亀 城 公 園 (土 浦 城 址)

さ〜最初の観光地、亀城公園(土浦城跡)にやってきましたよ〜。 到着時刻は11:10。 管理人は旅に出るとお城に行きたくてしょうがない〜。 しかも100名城や続100名城には目がないんです。  いくつの城を制覇したか数を数えたことはないのですが、当HPのお城のコンテンツにはこれまでご来店したお城を随時刻んでいます。

今回ご来店した亀城公園ですが、こちらはかつてあった「土浦城」の本丸と二の丸跡を整備した公園になっています。 そして土浦城は「続100名城」の一つに数えられています。 あ〜またこれで枠が1つ埋まった〜^^  でも最近ちょっと城を見ることよりも、100名城のマスを埋めるほうが目的になっているような気がしないでもないね^^; (後で数えたら現在55/200でした)


亀城公園は「きじょうこうえん」と読みます。 名前の由来は、堀に囲まれた城の姿が水に浮かぶ亀に見えたことから、別名「亀城」と呼ばれるようになったとのことです。  県指定天然記念物のシイの木、芝生広場などがあり、市民の憩いの場として親しまれています。

敷地としてはそんなに広くはないようですが、木々や歴史遺産が点在するよい雰囲気の公園になっています。 以前、静岡県にある駿河城公園にも行きましたが、そこと似ているような気もしますね。  駿河城公園も、天守こそないですが、復元した櫓があったり、当時の石垣が残っているような公園でした。 こちらの亀城公園は敷地がそんなに広くない分、歴史が凝縮されているような感じで、とても良い雰囲気の公園になっていますね。  


多分こちらが公園の正面と思われます。石碑もあるし櫓もあるしね

こちらの公園には駐車場が完備されていない模様で、公園のそばにはあと10分位早く到着していたのですが、車を停めるところを探すだけで何週も公園の周りを行ったり来たりしてしまいました。  コインパーキングに停めればよいものを、無料駐車にこだわるので、余計な手間がかかってしまいました>_< 結局、公園の目の前にあった常陽銀行さんの有料駐車場に停めて公園に繰り出しました。

公園の周囲にはお堀がありまして、公園の一部分を囲っています。 正門にあたる部分には橋も掛かっており、昔お城があった感を醸し出していますよ。 お堀はちょうど城関係の施設の周囲半分位を囲んでいまして、 その周囲は木々に覆われています。 この正面の橋とお堀と櫓の組み合わせってすごく良い絵になりますね。  










〜 東   櫓 〜

それでは橋を渡りましょう〜。 こちらの橋を渡りますと、先程からチラチラと写真に写り込んでいる櫓が近づいてきますよ。 こちらの櫓は「東櫓」と言います。 こちらの櫓は、譜代大名の西尾氏が土浦藩主であったときに建てられたと伝えられています。  当日はこの東櫓と共に西櫓も土塁の上に存在していたそうです。 明治時代の火災で本丸館と共に消失してしまいましたが、復元の際には江戸時代の建築技術を継承しながら現代工法も取り入れた建物となっています。  


ここからの角度の写真、とても良いです


櫓の右手にある門をくぐって本丸に入ります


こちらは本丸の景色です

東櫓の目の前にやってきました。 こちらの東櫓は2階建てになっていますが、この中には色々な史料が展示されております。 東櫓の中は江戸時代と現在の工法を取り入れているということでしたが、見た目は当時の造りを正確に再現しているように見えましたよ。  天井の造りとか、階段などもそうですし、中心には非常に太い梁が通り、木の色が新しくなかったら、現存櫓と間違えそうなほどです。 今日は平日ということもあって、お客さんは少な目。 我々含めて3組の夫婦が櫓内を見学しておりました。 

土浦城が築城されたのは室町時代の永享年間(1429〜40)とされていますので、かなり古い歴史を持っていますね。 室町時代に築城された後、江戸時代においても段階的に増改築されて整備されていったそうです。  お城は二重の堀に守られた平城となってたそうで、天守は一度も作られなかったんだそうです。 櫓などで城を守っていたそうですよ。 太鼓櫓門は現存しており、さらに東西二か所の櫓は復元されています。  


東櫓にやってきました


ここから中に入りますよ

それでは中に入ってみますよ。 一応受付(?)のような方がいらっしゃいました。 大体資料館に入る際は100円とか200円位必要なことが多いですが、こちらの櫓は無料で公開されていました。  こちらの東櫓は床面積自体はそんなに広くはないのですが、展示物は非常に内容の濃いものが多かったです。 特に土浦城に関する歴史や風俗に関する史料、あと櫓建設の工法などの情報は非常に興味深く見学させて頂きました。  


櫓内の柱や梁はこんな感じ、見事です


鬼瓦、土器、白青磁、釘など


天井の梁を上を向いて撮影しています


瓦葺きの現代と当時の工法の違いを説明


江戸時代後期の鯱瓦です


東櫓の梁の一部を切り取ったものだそうです

お城には正式な名称のほかに、別名を持つお城も少なくありません。 例えば、「会津若松城」は「鶴ヶ城」と呼ばれますし、「岡山城」は「烏城」、先日行ったばかりの「犬山城」は「白帝城」と呼ばれています。  そして今回ご来店した「土浦城」にも別名がありまして、それが公園の名前にもなっている「亀城」なんです。 由来としましては、土浦は度々水害に遭ってたのですが、その際にも水没することがなく、 水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことからこの名前が付いたなんだそうです。 こういう名前の由来を知るのも結構面白いものですよね。  


2階への階段はそんなに急ではなかったです


櫓の2階はこんな感じです


2階の窓から本丸を臨む


瓦とお堀がとても良い感じです


先程潜り抜けた門が目の前に見えます


階段を上から見るとこんな感じです

こちらは櫓門にあった太鼓です。 江戸時代、土浦城の櫓門におかれ、城下に時刻を知らせた太鼓です。 胴部には土浦藩土屋家の家紋「三石紋」があらわされています。  平成22年に革の張り直しと漆の修復が行われ、胴内から多数の墨書きが発見され、制作年代や修理記録が明らかになったそうです。 それによりますと、太鼓は明和7年(1770)に江戸浅草新町の太鼓師によって作られたものだったそうです。  また江戸時代の間に、土浦城下の職人の手によって、革の張り替え等の修理が8回行われていたことも判明しました。 明治時代に入り、太鼓は旧土浦藩士たちによって、旧土浦城の鎮守である八坂神社へ奉納されました。  その後、大正時代の修理、そして平成22年の修理を経て、現在に至っています。 かつての土浦には「土浦に過ぎたるものは二つあり、時の太鼓に関の鉄砲」という里謡があったと伝わっています。 関の鉄砲は、土浦藩士で砲術指南を務めた関家の関流砲術であり、もう一つが櫓門で打ち鳴らされた太鼓だったそうです。  江戸時代の太鼓櫓と太鼓が共に伝来している事例は全国的に見ても希少であり、土浦城のシンボル的な文化財とも言えます。  


土浦城櫓門の太鼓

土浦城本丸の土塁上には、鉄砲狭間のついた堀が囲んでいたことが江戸時代の絵図に描かれています。 当時の記録には塀の高さなどに加え、大筒狭間や石落としなどが塀に付属していたことも記されています。  また近年の本丸土塁の発掘調査によって塀の基礎地業である砂利敷遺構が発見され、塀に葺かれていた瓦の形状なども判明しました。 また櫓門の両袖の柱にはかつて塀が取り付いていた痕跡が残り、その構造や塀の厚さなども判明しました。  こうした調査の成果により、土壁下地に漆喰仕上げの土塀を復元しました。 江戸時代の記録の通り、塀の高さは東櫓脇の一部が七尺半、そのほかは七尺としました。 塀に付属する防御装置として東櫓の脇には石落とし、櫓門の脇には大筒狭間を設けました。   


東櫓を横から見た景色


本丸は土塀で囲まれています


〜 太 鼓 櫓 門 〜

東櫓を堪能した後は、東櫓から徒歩15秒のところにある、太鼓櫓門です。 現存する城郭建築の遺構としては関東唯一のもので、霞門や南東側に移築された江戸時代後期の高麗門など、昔日の城の面影を伝える貴重な歴史遺産です。  中に入ったりすることはできないのですが、門をくぐり上のほうを見てみますと、木の組み合わせなどがすごく美しいですね。 こういうの下から眺めているとずっと見ていられます。 管理人にとっては鉄道の線路と同じ感覚ね^^;  


太鼓櫓門を正面から撮影!


太鼓櫓門を左斜め前より激写


太鼓櫓門の天井はこんな感じです


後ろから見るとこのような感じです


後ろ斜めから撮影、後ろからもいい感じね


〜 西   櫓 〜

お次は東櫓の反対側に建っている西櫓に参ります。 残念ながらこちらの櫓の中には入れないのですが、外から眺めておりましたよ。 でも建物の形などは先程見た東櫓と同じような感じですね。  こちらの西櫓は、17世紀初頭元和6〜7年頃、小種西尾氏の時代に本丸土塁上に東西の櫓が建立されたとされています。 土浦城はその後、土屋氏の居城として明治の廃藩置県に至るまで幕藩政治における土浦の中心、象徴として存在していました。  土浦城内の建造物は明治以降、本丸館をはじめ、多くの建物が火災や移築、取り壊しにより失われ、昭和戦後に至り、本丸には太鼓櫓、霞門、西櫓を残すのみとなりました。 そしてこの西櫓も老朽化と昭和24年のキティ台風により小破し、昭和25年に復元を前提として解体されました。  その後復元を見ずに今日に至り、土塁上には礎石のみが遺され、わずかに往時をしのばせるおに過ぎなかったものを、市民の浄財をもとに復元したものです。  






〜 そ の 他 の 公 園 内 の 景 色 〜

本丸を出て、公園内の二の丸付近に出てきましたよ。 こちらにはお城らしい遺跡はないのですが、市民の憩いの場になっているとのことで、今日はお年寄りの皆様がゲートボールをやっておりました。  その他にも鯉が泳いでいる小さな池、ニホンザルがいた小動物園もありました。 ちなみにニホンザルの「りょうた」と「すみれ」は動物園に引っ越ししており、現在はこちらの小動物園は運営していない模様です。  あと所々に公園の名前にもなっている「亀」がいましたよ。 亀の置物がベンチに据えられていたり、先程ご紹介の池には本物の亀が甲羅干ししていましたよ。   


小動物園跡、ニホンザル見たかった


黒い鯉が泳いでいる小さな池


ベンチの亀の置物


こっちの池の亀は多分本物!?


「二の丸跡」の石碑がありました


入った門とは別の場所にまた門がありました

こちらは「聖徳太子堂」と言います。 この御堂は日本文化と日本仏教の元祖である聖徳太子を祀ったものです。 境内の聖徳太子報思碑は、昭和11年に土浦の有志により桜川畔に建てられ、次いで昭和40年に土手位の改修工事のため、移築されることになり、 時の市長の厚意により、土浦五職組合の人々がこの場所に移し、御堂を建て太子御尊像を奉納しました。 以降、五職組合の人々が聖徳太子奉讃会を興し、職祖神として太子をお熱りしています。  






〜 番  外  編 〜

こちらの亀城公園は、そんなにものすごく広いわけではないのですが、結構見所が多くて大分時間が経ってしまいましたよ。 多分30〜40分は公園内にいましたかね〜。 ゆっくりと城跡を見学し、公園内も散策できましたので、そろそろ駐車場に戻りますか。  公園を出て駐車場に向かうと、タイル張りの綺麗な歩道になっているところがありました。 よくよく見てみると、タイルの一枚に火縄銃を構えた武士の絵と説明が書いてありました。 城跡ということでこういう演出もされているんでしょうかね〜。

こちらの説明書きを見てみると、次のように記載されておりました。 タイトルは「鉄砲(町打ち)」、「土浦藩が奨励した武術に関流鉄砲があります。 城の北方に鉄砲打場をつくり、大々的な射撃訓練(町打ち)が行われていました。  町打ちは現在、亀城まつりで復活しています。」 もしかしたら、このような説明書きのタイルが他にもあるのかもしれませんね。 でもこんなタイルの説明書きを旅行者が立ち止まってじっくり見てたら、通行の邪魔になっちゃうかもね^^; 今回は管理人は写真だけ撮って、後で拝読させていただきました。  


「鉄砲(町打ち)」のタイル