大多喜城・大多喜城下町

東京ドイツ村の次にやって参りましたのは大多喜城址です。 実は本当は木更津では中之島公園なども観光する予定だったのですが、沿岸付近にある中之島公園は強風で観光にならないと判断し、急遽第二候補としていた大多喜城址にやってきた次第です。  城好きの管理人にとっては、大多喜城址にこれてホントにラッキーでしたよ。 なにせ大多喜城址は「続日本100名城」の一つなのです。 また管理人のコレクションが1つ埋まりましたよ。 そして、大多喜城の麓は城下町だったころの雰囲気を残した街並みが残っています。  今回は城だけでなく、城下町の雰囲気も一緒に味わいたいと思います。

東京ドイツ村が木更津から少し内陸に入ったところにあるのに対して、大多喜城址は木更津から南東に向かった房総半島の東寄りに位置します。  最初、東京ドイツ村でナビゲーションシステムに大多喜城址を入力したところ、途中有料道路を使用して約1時間の道のりと出たのですが、実際に走ってみると管理人が道を間違えたのか、一回も有料道路を使用せずにずっと一般道で大多喜城址までたどり着きました。  正直房総半島の南側って、信号もそんなにないし、道も全然混んでいないし、有料道路使っても使わなくても1時間くらいの道のりだとあんまり変わらないんですよね〜^^;  特にこの周囲は緑に囲まれた気持ちの良い道路なので、運転もいつも以上に楽しく感じました。 結果オ〜ライです^^


〜  大  多  喜  城  〜



東京ドイツ村から1時間かからずに大多喜城址に到着しました。 城のそばには「いすみ鉄道」も走っていましたよ。 小湊鉄道と並ぶ千葉を代表するローカル線です。(城を見た後に乗ってきましたよん)  このいすみ鉄道の「大多喜駅」を通過して、駅から車で約5分で県営の駐車場に到着します。 県営の駐車場は最初の30分の駐車料金は0円! しかも城を見学してきて戻ってきて料金見たら200円!  やっぱり地方は安いですよね〜。

県営の駐車場に車を停めた後は徒歩で移動します。 城は少し小高い丘に建っているのですが、ある程度上ったところに駐車場があるので、徒歩で上るのは5分少々といったところ。  少し歩くと、天守が見えてきますよ〜。 こちらのお城は徳川家康の四天王でも有名な本田忠勝さんの居城だったことでも知られているんだそうです。  


駐車場から登坂を歩いていくと「二の丸公園」という小さな公園が現れます。 なるほど〜、ここらへんが二の丸だったのですね〜。 よく見ると、公園の奥には「鐘つき堂(梵鐘)」があるようです。  見ると、上りの階段が・・・ どのくらい上らないといけないのか先が見えませんが、とりあえずせっかく来たんだから管理人は上り始めます。 お嫁さんは早々にダウンです>_<  実際に上ってみると、ものの2分で「鐘つき堂」に到着しました。 結構年代物ですね〜。 鐘には「南無阿弥陀仏」と書かれていたのでしょうか。 「南無阿」までは読めたのですが、その下はよく見えませんでした。  この鐘を吊っている木造りの建物も見事な造りをしていますね〜。 残念ながら鐘を撞く撞木がありませんでしたので、鳴らすことはできませんでしたが、なかなかに良いものを見ることができました。  


こちらが大多喜城二の丸公園です


この階段見たら上るか迷うよね^^;


こちらが鐘つき堂です


立派な鐘です。音を聞いてみたいですね



二の丸公園から更に坂道を2分位登りますと、天守が見えてきますよ〜。 ちょっと不思議な形をした天守ですね。 4階建てくらいの天守がド〜ンと建っていますが、一方から少し長くのびた廊下がありました。 

大多喜城(おおたきじょう)は、現在の千葉県夷隅郡大多喜町にあった戦国時代から江戸時代かけて存在した日本の城。 初めは小田喜城(おだきじょう)と呼ばれていた。 江戸時代には大多喜藩が置かれていた。  大永元年(1521年)に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされる。 以前は小田喜城は同町内の根古谷城のことであり、今日の大多喜城は徳川家康によって大多喜の地を支配した本多忠勝が築城したものと考えられてきたが、近年の発掘によって現在の城の地下に大規模な城の遺構が遺されていることが明らかとされて、小田喜城と大多喜城とが完全に重なる訳ではないものの、現在では信清の小田喜城を元にして後の大多喜城が築かれたものと考えられている。  信清の後を継いだ真里谷朝信の代の天文13年(1544年)に、里見氏の武将正木時茂によって真里谷氏は城を奪われて、以後時茂・信茂・憲時の3代に渡って正木氏が支配して、上総国東部支配の拠点とされた。  だが、天正9年(1581年)に里見義頼との内紛によって憲時が殺害されると、同城には里見氏の代官が派遣されたという。  天正18年(1590年)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与えられ、その配下の勇将・本多忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立した。  忠勝は里見氏の北上を防止するために突貫工事を行い、3層4階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、ふもとに城下町の建設を行った。 これが今日の大多喜城である。  





本田忠勝が大多喜城を建設して以後、この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしてきたが、元和5年(1619年)9月、藩主阿部正次が拠点を移したことにより大多喜藩は一時的に廃藩となったため、城は荒廃した。  寛文11年12月(1672年)、阿部正春が1万6千石で入城した際、幕府から「大多喜城は城跡になってしまっているので、追々再建するように」という命令が下ったものの、「一重の塀もないありさまで、門や櫓などもない」という当時の記録の通り、大多喜藩の規模縮小に伴い、荒廃した状態で長く支配が行われていたようである。  元禄3年(1690年)の幕府隠密の調査記録と思われる、『土芥寇讎記』にも、「幕府から大多喜城の再建命令が通達されたにもかかわらず、大多喜藩では命令を履行していない。  塀もない状態だ。 ましてや門や櫓などあろうはずがない」と記されている。 史料が少ないために江戸時代の状態は不明な点も多いが、阿部家以降の城主は多少の増築などは行ったようである。  ただし山頂の天守などは荒廃していたようである。 天保13年(1842年)には天守が焼失し、天守の代わりに2層の「神殿」と称する建築が天保15年(1844年)8月に建てられていたと考えられている。  明治3年12月(1871年)に城は取り壊され、その後本丸も削平されたという。 その後、昭和41年(1966年)に本丸跡は千葉県の史跡に指定された。  昭和50年(1975年)に城跡に天保6年(1835年)の図面を基にして天守が再建されて、内部には千葉県立総南博物館(現在の千葉県立中央博物館大多喜城分館)が設置された。  2017年(平成29年)4月6日、「続日本100名城」(122番)に選定された。 by wikipedia  







こちらの天守は、現存天守ではないので、外は城に見えますが、中身はマンションです^^; 中は資料館になっておりまして、城主だった武将の紹介や、刀剣、武具、美術品、当時の人々の暮らしなどを紹介しています。  どこの城に行っても同じようなものがありますが、やっぱりその土地土地で内容はずいぶん違うんですよね〜。 こちらの資料館は広すぎず、狭すぎずで非常にちょうどよい広さでした。  いくら城好きの管理人でもあまりに見るものが多すぎると、途中で飽きちゃうんですよね^^;

入館料は200円。 こちらもリーズナブルです。 今回、入館と同時に代表者氏名と連絡先を記入することが多かったです。 やはり新型コロナウィルスの対策なんでしょうね。  今回の旅行では、他にも同じように氏名、連絡先を記入した観光地がいくつかありましたよ。  


城内に突入します!


こちらが展示場の雰囲気です


さ〜中に入ってみましょう! 館内は2階〜4階までありまして、階毎にテーマが決まっています。 まずは2階に突入です。 2階には房総の城と武士をテーマに、城郭や武士に関する資料が展示されています。  お約束の刀剣や甲冑などの展示もありますね。 他に家系図なども展示されていました。   


お約束の刀剣です。何本も展示されていました


こちらは甲冑 松平家って書いてありました


本田忠勝さんの肖像画


これは徳川十六将の図です


様々な模様の刀の鍔


大口径の火縄銃 大筒のように見えます


次は3階に行ってみましょう! 3階は城下町の人々の暮らしぶりを示す商工業用具や調度品、信仰資料や古文書などを展示しています。 なんだか見たことがあるな〜と思ったのが、NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」で堺正章さんが扮する望月東庵先生がよくやっていた「すごろく」もありました。 これはホントにあったものなんですね。 でもルールが分からない・・・>_<

4階には大多喜城と城下町の大きな模型が展示されていましたよ。 それに加え周辺の文化財や写真を紹介しています。 ゆっくり見ていたからか、足が大分終わり始めています。   


望月東庵先生がやっていた「すごろく」です


これは将棋盤なんだそうです


古伊万里の徳利なんですって


浮世絵画家、歌川豊国が書いた錦絵


豪華な小袖ですね〜


管理人の大好きな古銭です


最上階に到達しました。 中央には大多喜城と城下町の模型が展示してあり、周囲の位置関係が分かるようになっています。 またこちらの最上階は外には出れないようになっていました。  天守最上階では周りにバルコニーのような廊下があり、そこから外の景色を眺められるという天守も多いですが、ここの最上階は窓にはガラスがはめ込まれており、そこから外の景色を覗き見る感じ。  風を感じれないので、少し物足りない感じですね〜。 ちなみに今日の風は沿岸部では強風でしたが、ここ大多喜のように房総半島の真ん中付近ではほとんど風はありませんでした。  最上階では特に展示物はなく、周囲の景色を眺めて終了〜。 大分足が終わって参りました^^;  


最上階からの景色です。 緑が多くてとても綺麗な場所です


格子の間から長廊下が見えます


中央に展示された模型です



〜  城  下  町  〜
実は大多喜城址を見学し終わった後は、いすみ鉄道乗車ツアーをしておりまして、そのあとに大多喜城下町を見学したのですが、大多喜城址と合わせて、先に城下町をご紹介することにいたします。  大多喜城下町は、大多喜駅から徒歩5分で到着します。 街並みの距離は約300m位でしょうか。 道の両脇には木造りで何か懐かしさを感じるような家屋が建ち並びます。 

通りには景観のために敢えて古い雰囲気で建てた新しい家屋もありますが、本当に昔からあった家屋もいくつかありました。  時間が大分遅かったので、すでに閉館しているところもありましたが、1軒だけ中を見学できる家屋がありましたのでお邪魔してみました。  







通りの一番起点になるところに「渡辺家」という「住宅」がありました。 こちらも昔からの建物のようですね。 何か田舎のおじいさんとおばあさんの家のような懐かしい雰囲気です。  でも残念ながらすでに今日は閉館のお時間に。 見てみたかったな〜。

こちらの住宅は、嘉永2年(1849)に地元猿稲町の棟梁、佐治兵衛によって建造された江戸時代末期の代表的な商家造りです。 寄棟棧瓦葺(創建時は茅葺)二階建てで、正面入り口は縦格子戸を、表板戸には上下戸をつけてあります。  間取りは、店・茶の間・中の間・奥座敷となっていて、南に勝手の間・土間があります。 奥座敷には木口縁をめぐらせてあって、床の間などに重厚さが見られ、武家造り風付書院・竿縁天井・箱階段・欄間の透かし彫りなど、各部に雅趣とすぐれた技法が見られます。  店構えや整った座敷など、この時代の上層商家の規模が良く示された貴重な建物で、国の重要文化財に指定されています。  





こちらは唯一中を見学できた家屋です。 「釜屋」さんという建物ですが、中には説明してくださる方がいまして、色々歴史についてご説明頂きました。  元々は質屋さんだったそうですが、その後不動産屋の事務所になったり、色々と変遷があり、現在の観光用の施設になっているそうです。  確かに、入口を入って小上がりになった部屋を見ると、質屋の番頭さんが小さな机の後ろにちょこんと座っているような時代劇によくある風景が思い出されます。

こちらの釜家「旧江澤邸」は往時の繁栄を忍ぶことができる貴重な建物です。 明治9年(1876)建築の土蔵造りの商家で瓦屋根にどっしりとした構えの町家で二階には重厚な観音開きの扉があり、 遠くに大多喜城の天守を望むことができます。 釜屋の実業は質屋、のちに金物屋を営んでいたそうです。 1階は帳場が置かれ商用に使用されていました。 土間を挟んで左右に座敷があり中央には太い欅の大黒柱があります。  正面の戸は珍しい上げ下ろしする板戸がそのまま残され、各間を仕切る引き戸も組子模様の美しい建具になっています。 2階は二間続きの蔵座敷になっています。 欄間の彫刻や襖の図柄など当時のままで往時を忍ぶことができます。  







家の造りも昔ながらで、雨戸なども現在の家にはないような不思議な造りをしていましたよ。 実際に閉め方、開け方等やり方を実演してくれたのですが、今まで見たこともないやり方だったので、ちょっと文章で説明するのは至難の業です>_<  なんとかお伝えしたかったのですが、無念でございますm(_ _)m

1階の説明を一通り伺った後は、2階にお邪魔します〜。 2階に上る階段は現存天守の急な階段を思わせるような急な階段になっています。 そういえば広島の田舎の家もそうだったような気がします。  2階には和室が2部屋。 部屋の上部には鴨居っていうんでしょうか、欄間っていうのでしょうか、見事な細工を見ることができました。 こちらの雨戸も特殊なつくり・・・ こちらも実演してくれたのですが、 やっぱりその様を文章では説明できませ〜ん。 外の屋根の上には何故か大きな瓶が据えられていました。 これは何かというと、この瓶の中には味噌が入っていたそうで、周囲が火事になったときに味噌を窓などの隙間に塗り込んで、中に火が入らないようにしたものなんだそうです。  先人の知恵ってすごいですね〜。