明 石 城(明石公園)

玉子焼きを食して大満足でした。 ほんの少しほろ酔い気分で次に向かったのは、明石駅から徒歩1分のところにある明石公園です。 事前調査のときには明石焼きにしか目が行ってなかったのですが、地図を見てみると駅のすぐそばに城跡があることに気付きました。  やっぱりこれまで数多くの城を見てきた管理人としては一回は行っておかねばなりません!

電車で明石駅に入ると、ホントに目の前に立派な櫓が2棟とそれをつなぐ塀を正面に見ることができます。 残念ながら天守はないようですが、それでもこの櫓はなかなかのものではないでしょうか。  ちなみに明石公園は明石城六甲山系の西端、赤松山台地にのこる明石城跡を中心につくられた都市公園です。




明石城跡は、明治十六年五月、当時の明石郡内の有志によって公園として開園されました。 のち皇室御料地に編入されるなどの経過をたどり、大正七年四月、新たに県立公園として発足しました。  園内には多くの樹木や植物が繁茂し、変化にとんだ丘や池、堀は周辺の自然環境と調和して美しく、春は桜、初夏は新緑、秋は紅葉と市街地にありながら野趣ゆたかです。  平成元年七月には「日本の都市公園100選の地」に、平成二年三月には、全国「さくら名所100選の地」に選ばれています。  また、園内には各種運動施設がととのい、スポーツ、レクリエーションに利用されています。 平成十六年三月には「明石城武蔵の庭園」が完成しました。 by 明石公園HPより


明石焼のお店は線路を挟んで反対側だったので、一度駅に戻り線路を潜り抜けて明石公園に向かいます。 駅から向かうと、正面入り口、東入口、西入口が近いみたい。 でも初めて来た場所で、そんなことは知らなかったので、 正面ではなく東入口から入ってしまいました^^;


東入口から入城します〜

こちらがお堀です。

東入口を入るとすぐのところに、東芝生広場という広い場所に出ました。 するとそこでは肉フェスを開催しておりました。 このフェスタは「第3回明石肉フェスタ」と言いまして、4月27日〜29日まで開催されていました。  今日は最終日になりますね。 出店していたのは14店舗。 神戸牛を使ったステーキや牛串焼き、肉チヂミ、ヒレカツサンド、和牛やきそば等々、色々な料理がありましたよ。 管理人も食したかったのですが、もうすでに明石焼きを食して 膨満感だったので今日は勘弁してやりました^^;

そうそう全然関係ないけど、この間国分寺連合のBBTで上田城跡公園に行って「チーズハットグ」なる食べ物が屋台で売っていましたが、ここでもありました! これって最近有名なんでしょうかね〜。  調べてみると、チーズハットグは韓国の定番おやつなんだそうです。 日本で言うアメリカンドッグみたいなものらしいです。 アメリカンドッグとの違いは、中にタプ〜リのチーズが入っていること、最後にパン粉をつけて揚げていること、みたいです。  そうか〜アメリカンドッグの親戚だったら管理人も大満足かも。。。 今度どこかで見かけたらトライしてみたいと思います。




肉フェスを後にして更に櫓の方角に進んでいくと、綺麗な昔風の建物と庭園が現れます。 ここは武蔵の庭園と呼ばれているエリアです。 小屋ではお茶などが振る舞われていたようです。  こちらの広場は庭園というだけあって松の木やツツジの木などが所々に植わっています。 ゴチャゴチャ色々なものがある庭園と異なり、優雅で余裕がある庭園になっていますね。 シートを敷いてピクニックをしている家族もいました。

剣豪宮本武蔵(1584〜1645)の出生地についてはこれまで諸説がありましたが、最近では現在の高砂市米田であると認知されています。 武蔵は生涯特定の藩に所属せず全国を旅しながら剣の道を究めたのですが、特に 出生地である播磨地域には多くの足跡を残しました。  ここ明石においても、1617年に着任した初代城主小笠原忠政に招かれ、明石の町割り(=都市計画)や城内樹木屋敷の設営にかかわりました。by 明石公園HP



更に公園の中心部に進んでいくと、櫓がはっきりと見えてきました。 右に位置しているのが巽櫓、左に位置しているのが坤櫓です。 3重の櫓って言うのは珍しいですね〜。

1617年(元和3年)に小笠原忠政が信濃松本より明石に国替えとなり、現在の明石城より南西約1qのところにあった船上城に入り、明石藩が誕生しました。 その後1618年(元和4年)に 2代将軍・徳川秀忠が、西国諸藩に対する備えとして、小笠原忠政に築城を命じる。 忠政と岳父の本多忠政は築城の候補地として、塩屋・和坂・人丸山の3か所を選定し、その中から人丸山に絞り、将軍秀忠の裁決を得た。  同時に宮本武藏によって町割図を作成した。 1619年(元和5年)から築城が開始され、その年末に本丸御殿、翌年に4つの三重櫓が完成しました。 その後は本多家、松平家が主に城主をつとめていました。


巽櫓は本丸の南東端に築かれた3重櫓で、船上城から移築されたと伝わっています(船上城の天守だった可能性も)。 ただし1628年(寛永5年)または1631年(寛永8年)に焼失したため、現在ある櫓は再建されたものです。  櫓の大きさは、桁行五間(9.03m)、梁間四間(7.88m)、高さ七間一寸(12.53m)、240トンで、各階の高さは3m弱となっています。 阪神淡路大震災後は曳家工法を使って修復されました。

坤櫓は伏見城から移築されたと伝わる、城内で最大規模の3重櫓です。 天守が築かれなかった明石城では天守代用として使われました。 櫓の大きさは、桁行六間(10.94m)、梁間五間(9.15m)、高さ七間二尺九寸(13.28m)、340トンで、 各階の高さは3m強で、巽櫓よりひと回り大きくなっています。 内部には、伏見城の部材と思われる木目のそろった松材が多く使われています。 by 明石城HPより


巽櫓

坤櫓

なんと今日は坤櫓に入ることができましたよ。 こちらはいつも解放している訳ではなく、3月・5月・9月・11月の土日祝に無料公開しているそうです。 ちなみに巽櫓は4月・10月の土日祝に公開しているそうです。


櫓内の様子、梁や柱の感じがいいですね


2階には上がることはできませんでした


貴重な鬼瓦が展示されています


これが一番お気に入りでした


甲冑が飾ってありました

坤櫓の窓から巽櫓をのぞむ

こちらは天守台です。 なんでも明石城は天守台までは造ったのですが、天守は建てられなかったんだそうです。

東西25m、南北20m、約152坪という天守台は熊本城天守と同規模で、5重の天守が建築可能な大きさです。本丸からは3.6mの高さで、天守台にのぼる石段の一段目には、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の基礎が使われています。(転用石)天守が築かれなかった理由については不明ですが、当時の主力兵器となった大砲の標的になりやすいためではないかとも考えられています。なお、中津城(大分県)の天守を移築するという計画があったようです。


天守台のすぐ隣に坤櫓があります
櫓の後ろには小さく明石海峡大橋が写っています。


天守台の石垣


こちらが天守台です

いや〜、最初は散歩程度に考えていた明石城ですが、櫓に入れたり、石垣もすごかったし、見応え満点な城でした。 明石公園としては他にも野球場、テニスコート、自転車競技場、ローンボウルコース等かなり広いようでしたが、 時間の兼ね合いもありましたので、今回は明石城址を見るだけにしておきました。


帰りは正面入口から出てきました


正面入口付近の掘りです


お堀にはなんと白鳥もいましたよ。
白鳥の周囲にうごめく黒い影は鯉です