今日の最初の観光地は「富山城」です。 こちらも管理人が大好きな「続100名城」の一つに数えられています。 今回も富山城初め、金沢城や丸岡城など有名なお城観光が控えております。
最近はお嫁さんと旅行に行ってもなかなかお城に行ってくれないので、国分寺連合でお城を含めてくれているのがとてもありがたいです^^
宇奈月温泉ホテル黒部を出発したのが8:50でした。 ここからは一般道で約1時間走りまして最初の観光地の富山城に参ります。 ただ今回の旅行では唯一雨が降ってしまった・・・ それでも本降りではなく小雨でしたので、大きな影響はありませんでした。 今回の旅行の中で雨が降ったのは、ホントにここだけでした。 天気予報だと、2日目、3日目はずっと雨マークだったのにね。 これも日頃の行いかな〜^^ さて富山城は富山市のシンボルで「富山城址公園」として整備され、富山市郷土博物館も併設されています。 今回の旅行、初のお城巡り楽しみです。 |
![]() 富山城址公園の風景です |
![]() こちらが富山城のお堀 |
富山城址公園はかなり綺麗に整備された公園でしたね。 綺麗な芝生が敷き詰められ、お城もとても綺麗(中身はマンションみたいでしたが^^;)。 また敷地には庭園もありまして、ちょっとした散策にも適していると思います。
公園の片側にはお堀がめぐらされており、魚も泳いでいましたね。 またこちらの公園は都会のど真ん中って感じのところにありますよ。 大体お城がある場所は県庁などその土地の中心的な場所にあることが多いですが、今回の富山城も同じようです。
近くにはJR富山駅もありますし、富山県庁もありましたしね。
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![]() 公園内から見た富山城天守 |
こちらが富山城の天守です。 よく見るお城の形とは少し異なりますね。 天守の周りには櫓や通路などの建造物が複雑に一体化しているようです。 こういうのを連立式平山城っていうのかな。 例えば姫路城とか松山城とか和歌山城とかね。
個人的にはスッキリした天守も好きですが、今回のように複雑な構造をしている天守もなかなか良いと思います。
富山城は、越中国新川郡富山(現在の富山県富山市丸の内)にあった日本の城です。 「浮城」「安住城」とも呼ばれたそうです。 ただ、安住城は富山城とは別の城であるとする説もあるみたい。 冒頭にも記載した通り、続日本100名城の一つになっています。 |
![]() お堀側から見た富山城天守 |
![]() 横から見た天守はこんな感じ |
富山城は加賀藩前田家の分家であった富山藩前田家の居城です。 神通川(現在隣を流れる松川)の流れを城の防御に利用したため、水に浮いたように見え「浮城」の異名をとり、難攻と言われました。
当時の神通川は富山城の辺りで東に大きく蛇行しており、その南岸に富山城は築かれています。
ここ越中の地は、室町時代においては守護は三管領の畠山氏が担っており、この地を治めていたそうです。 築城は1543年(天文12年)頃に越中東部の新川郡への進出をもくろむ神保長職が、椎名氏の支配地であった神通川東岸の安住郷に家臣の水越勝重に命じて築城したとされています。 しかしながら最近の発掘調査の結果、室町時代前期の遺構が発見され、創建時期はさらにさかのぼると考えられているそうです。 |
![]() 堀から入る通路はL字型をしていました |
![]() 天守を中心とした建物たちの全景 |
永禄3年(1560年)には上杉謙信の侵攻により上杉家が治めるも、上杉謙信が急死した後、1582年(天正10年)3月、神保長住は城内に幽閉されて失脚、替わって佐々成政が富山城主となりました。
桃山時代以降は豊臣秀吉、江戸時代からは前田家がこの地を治めています。
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![]() 天守の脇にあった石垣 鏡石がデカイ |
![]() お堀に面した石垣 これは野面積かね |
富山城の石垣は、富山を隠居の地とした加賀藩第二代藩主の前田利長が慶長10年(1605)移行に整備した石垣がはじまりと考えられています。 その後江戸時代前期の寛文元年(1661)移行に富山藩初代藩主前田利次が改修し、現在見られる石垣となっています。
富山城は土塁主体の城郭であり、石垣は城内中枢部を守る鉄門、搦手門、二階櫓門の三か所に築かれていました。 現存する石垣は富山県内の早月川や常願寺川産の玉石などを割って使用したり、あるいはそのままの形の石が、野面積み技法で積まれています。
それらは、石の丸い面を表に向けていることが特徴です。 また、石と石の隙間は、小石や割石などで埋められており、排水や積石の安定をはかっています。 ただし、鉄門の内枡形では、方形に河口した石材を水平に積む「布積み」技法の部分も見られます。
また石垣の内部は、外側から積石、栗石、土塁の三重構造となっています。 富山城の石垣の特徴として、鉄門内枡形の鏡石をあげることができます。 鏡石とは、石垣の石材の中でも特に巨大な石を指し、設置目的については、城主の権力を見せつけるため等、いくつかの理由があげられます。
富山城の場合、慶長期の整備の際に据えられ、寛文期の改修の際、現状のように配置したと見られています。
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![]() 本丸や櫓門、本丸御殿などの石材 |
![]() 明治時代の県会議事堂の基礎 |
こちらは、写真にもあります通り、県会議事堂があった場所なんだそうです。 現在もその基礎が残っています。 県会議事堂は明治42年(1909)に完成した木造2階建ての洋風建築物です。 竣工当初は県会議事堂として利用され、
計56回の県会(今の県議会)が開催されました。 昭和10年(1935)に現在の県庁舎に議事堂が移ると、「大正会館」と改名し、会議場や図書館などとして広く市民にも利用されました。
しかし昭和20年(1945)の富山空襲の際に、建物の木造部分は焼失してしまいました。 平成22年(2010)の城址公園芝生広場の園路工事の際に、本館建物南側の一部(竣工時の議員控室と正副議長室等)と、その南西で別棟の建物「ボイラー室」の煉瓦積みの土台部分が発掘されました。
建物の基礎が見つかったことで、その位置を特定することができたのです。 富山の近代化を物語る貴重な歴史遺産です。
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![]() こちらが千歳御門の正面です |
最初は天守に入らず、外からの天守を撮影すべく、公園の外周を歩いておりました。 すると、立派な門があるではありませんか! こちらは「千歳御門」と言います。
富山城の建築物として江戸時代から現存する唯一の遺構なんだそうです。 10代藩主前田利保の隠居所として城の東出丸(現在の富山市桜木町一帯)との間に建てられた「千歳御殿」の正門です。
明治時代に別の場所に移されていたことにより戦火をまぬがれ、2018年に現在の場所に移築されました。
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![]() 庭園の風景です |
![]() 奥に見える建物は「富山市佐藤記念美術館」 |
こちらは千歳御門を潜り抜け、右側にある和風庭園です。 かつて富山城の本丸に存在した庭園をモチーフに、2015年に整備された池泉周遊式の和風庭園なんだそうです。
滝の流れる池泉を中心に園路を巡らせ、江戸時代の庭園文化を今に伝えながら新緑、紅葉、雪景色等々四季折々に美しい景色を見せているそうです。 今の時期はまだ紅葉には早いし新緑でもないし、ちょっと中途半端な時期なのかもね^^;
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![]() こちらは「景雲橋」という橋です |
庭園のはずれの方に赤い立派な橋がありました。 こういう赤く山なりの橋ってなんだか興味をそそられちゃって、ついつい渡りたくなってしまいます。 鎌倉の鶴岡八幡宮にも色は灰色なんだけど、山なり具合がさらに大きい橋がありまして、子供のころは滑って渡り切れなったのを覚えています。
きっと管理人は子供のころから山なりの橋を渡りたくなる性質があった模様です。
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![]() 「前田正甫」さんの銅像です |
富山の薬を広く諸国に行商させた「富山売薬の祖」と言われる2代藩主前田正甫(まえだ まさとし)公の銅像。優しく凛とした表情でいまの富山城下を見つめています。
前田正甫は、慶安2年(1649年)8月2日、初代藩主の前田利次の次男として生まれました。 出生地は家老の近藤善右衛門の下屋敷で、幼少期は城下の近藤宅で養育されました。 延宝2年(1674年)、父の死去により家督を継いで2代目藩主となりました。 藩政においては父の方針を受け継いで藩制の確立に努め、文武を奨励して多くの有能な人材を招聘しました。 金沢藩の支藩として成立した富山藩は、越中国内の旨味の良い土地を金沢本藩がおさえていたため、10万石といえど財政は豊かではなかったようです。 正甫は新田開発や治水工事を行って生産力を向上させることはもちろん、自領の低い農業生産力に頼るだけでなく、殖産興業に努めることで、藩財政を豊かにしようとしました。 但馬からタタラ技術を導入して製鉄業を創始し、産業奨励などにも積極的に行ないました。 また、正甫は病弱であったとされ、ゆえに薬学に興味を持ち、(史料的な裏付けは無いが)江戸城腹痛事件で名をあげたとされる富山の反魂丹などの製薬業を奨励して諸国に広め、越中売薬の基礎を作ったのでありました。 by wikipedia |
![]() いきなり馬が現れてビックリしたなぁもう |
公園内を練り歩いていると、なななんと! 本物の馬が歩いてきましたよ。 これは観光客向けなんでしょうか。 どなた様かが馬に揺られておりました。 ちょっと乗ってみたい気もしますが、管理人の体重を考えると不憫に思えてきました^^;
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![]() 天守(郷土博物館)の入り口 城っぽくない |
![]() 1階でチケットを購入します |
現在の富山城天守は1954年に富山産業大博覧会の記念事業として、復興のシンボルとして建設された模擬天守です。 その後耐震工事やリニューアルなどを行い現在に至ります。 現在は天守の中は郷土博物館として運営されています。
博物館の内容は、富山城の築城から明治時代以降の城址の変遷に至るまで、400年以上にわたる歴史を紹介しています。 関連した企画展も随時開催され、国の登録有形文化財に指定された天守からの街の眺望もなかなか良いものです。
夜はライトアップも行われているんだそうですよ。
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![]() フラッシュを使わなければ撮影自由です |
![]() 発掘された天守の瓦なども展示されていました |
![]() 佐々成正さんの説明 |
![]() 豊臣秀吉から佐々成正に宛てた書簡だって |
天守の中は3階層になっているようです。 1階はチケット売り場がありまして、2階が展示室になっています。 これがまたなかなか内容の濃い展示物が多かったですよ。 城の歴史やそれに関わった武将など。
更に、富山の薬売りの史料や武将からの書簡なども展示されており、非常に興味深かったです。 展示室はそれほど広くはないですが、こういう博物館にしては珍しく、甲冑や刀などの展示はありませんでしたね。
個人的にはかなり見ごたえがありました。
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![]() こちらは前田利長さんの説明 |
![]() ものすごく縦長な兜 前田利長さんの? |
![]() 富山の薬屋さん |
![]() 「めぐすり」って書いてあるのかね |
さ〜それでは天守の最上階に参りますか! 何だか天守の中にいるのですが、中はホントにマンションとかアパートのような出で立ちなので、ちょっと調子狂っちゃうよね。 まぁ模擬天守はどこもそうなんだけどね。
天守の3階からは、富山市街の四方を見渡すことができますよ。 ただ都会のど真ん中に建っているので、景色はビルばかりだけどね^^;
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![]() 天守内の階段。。。普通のビルだね |
![]() 階段を登り最上階に向かいます |
![]() 最上から東方向(立山方面)を臨む |
![]() お堀の方角はこんな景色 |
![]() こちらが最上階の外周の通路 |
![]() 天守の構造物もよく見えます |
富山城址公園を一周廻りましたが、実はもう一つ、写真を撮りたくてしょうがなかったものがありました。 それは富山地方鉄道の市電(チンチン電車)です。 車で富山城址公園の駐車場を探しているときに、市電が走っているのを発見!
もう写真撮りたくて撮りたくてしょうがありませんでした。
富山城址公園のすぐ横には電停がありまして、ここはおそらく「国際会議場前」という電停なのではないかと思います。 市電は結構路線が広くて1系統から6系統までの路線があるようです。 ちなみに料金は全区間均一料金で現金だと大人が240円です。 車輛もタイプがいくつかあるようです。 肉眼では見たのですが、写真に収めることができなかった一番古めかしい「デ7000形」、次に古いのが「デ8000形」でこれはバッチリ撮影することができました。 またかなり今風の新しい車輛も多く走っておりました。 俗にいう「超低床車両」ですね。 2両編成「デ9000形」や3両編成「T100形」のものもありまして、こちらもバッチリ「デ9000形」を撮影することができました。 新しいのも良いけど、管理人は「デ7000形」のような古めかしい車輛が好きなんだなぁ。 |
![]() 駐車場に向かうときに「デ9000形」と遭遇! |
![]() 「国際会議場前」電停に停車中 |
![]() やっぱり線路写しちゃう 綺麗な軌道でした |
![]() 信号待ちの間に行ってしまいました |