熊本市内・熊本城

博多駅前を出発して約2.5時間で、ようやく熊本市内に到着です。
まずは、車をホテルに置いて、ホテルに荷物を預け、徒歩で熊本城に
向かいました。この日は非常に寒く、あいにく雨も降ったり止んだりです。

こちらが、一泊目にお世話になった「熊本リバーサイドホテル」です。すぐ近くに川が流れており、最初はなんでこんな名前なんだろうと思っていましたが、すぐに納得です・・・中もそんなにメチャメチャ古いわけでもなく、普通に気軽に泊まれる感じです。何よりここから飲み屋街、熊本城などに徒歩でのアクセスが良く、最初から地理を理解していればかなり効率的に辺りを散策できたと思われます。「岡」氏「増」氏は迷いながら遠回りで移動していました(;_;)
こちらが熊本市内を走る「熊本市電」です。管理人は熊本に路面電車が走っているという認識がなく、初めて見た時は、感動してしまいました。

路線数は5本、運転系統は2系統あります。洗馬橋 - 新町間のみ専用軌道であり、ほかは全路線併用軌道となっているんだそうです。各路線は以下の通りです。
・幹線(熊本駅前 - 水道町)
・水前寺線(水道町 - 水前寺公園)
・健軍線(水前寺公園 - 健軍町)
・上熊本線(辛島町 - 上熊本駅前)
・田崎線(熊本駅前 - 田崎橋)
こちらが熊本城近くに鎮座する有名な「加藤清正」の像です。見た目は不思議な帽子をかぶっている人です。「岡」氏曰く「パンストを頭にかぶせて上から引っ張られているようだ・・・」こんなこと言ったら罰が当たりますっ(爆)

加藤 清正は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名である。肥後熊本藩初代藩主。豊臣秀吉の家臣として仕え、各地を転戦し武功を挙げ肥後北部を与えられた。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後熊本藩主となった。「賤ヶ岳七本槍」の一人である。主君秀吉の死後も豊臣家に忠義を尽くしたことが有名。
熊本城は、熊本県熊本市にあった城である。別名、銀杏城(ぎんなんじょう)。

安土桃山時代末期から江戸時代前後にかけて加藤清正によって、中世の千葉城、戦国時代の隈本城を取り込み、現在のような姿の熊本城が築かれた。日本三名城の一つとされ、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、一大名の城としては「日本一」であるとの評価がある。

細川氏の居城となった後もほとんど改変はなく明治初頭までは、大半の建物が撤去されずに現存していたが、西南戦争などにより焼失、破却された。昭和初期には大小天守と一部の櫓が外観復元され、近年では、櫓や御殿などの主要な建物を木構造で復元する事業が行われている。
加藤清正は特に石垣造りを得意とし、熊本城では、始め緩やかな勾配のものが上部に行くにしたがって垂直に近くなる「武者返し」と呼ばれる形状の石垣を多用している。熊本城で使用されている武者返しは慶長の役の際に難攻不落と呼ばれ朝鮮に築いた蔚山倭城に使用した築城技術を元にしたものである。 上益城郡山都町(旧・矢部町)にある通潤橋 は、江戸時代末期にこの熊本城の武者返しの石垣をモデルに架けられた。 江戸幕府の仮想敵であった薩摩藩に対する備えとして建造されているため、南側が非常に堅固(その分北側がかなり手薄)な構造になっている。この構造が西南戦争で薩摩軍の包囲戦をしのぐ事ができた要因の1つとなっている。

なお、石垣普請の名手とされる清正が築いた石垣は、改修された部分があるもののほぼ創建当初の姿をとどめ、城跡は特別史跡に指定されている。
管理人は初めて知りましたが、熊本城の別名って「銀杏城(ぎんなんじょう)」って言うんですね。

「銀杏城」という名の由来になっているのは、城内に植えられた銀杏の木である。これは、籠城戦になった時の食料確保のため、築城時に加藤清正がこの銀杏を植えたという。朝鮮出兵での蔚山城籠城戦での苦しい経験を生かしている。しかしこの銀杏の大木は雄木なので実はならない。また、清正は「この銀杏の木が天守と同じ高さになった時にこの城で兵乱が起こるだろう。」とつぶやいたという言い伝えがある。明治時代、清正が植えた銀杏の木は天守とほぼ同じ高さになっていたが、明治10年に西南戦争が起こり、熊本の城下が戦場となった。これは清正をたたえるための逸話であろう。しかし、資料としての信憑性は薄いものの、清正が人々に慕われていたことが分かる。 また、清正は城内の畳床を食用になる里芋茎で作り、籠城戦に備えたとされる。
熊本城は外観を楽しむだけではありません。城の中や、本丸御殿と呼ばれる建物にも数々の展示物があります。こちらの写真は、本丸御殿の中にある展示物です。本丸御殿というのは、藩主の居間、対面所や台所等の機能が備わっていたところです。現在は大広間、数寄屋(茶室)と大台所を復元しています。
こちらは城の中に展示してあった、天守閣のしゃちほこだったような気がします。この他にも城の中には鎧、駕籠、旧市街の模型、天守閣に近い階には日本の各地の城の写真等々、見ごたえ十分です。
これは城のすぐ横の広場にある、怪力無双の若者が、花岡山から首にかけて運んできた石なんです。熊本城築城の折、横手の五郎という怪力無双の若者が花岡山から首にかけて運んできた石と伝えられ、重さは1,800kgあります。五郎は天草国人一揆の際に、加藤清正と一騎打ちの末に殺された木山弾正の遺児で、清正を父の仇と狙い、城内に人夫として入り込んでいましたが、見破られ殺されたと伝えられています。五郎は殺されるとき井戸に落とされて、上から大石を投げ込まれますが、次々と石を受け止めこれを足場にして、どんどん上へ登ってきます。一計を案じた家臣が砂を流し込んでやっと生き埋めにしました。その後いろんなたたりが続いたので、横手村に祠を造り、横手大明神として祀られたそうです。