松  山  城

お次は松山市街に戻りまして、松山城にやってきました。 実は松山城は丁度10年前に国分寺連合のFGTで来ておりまして今日が2回目となります。 リフトで山の上まで登ったことや、天守の外観などは今でもよく覚えていますよ。  今回は松山城を見学した後に道後温泉に行くのですが、お嫁さんは道後温泉周辺は時間をかけて歩きたいというご要望だったので、松山城の天守は外から見るだけにして中までは入らない予定にしていたんです。  でも松山城が「現存12天守」ということ、やはり天守の外観がとても良いことなどから、途中で道後温泉の見学時間を短くしても中を見たいと考えが変わったようで、結局天守の中に突入することにしました。 もちろん管理人は大歓迎です。

先ほどの三津浜焼のみよしさんから松山城までは車で15分位でしょうか。 松山城の周囲までくると、以前ご来店したときの景色が思い出されますよ。 以前は確かホテルから歩きで松山城に行ったんですよね〜。  松山城が建っている山のふもとに時間貸しの駐車場が沢山ありますので、ここに車を停めて城へと向かいました。 リフト乗り場への道のりなど非常に懐かしく思い出されます。  昨日もそうでしたが、やはり天下の松山城と言っても、平日だと人が少ないですね^^; リフト乗り場も城までの道も天守の中も大分空いててよかったです。



ちょっと木が成長して邪魔だなぁ。。。

松山城は、松山市の中心部である標高132mの城山(勝山)山頂に本丸があり、裾野に二之丸(二之丸史跡庭園)、三之丸(堀之内)がある、広大な平山城です。 松山城は、愛媛県松山市にあった日本の城。 別名 金亀城、勝山城。 各地の松山城と区別するため「伊予松山城」と呼ばれることもあるが、一般的に「松山城」は本城を指すことが多い。  たびたび放火(不審火) や失火により往時の建造物を焼失している。 現在は、城跡の主要部分が公園として整備され、大天守(現存12天守の1つ)を含む21棟の現存建造物が国の重要文化財に、城郭遺構が国の史跡に指定されている。  そのほか、連立式天守群の小天守以下5棟をはじめとする22棟(塀を含む)が木造で復元されている。 また、現存十二天守としては、最も新しい城である。 by wikipedia

ちなみに先ほどから現存12天守と言っていますが、これは日本の城の天守のうち、江戸時代またはそれ以前に建設され、現代まで保存されている天守のことを言います。 12の城はどこかと申しますと、青森県の弘前城(未訪問)、長野県の松本城(管理人制覇)、 福井県の丸岡城(未訪問)、愛知県の犬山城(管理人制覇)、滋賀県の彦根城(管理人制覇)、兵庫県の姫路城(管理人制覇)、島根県の松江城(管理人制覇)、岡山県の備中松山城(未訪問)、香川県の丸亀城(管理人制覇)、愛媛県の松山城(管理人制覇)、 愛媛県の宇和島城(今回制覇)、高知県の高知城(管理人制覇)の12です。 管理人が制覇していないのはあと3つです。 絶対に死ぬまでに全部見ておきたいと思います!


〜 今 日 も リ フ ト で 登 頂 〜


こちらの券売機で往復券を購入します


チケットは往復520円です


リフトに乗るときは若干緊張します

一旦乗ると本当に気持ちが良いです
山のふもとから山の中腹まではリフトかロープウェイのどちらかで上ることができます。 もちろん歩きでも上れますが、もう心臓が破裂するのは目に見えていますので、今日ももちろん歩きません!  前回来たときはリフトに乗りましたが、あまりに気持ち良かったので、今日もリフトで上りたいと思います。 


〜 中 腹 か ら 天 守 ま で 〜




リフトを降りてた後は、歩いて10分位で天守のある本丸に到着します。 その間には門があったり、周囲の景色を楽しんだり、良い散歩道になっています。 ここらへんの道はあまり覚えていなかったで、結構新鮮に感じました。

松山城は、松山平野の中央に位置する勝山(海抜132m)を中心に築かれた平山城で、山頂に「本丸」が、南西の山麓に「二の丸」や、堀と土塁に囲まれた「三の丸(堀之内)」が配されています。 さらに本丸と二の丸をつなぐ全国でも珍しい南北2本の「登り石垣」や、 東と北の山麓に「東廓」「北廓」が配置されるなど、堅牢な城構えです。 また、それらが良好に残されている全国でも数少ない城跡で、敷地の大部分は「国史跡」に、本丸の建造物の多くが「重要文化財」に指定されています。 




松山城の築城は、関が原の戦い(1600年)での活躍により、この地を与えられた加藤嘉明によって、慶長7年(1602年)から始められました。 加藤嘉明は築城に合わせて、勝山の南を流れていた湯山川(現石手川)を付け替えました。  また城下町の整備を行い、三の丸と城の周囲に侍町を、その外側に町人地を置き、さらに勝山の北側にある御幸寺山の山麓に、城を防備するために寺町を配置しました。 なお加藤嘉明は正木城(伊予郡松前町)から慶長8年(1603年)10月に新城下に移り、このころから「松山」と呼ばれるようになりました。

城の完成は、寛永4年(1627年)に加藤嘉明が会津に転封された後、替わって入った蒲生忠知によると伝えられています。 蒲生忠知の死後、跡継ぎがいなかったため、寛永12年(1635年)に松平定行が松山藩に入り、以後明治維新を向かえるまえで、松平家の居城として機能しました。  松山城の天守は、松平定行によって三重に改築されましたが、天明4年(1784年)正月に落雷で焼失したため、安政元年(1854年)に再建されました。



こちらは戸無門
しばらく歩きますと、城門が見えてきます。 天守までの間にいくつも門がありましたが、こちらは「戸無門」という門です。 戸無門は本丸の大手登城道に設けられた高麗門です。 門は、両脇の寄掛柱を石垣にもたせ、脇戸はありません。  江戸時代から戸無門の名で呼ばれており、鏡柱に扉を吊る肘壺の痕跡もないので、創建当初から扉を持たなかったものと考えられています。 建築の年代は明らかではありませんが、寛永から正保年間(1624〜1648年)の建立になるものと推定されています。  また寛政12年(1800年)に建て替えられたことを示す棟札が残されています。 昭和10年(1935年)に国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財になりました。 





戸無門から更に進んでいくと、今度は太鼓門が現れます。 この太鼓門は、本丸大手の正門と位置づけられている脇戸付きの櫓門で、巽櫓や太鼓櫓とともに某沿線を構築しており、隠門や筒井門とその続櫓による第1の防衛線に続く、第2の防衛線となっています。  築城時に建てられたものと考えられ、明治時代になり石落や窓などが改変されました。 昭和10年(1935年)に国宝に指定されましたが、同20年(1845年)7月に戦災で焼失したため、昭和47年(1972年)2月に門は欅、階上は栂で復元されました。  門の両側の石垣には、戦災による剥離が残されています。



太鼓櫓
太鼓櫓は、本丸の西南隅に配置された二重櫓です。 この櫓は、巽櫓、太鼓門、太鼓門の西塀と同じ高さ(約7m)の石垣の上に築造されており、これらは一連の防衛線となっています。 築城時に建てられたものと考えられ、 明治時代に石落や突揚戸などが改変されました。 昭和10年に国宝に指定されましたが、戦災で焼失、昭和58年に復元されました。 古絵図には太鼓櫓前に本丸広場の警備の番所が記されています。


〜 本 丸 広 場 に 到 着 〜



リフトを降りてから約10分少々で本丸広場に到着しました。 この景色もよ〜く覚えています。 前回は横にある売店で朝からソフトクリームを食ったな〜。 でも周囲の景色は以前と変わらないままですね。  ちょっと変わったといえば、天守の前の木々が成長しすぎて、天守が隠れてしまっている。。。>_< これは大分邪魔ですねぇ。。。



天守入り口の受付に到着

こちらが天守に入る際のチケットです
冒頭にも言いましたが、今日は時間の都合で天守の中までは入らないつもりでしたが、城を目の前にするとお嫁さんの気が変わったようで、天守の中に突入することになりました。 やっり〜^^ しかしこちらの城でも新型コロナ対策には余念がありません!  実は、先ほどのロープウェイの乗り場でも、消毒したうえで、氏名や住所、連絡先を書くようになっていましたし、天守に入る際も、全く同じように氏名、住所、連絡先を書くようになっていました。 色々な観光地を回りましたが、ここのは特に厳重でしたね。





さ〜、それでは入城です! まずは最初に重要文化財にも指定されている「一ノ門」です。 脇戸付きの高麗門で本壇の入口になるのでこの名があり、木割りも豪放です。 二ノ門南櫓・三ノ門南櫓・小天守から射撃される構えとなっています。  天明4年(1784)に雷火のため天守とともに焼失し、天明6年(1786)年に再建されました。 昭和10年に国宝に指定されましたが、昭和25年に法の改正により重要文化材となりました。




次にニノ門が現れました。 本壇における第二番目の門で、薬医門の形式を持ちます。 天守・三ノ門東塀から射撃される構えとなっています。 こちらも一ノ門と同じく、天明4年(1784)に雷火のため天守とともに焼失し、天明6年(1786)年に再建。  重要文化財になったタイミングも一ノ門と同様です。



筋鉄門、立派ですね〜

ここが穴蔵です 天守に突入します!
こちらは天守の真下に位置します「筋鉄門」です。 こちらは脇戸付きの櫓門で、門の柱に鉄板が張ってあるためこの名がついています。 櫓は天守と小天守の通路となり、三ノ門を防衛する構えとなっています。 この脇に穴蔵という蔵がありまして、ここから天守の中に入れるようになっています。  この穴蔵というものも重要文化財になっておりまして、こちらは天守の地下1階にあたり、続に言う穀倉や米蔵のことです。 内部には防腐力の強い樟材を使用し、床に素焼きの煉瓦を敷いて湿気を避けています。 平面積89.25uで約2,000俵のコメが貯蔵可能と言われています。



昔ながらの急な階段


十間廊下というなが〜い廊下


加藤嘉明着用の鎧だそうです 確かに立派

お約束の刀<も展示してありました
天守の中は程よく展示物が陳列してあって、丁度良い感じでしたね。 個人的には展示物が多すぎると途中で嫌になって見たくなくなっちゃうんですよねぇ。。。 特に現存天守だと、柱や天井、床を見たり歩いたりしながら、当時の武士達の生活に思いをはせながら回るのが管理人の楽しみ方^^  でもそればかりだと寂しいから、たまに展示物があるといい感じなんですよね〜。 ここの天守のバランスは非常に管理人的に丁度よい感じです。



こちらは石落です

狭間があちこちに開いています
松山城の天守は連立式なので、中に入ると迷路のようです。 長い廊下があったり、階段も10数段ある高い階段があったり数段しかない階段があったり、曲がり角が沢山あったりと、中を歩いているとどの付近を歩いているのか分からなくなります。  看板を見ると、どうやら小天守までやってきたようです。 小天守は周囲に石落や鉄砲狭間、矢狭間が無数にありました。 ここも防御の要の役割を担っていることがよくわかる構造です。



ここらへんの木々の入り組み方がいい感じ

天井はこんな感じです
現存天守ならではの景色ですよね〜。 昨日見た今治城は完全にマンションでしたが、こちらは見るからにザ・天守! って感じがしますよ。 こういう木々の構造は個人的にはずっと見ていられます。 やっぱり民家のそれとは違うんですよね〜。  単なる思い込みかもしれませんが、天守のこういう構造物って当時の技術者たちの英知を集めて作ったものですから、形状とか雰囲気とかが一般の住居とは違う気がするんですよね〜。 こういうところが現存天守の一番の良さだと思います。



最上階に到着しました
ようやく最後の階段を上って最上階に到着しました。 普通の天守だと最上階から見える周囲の景色はその街の風景だと思うのですが、こちらは連立式なので周囲を見渡しても、もちろん街の景色もありますが、他の小天守などの構造物に目が行ってしまいますよね。  これは連立式の天守ならではの景色だと思います。 今まで連立式の天守は、姫路城、和歌山城などを見てきましたが、どこ行っても最上階からは天守を構成する建造物に目が行ってしまうんですよね〜。 大天守って大体一番背が高いから、周囲の構造物が丸見え^^ 上から見る天守も最高です〜。














いや〜やはり現存天守は中に入っても見ごたえが抜群でしたね。 ではでは帰路につくとしましょう。 でも帰り道にも色々な建造物を見ることができますよ。




天守を出てすぐにあるのが、仕切門内塀。 こちらは乾門方面に対して側防の構えとなっています。 こちらも前述の一ノ門、二ノ門などと同様に天明4年の雷で焼失し、その後安政元年に再建されています。 また重要文化財にしてされた経緯も同様です。




こちらも重要文化財です。 「仕切門」と言います。 こちらも脇戸付きの高麗門、天守の北側に位置し、内門との間が桝形となっています。 天守・玄関多門櫓によって防御される仕組みになっています。 




こちらは「天神櫓」と言います。 こちらは本壇東北の隅に位置しており、艮櫓・艮門、小筒櫓を防衛します。 またこの櫓には松平家の先祖である菅原道真の像を安置し、城の安全を祈ったということもあってこの名がついたそうです。

いや〜、それにしてもやっぱり松山城はいいですね! 最後に色々な角度からの天守・櫓などをご紹介して終了にしたいと思います。