観 自 在 王 院 跡

毛越寺はかなり見ごたえがありましたね。 実際に庭園をグルリと一周しましたが、最後のほうで、毛越寺の壁越しに観自在王院跡が見えておりました。 ホントに毛越寺の目と鼻の先にあるんですね。  なので毛越寺の正面の鳥居を出て、徒歩1分で観自在王院跡の入り口に到着します。 こちらは名称に「跡」とついているだけあって、建物などは全く残っておりません。 ところどころに礎石があったり、建物があった部分に石が置いてあったりする感じね。  本当は建物が現存していれば最高だったのですけどね〜。 でも毛越寺と同様にこちらも庭園が結構綺麗でしたよ。 周囲には桜の木もありまして、ソメイヨシノだけでなく、もう少し花びらがピンクがかった桜もありましたよ。  桜の木だけでいえば、毛越寺よりも観自在王院跡のほうが大分綺麗だと思いました。 今回は巡るところ、巡るところで桜を愛でることができて、ホントに良いお花見になりました。



こちらは史跡公園になっているんですね

毛越寺東隣の観自在王院は、藤原氏二代基衡の妻によって建立されたと伝えられています。 敷地の北側には、大小2棟の阿弥陀堂が建っていました。  その内壁には、石清水八幡宮、賀茂の祭、鞍馬の様子、宇治平等院などの首都京都の霊地名所が描かれていたそうです。 平泉に住む多くの人々にとって、京都観光はかなわぬ夢でした。  その夢を描いていたといいますから、観自在王院は人気があったに違いありません。 毎年5月4日に「なき祭り」という珍しい祭りが行なわれます。  基衡の妻の死を嘆き悲しむものですが、ここにも観自在王院に対する民衆の思いを見て取れます。  観自在王院は、発掘調査と復元整備により甦りました。 往時とは異なりますが、今は史跡公園として親しまれています。 by ひらいずみナビ  



こちらが正面にあたる南門跡からの景色です

観自在王院跡の南と西には出入口の門がありました。 この地点は寺の南門があった場所で、門の規模は東西4.5mあり、門の脇には寺院境内の南境を限る築地または土塁の端を固めたと思われる角柱が見つかっています。 

丁度南門跡から正面を見ていますが、ものすごい広いですね。 正面には池が見えますし、左右には道があり、大きな建物が建っていたことが偲ばれます。 建物自体は1573年に焼失したと伝えられています。  17世紀には境内の大半が水田として使用されるようになったそうです。

昭和29年から始まった発掘調査により、大・小2棟の阿弥陀堂を含む複数の建物や浄土庭園の遺構などが確認され、12世紀の様相が明らかになったそうです。 昭和54年には境内の全域が史跡公園として整備されました。  大阿弥陀仏堂跡、小阿弥陀仏堂跡前の池は舞鶴ヶ池と呼ばれ、石久美・州浜・中島などがほぼ完全で残されており、当時の作庭技法を理解する上で貴重です。 平成23年に「平泉−仏国土を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」の構成資産として世界遺産登録されました。  



南門跡から正面に向かって歩くと池が現れます。


西門跡のほうからも池を激写しておきました

建物群跡と思われるエリアを通り抜けると、毛越寺の庭園にも少し似た池がありましたよ。 このころの庭園って池が主役になるところって多いのでしょうかね。 ここの景色も非常に良いです。  特に桜の木が植わっている部分などは、桜と背景のコラボレーションが非常に美しいです。

こちらの舞鶴が池は平面形状が、鶴が舞っているように見えることからその名が付けられたとされており、平安時代の庭造りの教科書である『作庭記』に「池は鶴か亀の形に掘るべし」との記述をもとにしたと考えられています。  その規模は東西100m、南北100mほどあり、中央付近に東西約30m、南北約12mの中島が設けられています。 州浜は玉石敷の護岸でしたが、毛越寺庭園とは異なり、石が葺かれていたのは、汀付近の2m程のみであったことが発掘調査で確認されたそうです。  



ソメイヨシが最高に綺麗だね


花も今日が一番の見ごろです


こちらはちょっとピンク色が強いけど綺麗


この木も見事ですね〜


舞鶴が池と桜の2ショット、かなり良い写真ではないかと自画自賛

ここの桜も最高だね。 ど〜ですか! 舞鶴が池を背景に、桜の花びらが綺麗でしょう〜。 今日一番良い写真が撮れたかも! ソメイヨシノも良いですが、個人的には少しピンク色が強い種類がお気に入り。  なんの種類なのかは分りませんが、自宅に戻り、インターネットで調べると、色の濃い桜のほとんどは、原種のひとつであるカンヒザクラ(寒緋桜)から派生して生まれたものなんだそうですよ。  これらは早咲きのものが多いそうです。 ピンクの桜の種類としては、@カンヒザクラ(寒緋桜)、Aドヒザクラ(土肥桜)、Bヨウコウザクラ(陽光桜)、Cシュウゼンジザクラ(修繕寺寒桜)、Dカザヅザクラ(河津桜)などがあるそうです。  ここの桜はなんていうのかな〜。  



こちらは伝普賢堂跡です

桜を見ながら舞鶴が池の周囲を歩いていると、一部分が出島のようになっておりました。 こちらは伝普賢堂跡だそうです。  こちらは約4.6m四方の方形建物の跡で、周囲には約7m四方の低い基壇がありました。 発掘調査の結果、この堂は池を埋め立てた上に立てられたことが分かったそうです。   



こちらは大阿弥陀仏堂かな!?


こっちが小阿弥陀物堂??でも『跡』ってあるなぁ


ここにも石像が。。。さっき毛越寺で見たお地蔵様に似ているね

池の周囲を歩いていますと、初めて形ある建物が見えてきました。 前述した大阿弥陀仏堂と小阿弥陀仏堂がこれみたいです。 まずは大阿弥陀仏堂、こちらは観自在王院跡の中で最も大きいお堂だそうです。  発掘調査の結果、約10.6mの方形の堂のまわりに幅約2mの庇が廻っていたと考えられています。  『吾妻鏡』によると、堂の四壁には洛陽(京都)の霊地名所が描かれていたこと、仏壇は銀、壇上の高欄は金であったことが記されているそうです。

一方の小阿弥陀仏堂跡は、発掘調査の結果、桁行約16.8m、梁間約7.2mの、東西に細長い堂であることが確認されたそうです。 屋根は入母屋造りと想定されています。  大小二つの阿弥陀仏堂跡の中間には、東西約5.3m、南北約4.4mの範囲に方形の玉石敷があり、そのまわりに約3mおきに掘立柱列が南に廊下状に延びていました。  これは邸宅に付属する「泉殿」と、それをめぐるそうかと見られています。 このことから、観自在王院は貴人の邸宅を寺地として造営したものと考えられています。  



伝鐘楼跡です

こちらは伝鐘楼跡です。 伝鐘楼は、南北約4.5m、東西約3.4mの建物跡で、大小の石で西及び南基壇の側面を固めていることが発掘調査で確認されています。  屋根は切妻造と想定されています。 地上に露出する礎石3個は調査成果に基づき、整備時に傾きを補正しているそうです。  



こちらは西門跡

観自在王院跡で最初に立った「南門」に対して、こちらは「西門」があった西門跡です。 西門は四脚門で、親柱は掘立柱、前後四本の袖柱は礎石が用いられていました。  また、西南隅袖柱から南へ1.2mのところにも堀立柱の跡があることから、土塁と門の間に潜戸が設けられていた可能性があるそうです。  発掘調査で見つかった雨落溝の位置から、屋根は棟を南北に通した切妻造と考えられています。  規模としては、大きな門ではありませんが、境内の西側を区画する土塁に唯一設置された門で、伽藍中心部に近いことから、日常の往来などに利用されたと考えられています。  



かなり長く土塁が続いていました

こちらは土塁です。 結構高さがありまして、またごうとしたら一苦労です。 こちらは土を高く積み上げるだけの簡素なものですが、堅固なことから邸宅にも用いられた塀です。  西側を除く三方がどのようなもので囲まれていたかは分っていませんが、境内の西面だけはこの土塁によって区画されていたことが発掘調査によって確認されています。  高さは推測の域を出ませんが、騎乗の人からも望見できない約2.4m程度の高さに積まれていたと思われます。 土塁基底部の幅はは3mあり、東側には幅約60cmの玉石敷の雨落溝が設けられていました。  



こちらは車宿跡と言います ちょっとだけ礎石は飽きました^^;

車宿は身分の高い人物を乗せた牛車を格納するための建物だそうです。 こちらは南北方向27.5m、東西方向4.6mと南北方向に細長く、柱の太さは約30cmあること、床面は周辺部と同じ玉石敷で、周囲には雨落溝が廻っていたことが分りました。  西側正面を除く三方は壁によって囲まれていたと考えられています。 『吾妻鏡』には「観自在王院の西、南北に数十の車宿有」と記されています。  この場所は、毛越寺と観自在王院に挟まれた幅約30mの広い道路にあたり、牛車を納めたり、牛をつなぐのに都合の良い場所だったと考えられます。