飯 盛 山

鶴ヶ城を見学した後は、飯盛山に向かいます。 飯盛山にはかの有名な白虎隊のお墓があるところです。 ロケーションとしては鶴ヶ城から車で20分位だったでしょうか。 そんなに離れていませんね。 白虎隊がこの飯盛山から 燃え盛る鶴ヶ城を見て自刃したというエピソードからも、鶴ヶ城から遠くないことが想像できます。

飯盛山付近までやってきますと、駐車場がいくつかありました。 最初は市営の無料駐車場に車を停めようとしたのですが、あいにくの満車。 いつ空くか分からなかったので、すぐそばにあった別の駐車場に車を停めました。  この駐車場は基本は無料なのですが、条件がありまして、飯盛山の中にあるお土産屋さんでお買いものをして欲しいとのこと。 黄色い紙を渡されまして、お店で買い物をすると黄色い紙にお店のサインをしてもらえます。  でもお店にはなかなかこれってものがなかったんですよね・・・ 今回は「岡」氏がお土産物を購入してくれましたが、これって何も買わなかったらどうなったんでしょうね。。。^^;


さ〜駐車場に停めて徒歩2分で飯盛山の入口にやってきました。 入口付近はなだらかな坂道になっており、両側にはお土産物屋さんが数軒建ち並んでいます。 食べ物やTシャツ、菓子類などを売っていました。 「西」氏が帰りに恒例のTシャツをご購入しましたので、後程ご紹介しましょう。  ちなみに車を停めた駐車場のお店はここではなく、もう少し上に登ったところにある「飯盛分店」というお店です。 そしてその先には・・・ ものすごい階段が見えますよ。 何段位の階段なんでしょう。 管理人は最近は散歩をさぼっているので、 こんなに階段を上ったら足が終わってしまいますよ>_<

飯盛山は、会津若松市街の東2キロにあり、城下町を一望に見渡す小高い山で、その頂上には約1650年〜1700年前につくられた前方後円墳であり、隠れキリシタンの祠もあり、地元滝沢村住民の共同墓地でもあります。  そして古くは古代四道将軍、弁財天、日本武尊などの神話も残り、1600年以上、連綿と会津盆地を見守る信仰の山です。  ここには、白虎隊十九士の墓、各地で戦死した三十一士の墓や、イタリア並びにドイツから贈られた記念碑、さざえ堂、宇賀神堂、厳島神社、白虎隊引揚の洞門、市天然記念物の太夫桜など、数多くの神話、史跡名所が残っています。 




階段の手前まで来ると〜! なななんと! 「スロープコンベア」と呼ばれるエスカレータがありました! どうやらこのエスカレータで上の方まで行けるようですよ。 江ノ島にある「エスカー」みたいなものですね。 もちろんこちらは有料でして、 利用料は250円。 昔ならばお金を払うよりも自分の足で歩くほうを選んでいた管理人でありますが、今日はもう鶴ヶ城で足が終わりかけていたので、すぐに「スロープコンベア」の切符を買ってしまいました。 

「スロープコンベア」は2段階に分かれておりまして、1号機、2号機と乗り継いで頂上までいきます。 階段をえっさこらさと上っている人達を左に見ながら、我々はスロープコンベアで優雅に上っていきます。 でも階段で上っている人たちの ほとんど高齢者だったので、ちょっと悪い気持ちになってしまいました^^;







スロープコンベアを降りて、10段くらいの階段を上がると、そこが白虎隊霊場です。 白虎隊霊場は広場になっており、そこに白虎隊十九士の墓や、白虎隊碑、白虎観音などがあります。

慶応4年(1868年)正月3日、鳥羽伏見の敗戦によって会津藩はこれまでの軍事的欠陥をさとり、3月10日、改めて軍隊の編成替えをおこないました。  そこで誕生したのが、中国の四方(東西南北)の武神の名のもとに、『玄武隊』『青龍隊』『朱雀隊』『白虎隊』の4隊でした。 それぞれの隊は年齢によって編成され、更に各隊は身分階級によって、『士中』『寄合』『足軽』の3隊に分けられ、 白虎隊は総勢343名(現在の推定)でした。 そのうち戸の口原十六橋に向かったのは、白虎隊士中二番隊の37名でした。 そしてその中の17名は無事に入城しましたが、20名は飯盛山で自刃をされ、1人蘇生された飯沼少年を除いた19士の墓となります。


白虎隊十九士の墓の入口


白虎隊十九士の墓
お土産屋さんの飯盛分店にお線香も売っていました。
一般の方もここでお線香をあげることができます。

戊辰戦争後、会津藩は朝敵とされたために白虎隊の遺体を明治政府はそのまま放置しておくよう命じ(埋葬禁止令』埋葬の許可がされませんでした。 風雨に晒される少年たちの遺体は、衣服遺留品は盗賊に盗られ、 動物に食べられ酷い状態でした。 不憫に思った当時の山主飯盛正信が、村の吉田伊惣次と有志らと夜な夜なコッソリと骨を拾い集め、今の墓前広場の一角に仮埋葬をしました。 しかし、このことが西軍にわかり、正信爺は伊惣次と共に処罰され、その後許され出てきた時には正信爺は縄のようにやつれておりました。


少年武士慰霊碑


白虎観音

明治2年になって、ようやくこの飯盛山中腹に合葬が許され、飯盛一族は『一個人の私有地にお眠りなられるのは、さぞかし肩身の狭い思いをされるだろう。 ならば、この山をお殿様に献上すれば、永遠にお殿様の傍で安らかに眠れるであろう。』と、 土地三半歩を旧藩主に献納し、妙国寺の数体の遺体と共にこの飯盛山に白虎隊墓地が新設されたことで、『飯盛山は、わしが守る。』と、初代『飯盛キン』が慰霊を尽くしてから、二代目、三代目と継承し、現在で四代目となりました。  明治17年には墓地を拡げ慰霊祭が行われ、そののち明治23年になって自刃した隊士を19名と決定し大慰霊祭が行われ19士銘々のお墓が建ちました。


下の写真は「イタリー記念碑」です。 こちらは1928年に、白虎隊士をたたえてローマ市民からとして、当時のイタリアの首相ムッソリーニから『白虎隊とイタリアのファシスタ党とは、一脈相通じるものがある。』と贈られた石碑です。  大きなこの石碑は、赤色花崗岩の古代円柱で、その上部には右足に鉞を持った青銅の鷲が羽を広げています。 その碑文には『文明の母なるローマは白虎隊士勇士の遺烈に不屈の敬意を捧げんがため、古代ローマの権威を表すファシスタ党章のマサカリを飾り、永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る。』と記され、また裏面には『武士道の精華に捧ぐ、ローマ元老院と市民より』と刻されています。  この碑の中心の円柱は、79年のヴェスヴィオ火山の爆発で埋没したポンペイから発掘した古代ローマ宮殿の柱です。




こちらは郡上藩の凌霜隊の慰霊碑です。 凌霜隊は会津藩と共に戦い運命を共にしました。 同様な慰霊碑が郡上八幡城にもあります。

幕末の動乱期、郡上藩青山家中においても、勤王派、佐幕派に分かれて激論が繰り広げられていたが藩論は勤王と決した。 しかし、徳川家譜代の家臣であった青山家では、情宜的に佐幕の雰囲気も強く、特に江戸藩邸においては佐幕派が多数を占め、脱藩して新政府側に抵抗しようとする考えの者もいた。  新政府軍が江戸に迫りつつあった慶応4年4月10日(1868年5月2日)、江戸家老朝比奈藤兵衛の息子、朝比奈茂吉(当時17歳)が隊長となり、江戸在番の脱藩士45名による部隊を組織して、これを凌霜隊と名付けた。  「凌霜」とは霜を凌いで咲く葉菊のような不撓不屈の精神を表す言葉で、青山家の家紋である青山葉菊に由来する。 by wikipedia




白虎隊霊場の広場から脇道があり、そこから階段を下っていくと、白虎隊の自刃の地があります。 前述の通り、白虎隊はここから燃え盛る鶴ヶ城を見て自刃を決意したとのことで、我々も鶴ヶ城を探してみたのですが・・・見つかりませんでしたm(_ _)m しかし、鶴ヶ城方面の景色を見ていると、志半ばで散っていった十九士を思い、切なく感じてしまいますね。


鶴ヶ城を見る隊士の石像があります。

この景色のどこかに鶴ヶ城が・・・


〜さ ざ え 堂〜

この飯盛山は、観光スポットや順路が看板で示されているので迷子にならずにすみますよ。 白虎隊霊場を後にした一同は、最初の約束通り「飯盛分店」さんでお土産を購入し、黄色い紙にサインをもらって、次のスポットに参ります。  次にやってきたのは「さざえ堂」です。 昔、どこかで同じような建物を見た様な気がしますが、どこで見たんだったっけなぁ。。。

「さざえ堂」は正しくは『円通三匝堂(えんつうさんそうどう)』といい、寛政8年(1796年)に飯盛一族の先祖である飯盛山正宗寺第12世郁堂和尚によって建立され、西国三十三観音菩薩を安置した六角三層の観音堂です。  その形が さざえの殻に似ていることから俗に『さざえ堂』と呼ばれ、階段のない螺旋通路で上り下りができ、上りの人と下りの人がすれ違うことなく一方通行で巡れる世界にも例のない建築で、国の重要文化財に指定されています。


さざえ堂の正面です


さざえ堂を右から見た写真。桜が綺麗です。


さざえ堂を左から見た写真。不思議な形をしてますよね。


こちらは上りの通路です。階段は一切ありません。


頂上に着きました。今度は下りの坂道です。



〜宇 賀 神 堂〜

さざえ堂のすぐ脇には宇賀神堂がありました。

五穀豊穣の神、宇賀神(白蛇)をお祭りしています。 寛文年間(1661年〜1672年)、松平正容が厳島神社の傍社として建設され、現在は明治23年につくられた白虎隊十九士の洋装の霊像が祀られております。




〜巌 島 神 社〜

『弁天様』と親しまれるこの神社が、飯盛山の別名『弁天山』の由来にあたります。 『飯盛山』という名も、このお堂建設に纏わる神話が由来しています。

永徳年間(1381年〜1383年)に正宗寺の別当として『宗像神社』建設されました。 主神は市杵島姫命。 後に、明治の神仏分離令により『厳島神社と』改称され、仁王門の仁王像、は撤去され盧舎那仏も阿弥陀寺へ移されました。




〜戸 の 口 堰 洞 穴〜

天保年間に会津平野のかんがい用水として猪苗代湖より通水した洞穴ですが、戊辰戦争の折、 白虎隊が鶴ヶ城の情勢を確認するため飯盛山に向かう際、この洞穴をくぐりました。  現在でも農業や工業用水に使われています。





〜「西」氏のTシャツタ〜イム〜

ここで恒例の「西」氏のTシャツタイムがやって参りました。 飯盛山の入口付近にあるお土産物屋さん街の軒先を見ると、Tシャツがいくつも垂れ下がっているではありませんか! これはもう「西」氏が黙っておりません!  やはり飯盛山ですので、絵柄は白虎隊ですよね! 現地では広げることができなかったので、ホテルに着いて部屋でTシャツを見せてもらいました。