横  手  城  跡

いや〜ラーメンまいう〜でしたね〜。 腹も膨らんだので、ここからは東向きに方向を変え、横手市方面に向かいましょう! ラーメン屋を後にし、車で出発したのが11:50。 ここから横手市までは1時間以上かかります。  秋田県から山形県って結構距離あるんですよね〜。 先程の秋田県由利本荘市というのは山形県と隣接する市なので、山形県に入るのはすぐなのですが、本日のお宿は山形県の南のほうで、宮城県や福島県が近いほうなので、まだまだ道のりは長いです。  横手城は先ほどの由利本荘市から東に向かったところ。 今日のホテルはここから自動車専用道などを使用して南下したところにあるので丁度通り道って感じですね。 横手城跡への到着は13:40でした。

道路も空いているし、信号もあまりないので、横手城までスイスイと行くことができました。 ただ雨がねぇ。。。 ラーメンを食した時はまだ普通の雨だったのですが、食べ終わって車に乗って移動を始めると・・・ もうワイパーを最速にしても間に合わないくらいの大雨が・・・  由利本荘市から横手市に向かう間は、ず〜〜〜〜っと雨が激しくなったり、少し弱まったりの繰り返し。 今日はホントに雨男ブラザーズ炸裂です!! でもそんな中少しラッキーだったのが、車から外に出るタイミングでは雨が小降りになってくれていたんです。  ラーメンを食するときもそうでしたし、横手城を見学するときもそうでしたので、不幸中の幸いって感じですね。



も〜の〜すごい雨! ワイパー早くしても追いつかないです!

幸いにもラーメンを食しに行っている最中は、雨が小降りになってくれていたのですが、ラーメンを食し終わって車に乗り込むと、ほどなく雨が大降りに。。。 普通に50km/h位のスピードで走っているにも関わらず、ワイパーを最速にしても前が非常〜〜に見えにくい>_<  これは今日一日続きましたよ。  


駐車場に停めますと、そこから天守が見えてきます

今回観光した横手城は「日本100名城」「続日本100名城」には登録されていないのですが、今回の旅行で初めて天守のあるお城になります。 この天守が建てられたのは1965年とのことですので、築約60年!  結構経っていますね。 60年経っている割には壁の色も白いし、結構新しめの建物に見えますよ。 もしかしたら途中で何度か改修工事などをしているのかもしれませんね。 

また横手城の天守閣は資料館&展望台になっています。(天守を展望台って言うって・・・) 入場料が150円だったかな!? でも雨に降られていることもあるし、今回はいいかなって感じで、スルーしておきました。  天守の展望台からは、鳥海山や横手川、広大は横手盆地を見渡すことができるんだそうです。   


公園の駐車場から鳥海山が・・・ 何にも見えな〜いっ!

しかしなんでこのお城は「日本100名城」にも「続日本100名城」にも登録されていないんでしょうかね。 そもそもどのような基準で「日本100名城」は選ばれているのでしょう。  ちょっと調べてみると、「日本100名城」と「続日本100名城」を運用しているのは、「公益財団法人日本城郭協会」という団体なんだそうですよ。  この団体を調べてみると、1955年に城郭研究者井上宗和によって「城郭学」の樹立と各分野の城の研究者の交流を目的に任意団体としてスタートしたもので、 城郭・城址の調査・研究・維持・活用を促進し、貴重な歴史の遺産である城郭・城址と城郭文化を次世代に繋げることを目的に、教育・啓発・広報・研究など各種事業を展開しているんだそうです。  しかもHPを見てみると、理事長をされているのは「小和田哲男」さんじゃないですか! 小和田さんと言えば、NHKの大河ドラマで時代考証などもされている有名な歴史学者です。  最初は怪しい団体なのかな!?と疑っておりましたが、ちゃんとしておりました。 誠に申し訳ございませんm(_ _)m

そして話は戻りまして、「公益財団法人日本城郭協会」によりますと、「日本100名城」や「続日本100名城」に認定する基準としては、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」の三つが基準になっているんだそうです。  4万とも5万ともいわれる城郭遺跡の中から、城郭ファンからの推薦、考古学や建築史など専門家による選定を踏まえて決定しており、「続日本100名城」の選定では、日本城郭協会会員や日本100名城登城達成者からも推薦を得て決められているんだそうです。  今のところ、「日本100名城」と「続日本100名城」で200の城が認定されているけど、もっと増やして欲しいよね。 今回の横手城だって、再建された天守とはいえ、歴史的背景なども十分だと思うんですけどね。  他にも愛知県にある「清州城」とかも有名ですもんね。   


こちらが横手城の天守です 資料館&展望台になっています


別の角度から天守を激写!

横手城は、秋田県横手市城山町(出羽国平鹿郡横手町)にあった日本の山城です。 朝倉城や阿櫻城とも呼ばれています。 廃城後に城跡は横手公園として整備されており、模擬天守が建てられています。  昔は朝倉城といい、横手城は後の俗称になります。 天文23年(1554年)、小野寺景道により朝倉山に築かれたと伝えられています。 戦国時代には、小野寺配下の横手氏・大和田氏・金沢氏が横手城を拠点にして反抗しましたが、これは鎮圧されています。  その後、小野寺氏は横手に本拠を移しています。 

城の普請は石畳を用いず土居削崖とし、土崩れを防ぐ土止めと、城を取り巻く急斜面を敵兵が這い上ることができないように韮(ニラ)を植えたことにちなみ、別名韮城(にらじょう)とも呼ばれたそうです。  関ヶ原の戦いの際、当時の城主であった小野寺義道は、上杉景勝に通じたことから徳川家康に西軍方とみなされたため、慶長6年(1601年)に改易され、一時的に最上氏の手に渡りました。  慶長7年(1602年)、久保田城に佐竹義宣が転封されてくると横手城も佐竹氏の所有となり、城代が入れられました。 城代には伊達盛重、伊達宣宗に続いて須田盛秀が入り、寛文12年(1672年)に佐竹氏一門の戸村義連(戸村義国の嫡孫)が入城して以降、代々「十太夫」を称す戸村氏の宗家(戸村十太夫家)が明治まで務めました。  元和6年(1620年)、一国一城令によって久保田藩領でも支城が破却されましたが、横手城を重要な拠点と考えた佐竹義宣が幕府に働きかけたため、破却を免れました。  元和8年(1622年)、当時の江戸幕府年寄で下野宇都宮藩主の本多正純が宇都宮城釣天井事件でこの地に流罪され、寛永14年3月10日(1637年4月5日)に亡くなるまで過ごしています。  江戸時代末期、戊辰戦争の際には、東北地方で佐竹氏は孤軍官軍側につきました。 陸奥仙台藩と出羽庄内藩の軍勢が戸村義得(大学)の籠城する横手城を攻撃し、慶応4年8月11日(1868年9月26日)の夕方に落城。(横手の戦い)  明治4年(1871年)に廃城となり、明治12年(1879年)には戊辰戦争で戦死した22人の霊を慰めるため、焼け残った城の資材を再利用して本丸跡に秋田神社が建立されました。  本来の横手城に天守はありませんでしたが、太平洋戦争後の昭和40年(1965年)には郷土資料館と展望台を兼ねて二の丸跡に岡崎城をモデルに模擬天守が建設されました。  この天守は、東北地方における模擬天守の初見になるそうです。  


城の麓あった学校横に「横手城跡」とありました


こちらが大手門があった場所だそうです


天守の下の方にはご覧のような公園があります


これが秋田神社だったのかな!?

こちらの天守がある周囲は横手公園となっております。 見たところ、そんなに広くはないようですが、天守付近から下に降りれるようになっており、池や神社などもありました。  今回は少し雨が小降りになってくれましたので、公園内を一周散歩してみましたよ。 特に城の遺構のようなものは見受けられませんでしたが、なかなか綺麗な公園になっておりまして、 天気が良ければ市民の散歩コースにもなっていそうですね。 矢印では公園内に「秋田神社」があるって書いてあったのですが、小さな社しかありませんで、特に社の名前などは書いていませんでした。  これが「秋田神社」だったのかな!?