さ〜次に向かうのは今日一番の目玉! 「竹田城」です! 竹田城と言ったら「日本のマチュピチュ」「天空の城」とも呼ばれるとても有名なお城です。 今は天守も櫓も御殿もなく、石垣だけがその存在感を現していますが、やっぱり一番有名なのが雲海の中にそびえ建つ竹田城の姿でしょう。
なんでも朝方に竹田城の山の麓に霧が立ち込め、雲の上に竹田城が浮かんでいるように見えるだそうですよね〜。 テレビや写真では何度も見たことがあるのですが、やっぱりその場で自分の目で見るとその感動もひとしおでしょうね〜!
でもその感動を味わうのにはそれ相応の努力が必要でございました。。。 「日本のマチュピチュ」「天空の城」というくらいだから、標高がちょっと高いんですよね。 そしてそれを登らなければならない・・・ でた〜、また心臓が破裂するやつですよ(T_T) 岐阜城とか松山城などはロープウェイがありましたが、竹田城にはそんなもんな〜いっ! 今回の旅行は最初の布引の滝でも坂道を上って心臓が破裂しましたし、今度は竹田城に入るのに山を登って心臓が破裂。。。 もう心臓が何個あっても足りません! |
車は町営の無料駐車場に停めることができました。 そこから徒歩で山の方角に向かいますと駅が見えてきます。 こちらがJR西日本の播但線(ばんたんせん)の竹田駅です。 さすが竹田城の最寄りの駅というだけあって、周囲には竹田城の写真や資料館などもありました。
しかし、とても良い雰囲気の駅舎ですね〜。 駅の看板には「竹田驛」と古い「驛」の字を使っています。 こちら播但線は姫路市の姫路駅から朝来市の和田山駅の65.7kmを結ぶ路線です。 姫路駅から寺前駅までは電化されているようですが、ここらへんは電線がなかったのでディーゼル車が走っているんですね〜。
のどかで非常に良い雰囲気の駅でした。
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竹田駅の正面 |
竹田駅の裏側 |
雲海の中の竹田城の看板がっ! |
恒例の顔出しタ〜イムッ! |
竹田城ってとても有名なお城なので、駅を中心とした周囲もお土産物屋とか食事処で賑わっているのかと思ったら正反対! とても静かな街でした^^; 駅の入口(山とは反対側)は住宅地なんでしょうかね〜。
どのお宅も建物が新しくて綺麗なんですが、雰囲気を昔の街並みのように統一している感じです。 旅館やカフェなども一部ありましたが人も少ないですし、ホントに静かで浮ついた感は0ですね。
一方、駅の裏側にはいくつもお寺が整然と並んでいてとても風情がありますよ。 お寺と道路の間には小川が流れていて錦鯉が泳いでいます。 これは一句読めちゃいそうですね^^
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さ〜駅から山のほうに入っていきました。 事前調査によりますと、竹田城に登る道(道というか登山道)は4ルート位あったんです。 そのうち1ルートは駅周辺から出ているバスで途中まで行くルート。
ホントはこれが一番楽だったんだと思いますが、今日は駅から一番竹田城への距離が短いと思われる「駅裏登山道」を登りました。 これが結構キツイ!! 竹田城のゴールまでの距離は約950m。
その間は坂と階段の連続です。 これはもう「観光」ではなく「登山」ですね。
最初のほうはまだ元気でしたし、階段自体も登りやすいものでしたが、途中からはホントに戦国時代の階段を彷彿させるような険しい階段になりました。 1段1段の高さは高いし、歩幅もうまく合わないし、所々階段の石が崩れているし、雨は降ってくるし。。。 今回も出発してほどなく管理人は遅れだしました。 さすがに950mもこの道が続いたら2回位は心臓が破裂しますよね。 昔よく丹沢の山に登りに行ってた頃に上司から教えてもらった、手を後ろに組んでゆっくり上る戦法でマイペースで登りましたよ。 これまで、熊野古道や戸隠神社では敢無く途中リタイヤしてきましたが、今日の竹田城だけは絶対に自分の目で見たい!! その一心で頑張りましたよ〜^^ |
もう最初っから登山道って書いてあるじゃん |
最初はまだ舗装路の急坂です |
いや〜早くも遅れ始めました^^; |
もうマジでキツイ階段です>_< |
ゆっくりと歩いていると、上のほうから国分寺連合の話し声がしてきました! これはもうゴールが近いぞ! でも国分寺連合以外の人の声もするな〜、と思ったら管理棟にいたおねえさんも一緒に談笑しておりました。
お年は我々よりもかなり大先輩のような気がしますが、とても気さくで面白い方でした。 おねえさんに4人の集合写真も撮ってもらいましたよ。 雲海に浮かんだ竹田城の写真をバックに良い写真が撮れて良かったです。
ここには券売機がありまして、入城チケットを購入して竹田城に入ります。 大人1名500円。 しばらく歩くと、すばらしい石垣が見えてきましたよ〜。 いや〜もう登るのがほんっとうに大変だっただけに、猛烈に楽しみです。 |
4人で記念撮影です^^ いい写真が撮れました |
こちらが受付の管理棟です |
「竹田城址」と書かれた石碑です |
この券売機でチケットを購入します |
こちらが入城チケットです |
城に入るとすぐに「北千畳」というエリアに入ります。 竹田城は山の中にあるにしてはかなり広くて、中心部に天守があり、その両脇に横長に櫓や石垣が広がっている構造です。 今、到着したのは駅から見て右側になります。
いや〜それにしても石垣が非常に立派ですね〜。 大小の石が組み合わさって一つの大きな建築物を作り出しています。 更に石にはコケなんかも生えてまして、それがまた情緒豊かに感じさせるんですよね〜。
城内の石垣は複雑に入り組んでいて、見る角度によっても見え方が全然異なります。 もしかしたら建物がないから余計にそう思うのかもしれませんね。 建物があると石垣よりも建物に目がいっちゃいますし、複雑さは分かりにくいですもんね。
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城の周りからは360度のパノラマを見ることができます。 標高が357.7mということで思ったほど高くはないのですが、竹田城の麓は平地になっておりまして、遠くに見える山々や、平地の対比が非常に綺麗に見えますね。
ただ残念ながら、雨が降ったり止んだりの状態で、たまに濃い霧も出ていたので、景色が全く見えなくなることもしばしば。 でも霧が出たおかげで、ちょっと天空の城っぽい雰囲気を味わうことができました。
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北千畳からの景色 |
駅の方面を上から見下ろしています |
霧が出たり晴れたりの繰り返しでした |
雲海の中にいるような感じ!? |
竹田城を見学する際は、順路が決まっておりまして一方通行になっていました。 なので後戻りすることはできませんが、もう登りで足の筋肉と心臓が悲鳴を上げているので、後戻りしなくてよいです!
見学順路は土の上に何か滑らないようにするためか、フカフカの綿のようなものが敷き詰められていました。 特に今日は雨が降っていたので、このフカフカがなかったら結構滑って一人バックドロップになっていたと思いますよ。
このフカフカはかなりすぐれものです。
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竹田城跡は、標高353.7mの古城山山頂に築かれた山城です。 古城山の山全体が虎が伏せているように見えることから、別名「虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)」とも呼ばれています。
天守台・本丸を中心に、三方に向けて放射状に曲輪が配置されており、縄張りの規模は東西に約100m、南北に約400m、「完存する石垣遺構」としては全国屈指の規模を誇ります。
築城当時は土塁で守られていた城が、最後の城主赤松広秀により、今に残る総石垣造の城に改修されたとされます。 平成18年に「日本100名城」に選定され、平成24年には「恋人の聖地」として認定されました。 by 竹田城HPより
なんで「恋人の聖地」なのかは不明>_<
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竹田城跡の「中から見る」か、「外から見る」か、それによって見る場所が変わってきます。 中から見るには竹田城跡に登城してください。 まるで自分を包み込むようなパノラマの雲海が楽しめるはずです。
外から見るには立雲峡(りつうんきょう)に登ってください。 立雲峡は、竹田城跡の向かいの山(朝来山)の中腹にある展望スポットで、元々桜の名所として有名な場所です。by 竹田城HPより
今回は時間の兼ね合いもあって、立雲峡のほうには行きませんでした。 雨も降っていたし、霧も出ていたので、おそらく行ってもきれいに見えなかったのではないかなと思います。 |
こちらが天守台です |
雲海は、円山川から発生する霧によって生ずるものです。 昼の間に暖められた空気が夜になると冷やされ、川の水温よりも低くなると、川の水から蒸発霧が発生します。 その霧が山の間の低い部分にたまり、標高の高い部分から見ると雲海として見えます。
この霧の発生具合は、特に昼間と夜間との温度差が激しいほど出やすくなります(目安として10℃以上)。 日中雲のない晴天ですと、夜間は特に冷え込むのでさらに顕著です。
【時期】 9月〜11月 ※他の季節でも稀に見られるが、秋(特に晩秋)が一番発生しやすい 【時間】 明け方から午前8時頃まで 【条件】 1.湿度が高く十分な放射冷却があること 2.よく晴れていること 3.前日の日中と当日の早朝の気温の差が大きいこと 4.風が弱いこと 【その他】 但馬南部の濃霧注意報も要チェック |
天守台で記念撮影をしました |
築城に関しては不明な点が多い。 江戸時代末期に成立した『和田上道氏日記』によると嘉吉年間(1441年 - 1443年)に丹波国、播磨の出入口である竹田の地に「安井ノ城」が築かれたことを記している。
「安井ノ城」とは「竹田城」そのものをさす。 『和田上道氏日記』は古い伝承をまとめたもので、竹田城の築城に関しては他に史料がなく『史跡・竹田城』によると「嘉吉三年、山名持豊によって築かれ、
太田垣光景が初代城主に任じられたとする口碑を残すのみである」とし、嘉吉3年(1443年)に但馬守護山名宗全(持豊)によって築城され、太田垣光景が初代城主と言われる伝承を紹介している。
当時の竹田城は播磨と但馬の国境を守る拠点で、播磨を平定するための出撃の拠点ともなっていた。
時は戦国時代、信長と毛利氏の間が悪化すると、信長は播磨に羽柴秀吉を派遣した。 天正5年(1577年)10月、秀吉は黒田孝高に迎えられ姫路城に入城、それから1ヶ月で播磨の諸将から人質をとり帰服させることに成功した。 天正7年(1579年)5月、秀長は信長の命令で明智光秀支援のため竹田城から丹波へ攻め入ったが、秀長は竹田城に戻らず播磨に引き上げたと考えられ、毛利方の太田垣輝延が間もなく竹田城に入城した。 翌天正8年(1580年)4月、再び信長の命により秀長が6400兵を引き連れ但馬攻めを開始すると、竹田城、有子山城はさしたる抵抗もせず降伏した。 山名祐豊、太田垣輝延はその座を奪われ、山名氏と四天王と呼ばれた太田垣氏による支配は完全に終焉をむかえ滅亡した。 秀吉は秀長を有子山城主に、秀長配下の武将である桑山重晴を竹田城主にそれぞれ命じた。 桑山重晴は後に和歌山城に転封となり、替わって但馬出石城に前野長康、付将として豊岡城に明石則実、八木城に別所重棟、そして秀吉に投降した龍野城主斎村政広が竹田城の城主となる。 この斎村政広によって現在の竹田城が完成される。 最後の城主である斎村政広は関ヶ原の戦いでは西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めるも、西軍方は敗戦した。 このため東軍の亀井茲矩の誘いに乗る形で鳥取城攻めに加わり落城させる。 しかし城下の大火の責任を問われ、東軍の盟主であった徳川家康の命によって、慶長5年10月28日(1600年12月3日)鳥取の真教寺にて切腹。 政広の居城であった竹田城は家康の命により 山名豊国が受取りを務め入城した。 その後江戸幕府の方針により、竹田城は廃城となった。 by wikipedia |
今日の竹田城のイチ押しはこの写真 天守台にいらした係員さんのお勧め写真スポットです 石垣が立体的に折り重なるように配置されているのが分かります |
いや〜竹田城! すばらしいお城でした! ホントに頑張って登山してきてよかったです。 ではそろそろ下山しますか! 先ほど城の中に入ったところとは別のところが出口になっておりまして、行きとは別のルートで下山しました。
登りもきつかったけど、下りも結構しんどいもんですね^^; 管理人は体重が重いので、下りはスイスイでしたよ^^; 逆に登りに絶好調だった「西」氏や「吉」氏は足に来ていたみたい。 でもかく言う管理人も最後まで下りきったときには、
膝がガクガクして生まれたてになっておりました。 もちろん4人共次の日は超絶筋肉痛だったことは言うまでもありません。
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段差のある下り階段が延々と続きます |
こちらの神社が出口になっていました。 多分、ここは「表米神社登山道」だったのかな〜!? |