門みたい、冠木門と言います


学校の塀も城壁みたい


〜 弘  道  館 〜

小学校などを通り抜けますと、すぐのところに「弘道館」が見えてきましたよ〜。 「弘道館」というのは江戸時代後期に日本の常陸国水戸藩に作られた藩校のことです。 1841年に水戸藩第9代藩主・徳川斉昭公の手によって創設しました。  近世日本の教育遺産群として日本遺産にも登録されています。 「教育によって人心を安定させ、教育を基盤として国を興す」という建学の精神の下、弘道館は儒学教育を礎に文武を磨く教育機関として機能しました。  現存する日本最古の学校・足利学校跡(足利市)や、日本最大規模の私塾・咸宜園跡(日田市)、江戸時代の庶民教育を担い唯一国宝の講堂を擁する旧閑谷学校(備前市)と並ぶ近世日本の教育遺産群としてその価値を認められました。  また、水戸市内にはそんな弘道館とともに近世日本の教育遺産群の日本遺産に認定された施設が他に3ヶ所あります。それが弘道館と対になって語られることが多い偕楽園、そして文武両道の場となった日新塾跡、そして大日本史編纂の場となった旧水戸彰考館跡です。  これらも弘道館とともに近世日本の教育に貢献した史跡として認められました。  


「特別史跡 旧弘道館」と書かれた石碑、正門は当時のものそのものの感じですね


弘道館に入る前にはこのような門がありまして、この先でチケットを購入します

チケット売り場で入館料をお支払いしまして中に入りますと、すぐのところに写真のような小屋があります。 部屋の中ものぞけるようになっていましたよ。 こちらの建物は「番所」になります。  こちらの番所も正門、政庁、至善堂と同じく、創建当時の建物だそうですよ。 当時の学生はこの横にある通用門から出入りしていました。 藩校当時は通行の監視のため、住み込みで番をしていたと考えれているそうです。 格子窓からは外の様子がよく見えます。  


こちらが番所の建物です


番所の中は6畳位の小部屋になってます

チケット売場を過ぎますと、すぐ目の前に政庁の建物が見えてきます。 政庁も非常に立派な建物ですが、まずはその庭園の見事さも目を見張るものがありますね。 庭園のいたるところに歴史がありそうな立派な木々が立ち並んでいます。  門の外は銀杏並木になっており、葉が黄色く色づいています。 また所々にモミジもありまして、こちらは真っ赤に紅葉しておりました。 また桜の木も何本も見えましたので、春にはまた違った景色を堪能できるのではないでしょうか。  こういうところで勉強できるって当時の学生は非常に恵まれていたと思いますよ。  


敷地は非常に広く庭も立派です


「柳川枝垂」という桜、奥には銀杏が紅葉してます


政庁正面には立派な桜の木(?)が鎮座します


モミジも紅葉し建物とのコラボがとても良いね

弘道館政庁の建物も非常に立派ですね〜。 正庁(学校御殿)は弘道館の管理棟となっています。 正庁の北と南にそれぞれ文館(居学・講習・句読・寄宿の四寮と、教職詰所などからなる)と武館(北側の撃剣場、間の槍術道場、南の居合・柔術・長刀などの稽古場、計三棟からなる)を、南庭に武術訓練のための対試場を配しています。  正庁の北東に位置する四室は至善堂と呼ばれました。 こちらの中は全て見学することができまして、当時の史料、扁額、拓本なども閲覧することができます。 部屋も当時の様子を再現しており、なにか当時の様子が目に浮かぶようです。  


こちらが政庁の玄関になります。立派ですね〜


玄関右手(写真の中央部分)から中に入れるようになっています

こちらの政庁は学校御殿とも言われています。 藩主が臨席して文武の試験を行ったところで、至善堂というのは藩主の御座所となっていました。 それぞれ、床、棚を備え、面取角柱、長押をまわした書院造で、十間畳廊下によって結ばれています。  政庁には付書院もあります。 建物の屋根は政庁の玄関の右側を入母屋造とし、政庁の背面と至善堂は寄棟造で、すべて桟瓦葺で輪違瓦が組み込まれた大棟の大きいことが地方色を示しています。  また玄関の軒下には柿葺の下屋根がついているのが特徴です。 下屋根には独立柱で支え、さらに吊鉄物で上方に釣っています。 江戸時代末期には、各地に藩校が造られてきましたが現存する遺構では、弘道館は規模が大きくしかも整ったものとなっています。  


入り口を入ってすぐ左側の風景


部屋の雰囲気はこんな感じです


外周を廻る廊下は長く畳張りになってます


縁側から見た建物や部屋の景色


ご丁寧にトイレも復元されていました


建物から見た庭も良い雰囲気ですよ

弘道館を創設した徳川斉昭は、藩主就任以来、様々な形で自分の考えや、方針を人々に示してきました。 弘道館内にはそのような斉昭の考えを示すものが随所に残されていました。 

下の写真は「尊攘」と書かれています。 斉昭の命により、側医松延定雄が揮毫した。 尊攘は尊王攘夷を託したもので、その理念は幕末日本のスローガンとなっていきました。  平成10年より現在の場所に展示されています。  


「尊攘」の掛け軸

こちらの農人形は、斉昭が自ら鋳造し、子供たちに分け与えたという人形をモチーフに拡大彫刻されたものです。 本来の農人形は掌に収まる大きさで、斉昭は食事の際、膳の隅に置き、食前に飯を供えて農民に感謝をしたと伝えられています。

実は後で分かったのですが、この人形の上部には斉昭公が掛かれた「学生警鐘」という書があったそうです。 すっかり人形に目が行ってしまって、写真撮るのを忘れました・・・ 無念>_<  


農人形 大分日が落ちてきたので写真も暗くなっているね。。。

至善堂は、徳川慶喜が大政奉還後の明治元(1868)年、4ヶ月間の謹慎生活を送っていたところです。 ここは慶喜が幼少期に学んでいた部屋でもあります。 謹慎中の慶喜の心境が偲ばれます。

この部屋で徳川慶喜が謹慎している場面は大河ドラマ始め、色々な歴史ドラマで描かれているところです。 鳥羽伏見の戦いの後、大阪から江戸に戻った徳川慶喜さんはどのようなことを、何を考えていたのか、非常に興味がありますし、 その心境は想像すらできませんが、何かしみじみとしてしまいますね。 弘道館の中で一番感慨深い場所でありました。  


至善堂 御座の間

政庁の玄関を入って右の端には、国老詰所という部屋がありまして、こちらには当時の様々な展示物がありました。 ここには徳川斉昭公の肖像画なども展示されていました。 2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」では、竹中直人さんが演じていました。 

徳川 斉昭は、江戸時代後期の大名で御三家のひとつ、常陸国水戸藩の第9代藩主です。 江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の実父でもあります。 寛政12年(1800年)3月11日、徳川治紀の三男として生まれます。 初めは父・治紀より偏諱を受けて松平紀教、藩主就任後は将軍・徳川家斉より偏諱を受けて徳川斉昭と名乗りました。  藩政改革に成功した幕末期の名君の一人です。 しかし将軍継嗣争いで大老・井伊直弼との政争に敗れて永蟄居となり、そのまま死去してしまいます。 系図上の先祖である徳川光圀と共に、茨城県の常磐神社に祭神として祀られています。  


徳川斉昭公の肖像画


水戸藩で編纂された「大日本史」


こちらも斉昭公なんでしょうかね〜


孔子廟の屋根にあった鬼龍子という霊獣


〜 大  手  門 〜

弘道館は予想以上に見所が満載でしたね。 弘道館内のお土産屋さんで、陶器の土産物を見ていると店の女将が、〇△は4時までだから早く行ったほうが良いよ、と教えてくれました。 ちょっと〇△の部分がなんとおっしゃったのか聞き取れなかったのですが、 とりあえず、早めに大手門のほうに行ったほうが良いみたいね。

弘道館から徒歩1〜2分で、大手門が見えてきます。 とても綺麗で立派な門ですね〜。 やっと昔に写真で見た、ここにやってこれました。 こちらは見た目通り復元した門だそうです。 この門の奥にはこれまた学校がありまして、丁度我々が門をくぐるときには下校の時刻だったみたいで、子供たちが走りながら下校しておりました。  こんな門を毎日くぐりながら登下校できるなんで、贅沢ですよね〜^^  


こちらが大手門です〜 ようやく水戸城跡に来たって感じです!

水戸城は、北を那珂川、南を千波湖に挟まれた、日本最大級の土造りの城です。 大規模な土塁とともに、城の西側の台地には五重の堀、東の低地には三重の堀を巡らせ、堅固な防衛線を築いていました。  なお、石垣構築の計画は何度かあったようですが、諸事情により築かれることはありませんでした。 元は平安時代末から鎌倉時代初期に馬場氏の手により建てられた館に由来し、後に江戸氏、そして佐竹氏の手を経て、慶長14(1609)年、徳川頼房公が水戸に封じられるとともに水戸徳川家の居城となります。   


大手門の壁は瓦塀と呼ばれています


瓦と土とを交互に重ねて塀にしているんだね

水戸城大手門の特徴の一つに、大規模な瓦塀(練塀とも呼ばれます)があります。 復元に伴う発掘調査で発見されました。 復元高は4m、幅は最大2.7mと非常に肉厚で、門の四隅に取り付きます。 このようなタイプの袖塀を持つ城門は、全国に例がありません。  現在の瓦塀は外観を復元したもので、内部には瓦塀遺構が発掘当時の状態で保存されています。 大手門正面左の瓦塀では、遺構の一部を実物展示しています。 瓦と粘土を交互に積み重ね、粘土の上を漆喰で化粧している様子が分かります。

実際に目の前で見ることができますが、このような塀はこれまで見たことがありませんね。 普通の塀と比べて、強度が高いとか色々な効果がありそうな塀ですよね。 見た目もとても綺麗ですしね。   


大手門の裏側はこんな感じ


昔の雰囲気を残して復元されています

頼房公は三の丸や外堀の整備拡張を行い、二の丸に御殿を造営、併せて三階物見と呼ばれる櫓を建設しました。 しかしこの三階物見は明和元(1764)年の火災で焼失、後に再建された際に屋根を銅瓦葺とし、天守らしく鯱を上げ三階櫓(御三階櫓)と呼びました。  三階櫓は外観三層・内部五階の大型の櫓で、石垣がない代わりに一層目の下部を海鼠壁で覆い、あたかも石垣の上に建っているかのような姿を見せていました。 昭和20(1945)年に戦災で焼失するまで、水戸のシンボルとして親しまれました。  現在では、土塁や堀、三の丸に作られた藩校弘道館や薬医門などが残り、かつての姿を偲ぶことができるほか、史料に基づき復元された大手門と二の丸角櫓、歴史的モニュメントとして設置された杉山門や柵町坂下門など、かつての城の雰囲気を感じられるようになっています。 by水戸観光コンベンション協会HPより  


こちらは茨城師範学校跡です

明治7年(1874)、小学校の教員養成のため、水戸氏柵町に拡充師範学校が創立されました。 その後、校舎は水戸氏滝岡町(現在の金町付近)に移り、さらに明治21年(1888)、ここ水戸城跡に移転しました。 明治31年(1898)に茨城県師範学校、のちに茨城師範学校と改称し、県内の初等教育に大きく貢献しました。  昭和24年(1949)に戦後の学制改革で茨城大学が創設されると、その教育学部に包括されました。 やはりこの周辺は徳川斉昭公の思想と言いますか、意思が感じられる地となっています。  


大手門を過ぎるとこのような景色が広がります。
両側には各種学校が建ち並んでおりました。


〜 二 の 丸 角 櫓 〜

大手門を過ぎますと、しばらく綺麗に整備されつつも昔の雰囲気のある通りに出るのですが、その先は学校があったり、資料館なんかもあったのですが・・・ そういえば先程弘道館でお土産屋さんの女将が「〇△が16:00までだから早く行ったほうがいいよ」と言っていたのですよね・・・  あれって未だにどこのことを言っていたのか分らなかったのですが、よ〜やく分かりました! 二の丸角櫓のことでしたよ! 大通り沿いには何か人の家に入るような扉がありまして、よく見ると、そこに角櫓の案内が書いてあったんです。  看板を見てみると、16:00までって書いてあった! 只今の時刻は15:47。 あと13分〜〜〜〜>_< この扉をくぐってどのくらいで到着するのかは分かりませんでしたが、まずはダッシュで角櫓に向かいました!  


二の丸角櫓の入り口がこんなところに!


扉を抜けるとこのような小路がありました

二の丸角櫓は、水戸城内に存在していた角櫓のひとつであり、水戸駅からほど近い、二の丸の南西部角に位置していました。 櫓本体は、2階建の角櫓と、その北側・東側に接続される2つの多聞櫓(北多聞櫓・東多聞櫓)から構成されており、全体でみるとL字型をしています。  かつて城内には4基の角櫓が建てられており、城の北側よりも南側(城下町側)にかたよって設けられていたことから、城下から城を見上げた際の視線を意識してつくられたと考えられています。  現在みられる櫓は、大手門をはじめとする城跡周辺の歴史的建造物整備の一環として、過去の発掘調査や史資料調査の結果を踏まえて、当時と同じ場所に天保年間の姿で復元されたものです。  


こちらが二の丸角櫓です〜 まだ16時前だけど少し薄暗くなっているね


二の丸角櫓の礎石ですって


櫓の中はこのような雰囲気でした

扉をくぐりますと、なが〜〜〜い小路がありまして、10分弱は歩いたと思うのですが、櫓に到着したときは、既に管理人さんが店じまいをしておりました>_< 今回は残念ながら中を見学することはできませんでした。。。  でもなんとか櫓の外観と礎石の実物を見学できて良かったですよ。 多分あともう少し遅かったら、入口の扉もカギ掛けられていたと思うんですよね。

しかしこの櫓の形は変わっていますよね〜。 よくある櫓は、正方形で2〜3階建てのシンプルなものが多いですが、こちらの角櫓はL字型になっていて、中心分に少し高い建造物があるような形をしています。  水戸観光コンベンション協会のホームページには外側&少し上空から撮影した写真が掲載されていましたが、なかなか綺麗で良い櫓ですね。 

また前述のように、櫓前には実際の礎石が3つ飾ってありましたよ。 二の丸角櫓の復元に先だって実施した発掘調査では、江戸時代後期の角櫓の跡が発見されました。 その中には、明治時代遺構に動かされて、本来の位置が分からなくなった礎石が7個確認されたそうです。  写真の3つの礎石はそのうちの3つ、残りの4個は復元された角櫓の礎石に使用しています。 いずれも花崗岩製で、転石(河原などに転がっている石)を利用したものと思われます。  一見すると自然の石ですが、柱を乗せやすいように、平に成形してあるのが分かります。  


水戸観光コンベンション協会のホームページから拝借しましたm(_ _)m


〜 彰 考 館 跡 〜

こちらは彰考館跡と言います。 こちらは先程弘道館の資料館で撮影した大日本史を編纂した場所なんだそうですよ。 石碑に説明書きが書いてありましたので、ご紹介します。

水戸第二代藩主義公 徳川光圀は修史の志をたてて、明暦3年(1657)に大日本史(402巻)の編集を始めた。 寛文12年(1672)にその編集所を彰考館と名付けた。 彰考とは「歴史をはっきりさせて、これからの人の歩む道を考える。」という意味である。  当初は江戸小石川の藩邸内においたが、元禄11年(1698)に水戸城に移した。 彰考館は、この二中の敷地の一部にあたり、廃藩置県となった明治4年(1871)までの173年間ここに置かれていた。  水戸藩の全精力を傾注したこの大事業は、250年の歳月を費やして、明治39年(1906)にようやく完成した。  






〜 そ  の  他 〜

いや〜、角櫓の中は見学できませんでしたが、よ〜やく国分寺連合で旅行に来た時に水戸城跡に来れなかったリベンジを果たすことができました。 水戸駅からは大分近かったですが、ちょっとあの時は、管理人の調べようが足りなかったね^^; 

先程ご紹介した写真以外にも良い写真が撮れたので、おまけでご紹介しておきます。  


大手門の裏側の景色もなかなかのもの


橋の下に道路があったけどこれも空堀?


徳川斉昭公の銅像もありました


何の木か分かりませんが紅葉がいい感じ