先ほどの竜ヶ岩洞を出発したのが12:35。 そこから一般道を走ること10分弱で、次の目的地「龍潭寺」に到着します。 ここらへんには他にも東海地方を代表する禅寺「方広寺」という有名なお寺さんもあるのですが、
さすがに時間的に全部見学することはできませんでしたので、今回は井伊氏にゆかりの深い「龍潭寺」にご来店することにしました。
前述の「井伊」氏というのは言わずと知れた徳川家康の四天王のうちの1人、赤備を率いる「井伊直政」が一番有名ですね。 でも実は何年前かの大河ドラマでも井伊氏がクローズアップされたことがあったのです。 そのときの作品は「女城主直虎」。 柴崎コウさんが主役を演じた作品です。 この龍潭寺には、井伊直政さんや井伊直虎さんのお墓もありまして、井伊家の菩提寺になっているのですね。 |
![]() 駐車場脇の「名勝龍潭寺庭園」と書かれた石碑 |
龍潭寺の周囲は民家がまばらにある少し小高い山の中腹付近。 お寺の前には車が20台位は停められそうな広い駐車場があり、その脇にはお土産物屋さんもあります。
駐車場のすぐ脇の参道のような石畳の道の脇にお寺の名前が書いてある碑が建っておりました。
周辺地図を見ますと、井伊家に関わる建造物や史跡はこの龍潭寺だけでなく、井伊直政が生まれたとされる井戸があったり、神社、塚があったりと、少し歩くと色々な見どころがあるみたい。 ただ今回は時間が限られていますので、龍潭寺のみ見学して参りたいと思います。 |
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先ほどの石碑から正面の山門を見ますと、なかなか風情があるではありませんか、参道はそんなに長くはないですが、両脇に石碑のような石と背の低い植物が山門まで続きます。 距離が短いながらも何か風情を感じざるを得ません!
こちら遠州井伊谷は古代「井の国」と呼ばれていました。 清らかな水が豊かに湧き出る土地でした。 井伊谷川、神宮寺川が交差する両岸の段丘には、縄文・弥生・古墳時代より中世にいたる古代人の遺跡が数多くのこされています。 この井の国より井伊氏の元祖共保公が誕生しました。 共保公は7歳の時、遠江守として村櫛志津城に着任していた藤原共資の養子となります。 後に古里井伊谷に戻り、城山の麓に居館を築き井伊氏を名乗ります。 |
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参道を歩くこと30秒で「山門」に到着します。 山門は境内では2番目に古い建物。 こちらの山門は県指定の文化財です。 明暦2年(1656)に再建されたものだそうです。
山門に架かっている山号額は「萬松山」と書かれており、朝鮮通信使の雪峯が彦根藩井伊氏のもとで書いたものが龍潭寺に納められたのだそうです。
この見た目からも歴史があるのが一目瞭然ですよね。 寺社などでは柱や屋根を朱色で塗っているところもありますが、管理人はこちらのように何も塗っていないほうが好きですね。 断然趣がありますよ。
木目とか木材と木材のつなぎ目とか、ところどころにある装飾など、結構長い時間、この山門を見学させてもらいました。
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山門をくぐると、すぐに石垣や階段が現れます。 こちらの石垣はいつくらいのものなのでしょうね。 見ようによっては城郭の一部に見えなくもないですが、積み方は野ずら積みのようですね。 こちらもなかなか趣があります。
周りの木々もしっかり整備されているようで、なかなか整っておりました。 お寺の中に2人くらい掃除の方もいらっしゃって、庭園部分や通路を綺麗に保ってくれていました。
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通路を抜けて庫裡が見えてきたところに、左手に鐘楼のような建物がありました。 外観は鐘楼そのものって感じですが、現在は東門と呼ばれているそうです。 龍潭寺では一番古い約400年前の建物だそうです。
直政母が再婚した松下清景の養子となった松下一定(中野直之の次男)が寄進した建物なんだそうです。 建物の痛みのため下部分を切り、現在は低くなっている。 どおりで鐘楼にしては背が低い訳ですよね。
また中に入ることもできるのですが、上のほうに仏像が立っておりました。 こちらも何か由緒がありそうな感じがしますね。
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先ほどの東門の斜前には鐘楼堂があります。 こちらの鐘楼堂は昭和46年(1971)に再建されたものである。 意外に新しかったです^^; またこの鐘楼堂の横には石碑が建っていました。 その石碑には「徳川四天王 井伊直政公出世之地」とありました。
井伊直政公と言いましたら、石碑の通り、徳川家康公の四天王で有名ですよね。 ちなみに四天王は、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4名です。 井伊直政は、永禄4年(1561)2月9日井伊の庄祝田で、名門井伊氏の嫡男として生まれました。 2歳のときに父直親が今川氏真の手により殺され、井伊家は滅亡の危機に立ちます。 8歳の時、直政は龍潭寺南渓和尚の計らいで、三河鳳来寺に預けられ成長します。 15歳になった直政は、浜松城主徳川家康の家臣となり数々の武勲を立てます。 天正10年武田勝頼を攻め滅ぼした家康は旧武田軍の「赤備」の軍を直政に付けます。 天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで、この赤備部隊が活躍し、井伊の赤鬼と恐れられました。 この功で直政は6万石に出世、井伊家再興を果たしました。 関ケ原の戦いでは東軍の軍監を勤め徳川軍を勝利に導き、彦根18万石城主となり、徳川軍団の筆頭に出世しました。 |
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さ〜一番のメインディッシュ、庫裡の前にやってきました。 龍潭寺のメインとなる建物はいくつかありまして、全て廊下でつながっているのです。 観光としてはまずは庫裡から入り、そのから各建物を見学することができます。 お目当ての庭園もこの建物の裏側にあるんですよ。
ちなみに、ここ庫裡から入り最初に行くのは「本堂」そしてその先に「稲荷堂」「開山堂」「井伊家御霊屋」へと続きます。 ちなみに庭園は本堂の裏側になります。
庫裡は文化12年(1815)に第14世住職の仲山和尚代によって建立されました。 外観は禅寺特有の大破風が特徴的でとても良いですね。 外観ももちろん風情がありますが、建物の中も非常に良い! それではご案内しましょう〜。 |
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庫裡の受付で先ほどの竜ヶ岩洞で購入したお得チケットを渡し、中に入ります。 入口にげた箱がありまして、ここで靴を脱いで入ります。 正面には富士山と思われる見事な絵や壺などがお出迎えしてくれます。
こちらの庫裡の中にはとてもシンプルなお土産屋さんもありました。
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庫裡を過ぎますと、ご覧のような廊下が見えてきます。 この廊下の部分はもう本堂です。 廊下の部分は足を踏み込むとキュッキュッと木が擦れる音がするやつです。 これを「鴬張り」と言います。 これ好きなんですよね〜。 歴史のある寺社や城などにはよくこのような廊下があります。 一番よかったのは京都の二条城ですかね〜。
本堂の中には立派な仏様が鎮座しておりました。 この仏さんなは遠州地方第一の大仏様、丈六仏です。 丈六とは1丈6尺(5メートル)の寸法を言いますが、お座りのため、3メートルほどの高さになっているとのこと。 静かに己の心を深く見つめている座禅のお姿の仏様です。 この仏様の身体の部分には黒い落書きの跡がついていていますが、これは明治初年に起こった廃仏棄釈(仏教を排斥して寺を壊す)の動乱の傷跡だそうです。 本堂前にあった大仏殿が壊されたとき、近所の子供達がこの仏様に登り、金箔をこすった跡だそうです。 まさに廃仏棄釈の生き証人ですね。 |
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こちらが本堂の中央部分です。 ご本尊様が鎮座しております。 こちらのご本尊様は虚空蔵大菩薩様だそうです。 知恵と福徳が授かるといわれています。
吊り欄間に仕切られた整形六室の方丈造りで、禅寺の典型的な造りになっています。
また虚空蔵大菩薩様から回れ右!しますと、そこには見事な庭園が広がっています。 実は龍潭寺で有名な庭園はこれではないのですが、こちらも見事ですね〜。 正面に少しだけ見え隠れしているのは仁王門だと思われます。 |
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本堂を通り過ぎると、小さな建物が現れます。 こちらは稲荷堂。 中には正夢の稲荷様がいるそうですよ。 こちらの由来が書いてありましたのでご紹介します。 「江戸時代中頃、当山9世祖山和尚さんの夢まくらに稲荷大明神が立ちました。
『我は昔よりこの山に住む稲荷である。 祠がこわれて今住むところがなくなって困っている。 ここに金三両を置く。 我のために新しい祠を建ててくれ。』と和尚さんに告げた。 翌朝、和尚さんが枕元を見ると、夢のお告げの通り黄金三両が置かれてあった。
和尚さんは早速新しい祠を造り、稲荷大明神をお寺の鎮守様として大切に祀りました。 それ以来、夢をかなえてくださる正夢の稲荷として信仰され、今日に至っています。 「稲荷」は五穀豊穣の神様です。
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稲荷のそばには「開山堂」があります。 この建物は龍潭寺歴代住職のお位牌(御霊)を祀るお堂になっています。 八世徹叟和尚が建立しました。 当寺を臨済宗とした黙宗和尚とその師である文叔和尚の木像が祀られています。
静岡県下では珍しい2階建ての楼閣造りで、塔上に井伊氏の家紋彦根橘、彦根井筒(井桁)を見ることができます。
こちらの建物の1階には当時の籠なども飾られていました。 籠などと共に、人形もありましたよ。 多分この人形は、井伊直虎と井伊直政ではないかと思います。 こちらのお寺のいたるところに井伊直虎さんゆかりのものが飾られていましたよ。 多分ドラマのおかげで、直政さんよりも直虎さんのほうが人気があるのではないでしょうか。 お寺さんの推し方も直虎さんにかなり力を入れているようでしたよ^^; |
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さ〜見学できる建物の一番最後がこちら。 井伊家御霊屋です。 こちらの建物は井伊家歴代当主のお位牌(御霊)を祀るお堂なんです。
堂内には元祖共保公、22代直盛公、23代直親公、24代直政公の木像を安置しています。 直虎と母・祐椿尼の位牌や幕末の大老井伊直弼公の位牌もお祀りされています。 少し失礼して中を撮影させて頂きましたが、正面に3体の木像、正面と左側にご位牌があるのが分かります。
チーンモンモンのセットもあるので、ここでもお経をあげたりするのですね。
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一通り、建物内を見学して廻りましたので、最期に龍潭寺の庭園をみて行きたいと思います。 ゆっくり中を廻っておりましたので、そろそろ足が終わりそうな感じがしています。 庭園は本堂の真裏にありまして、ここの縁側にはちゃんと座って観賞するように椅子が置かれていました。
もちろん縁側に座って庭園を眺めるのも良いものです。 庭園はかなり横に広く、少し移動して眺めると庭園の見え方も変化していきますね。 池や緑、石などの造形が非常に趣深いです。
小堀遠州作の龍潭寺庭園は、江戸時代初期に本堂北庭として築かれたもので、中央に守護石、左右に仁王石、手前正面に礼拝石が配され、さらに池の形が心字池となっていて典型的な寺院庭園として貴重なものとされています。 書院からの眺めは、井伊家のお殿様が御霊屋のご先祖様に対してご挨拶をされた「遥拝のお庭」なんだそうです。 |
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庭園も見終わり、また庫裡に戻って参りました。 行きには寄らなかったのですが、庫裡の奥はちょっとした資料館になっていました。 そしてここにも直虎さんが! NHKの大河ドラマでは柴咲コウさんが主役の直虎さんを演じていましたが、色々調べたりしているうちに、ちょっとイメージが被るような気がしてきましたよ。
展示コーナーは撮影禁止だったのを見落としてしまい、一部撮影してしまいましたm(_ _)m 途中から撮影はストップ! でも井伊家の赤備の鎧や井の旗などもあったので是非ご紹介させてください。 |
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それでは最後に井伊家のお墓にお参りして帰りますか! 庫裡から出て、先ほど東門があった方向に向かいますと、一番奥に井伊家のお墓があります。 正面にある2つのお墓のうち右側が初代の井伊共保さんのお墓、左隣が22代の直盛さんのお墓です。
また右側の写真の奥から2番目のお墓が、直虎さんのお墓で、一番手前が直政さんのお墓になっています。
ちなみに女城主直虎をご覧になっていない方のためのプチ知識ですが、井伊直虎さんは女性だったのですが、これは戦国時代に入って、今川義元に従って出陣した井伊家22代当主の井伊直盛は桶狭間で戦士。 更に永禄5年には養子の直親が今川氏により殺害。 このため、龍潭寺の南渓和尚は直盛の娘、次郎法師を「女性地頭」に立てて、井伊家の急場をしのいだというわけです。 |
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お墓参りをして駐車場に戻ることにします。 帰りは仁王門を通って参ります。 こちらの門は本堂の南、寺全体の正面にあります。 迫力のある仁王像が安置されており、お寺を守っています。
昭和62年(1987)清山和尚代に建立された。 これはとても新しかったです。 やっぱり歴史を感じる門のほうが良いな^^; きっとあと何十年も経つと、最初に見た山門みたいになるのかな〜。
いや〜しかしなんという見ごたえのあるお寺さんだったのでしょう。 さすが旅雑誌「るるぶ」に載るだけありますね。 今日は見れなかったのですが「方広寺」もさぞやすばらしかったことでしょう。 朝からここまででもう写真300枚撮っちゃいましたよ。 今日も観光ではなく、ほぼ取材になってしまっております^^; |