武 家 屋 敷

兼六園で三大庭園の一つを散策した後は、武家屋敷にやってきました。 こちらも金沢城公園や兼六園からそんなに離れてはいないのですが、足を温存するために車で移動しました。 武家屋敷付近の道路は非常にせまく、駐車場を見つけるのも一苦労。  武家屋敷付近ではちょっとづつ走りながら、細い路地に駐車場があるかを確認しながら進みます。 ようやくコインパーキングを発見しましたが、駐車料金が70分で100円って・・・ ものすごい安いです。 この価格で儲かるのでしょうか。。。  でも安いのは良いことですので、こちらに停めて武家屋敷に歩きだしました。


長町武家屋敷は香林坊というビルが立ち並ぶビジネス街から少し中に入ったところにあります。 この武家屋敷は加賀藩士の中級武士、下級武士が住居を構えていた地域で、現在も各屋敷では生活が営まれています。 黄土色で統一された土塀や屋敷の情緒タプ〜リです。  この長町武家屋敷跡界隈は、北陸初の景観地区に指定されているんだそうです。



この地区一体を長町といいます。 町名の由来については、香林坊下から図書橋あたりまでの長い町筋であったところから、この名がついたそうです。 また藩の老臣長氏や山崎長門の指名に由来するものとの言われ諸説があるそうです。 

この辺りでは、平士と呼ばれる加賀藩では中位の藩士が多く、二十余家を数えることができます。 藩士の職名は馬廻役、小姓組、近習衆、普請奉行、改作奉行付、門番役、藩校関連、算用場、産物方と多くの職種の藩士が居住しました。

加賀藩では知行高によって拝領する宅地の面積が決められていました。 百石から二百石までは二百坪、三百石から四百石までは三百坪等々。 屋根の周囲は土塀をめぐらし、高禄になると長屋門、物見などが設けられ、邸内に小者部屋、厩のあるのが通例となっていました。


武家屋敷跡の地域にご覧の小川が流れています。 大野庄用水(鬼川)という名前が付いています。 この小川には「一の橋」「二の橋」〜「六の橋」まで全部で6つの橋が架かっています。 この橋渡った通りがそれぞれ武家屋敷のエリアになっています。  中でも「二の橋」を渡った通りが歩行者専用道路になっており、土塀の街並みが続く有名な場所となっています。

こちらが二の橋です。 ここからは歩行者専用道路になっていますので、ゆったり土塀の街並みを見学することができます。


非常に落ち着いた町並みですね〜。 正に江戸時代にタイムスリップしたようですよ。 この両脇の家々には人々が現在も暮らしているんですよね〜。 管理人だったら少し落ち着かないような気がしてしまいますが、もう住んでいる方々は 慣れているのでしょうね〜。



家の門なども昔ながらの木造りの門で、非常に厳かな雰囲気を醸し出していますよ。 中級武士と言っても結構良い暮らしだったのかもしれませんね。



続いてやってきたのが、「三の橋」のすぐそばにあります「武家屋敷跡野村家」です。 こちらの野村家は唯一中を公開している家です。

天正十一年(1583)藩祖前田利家が金沢城に入城した際、直臣として従った野村伝兵衛信貞家は禄高千石、千二百石と累進し十代に渡って御馬廻組組頭各奉行職を歴任。 千有余坪の屋敷を拝して連綿と明治四年廃藩まで続いた由緒深い家柄である。 

武家制度の解体はついにこの地を庭園土塀を残して菜園としていたが、その窮乏は次第に土地を分譲したり、更に文明開化の町づくりの妨げとなって、大正に入るや住宅街として現在に至ったのである。 しかし未だに一部藩政時代の面影をとどめている。


こちらが野村家の入口です。 庭には兼六園と同じ雪吊が見ることができます。 実際に雪が積もった景色も見てみたくなりますね〜。


こちらは野村伝兵衛が着用した甲冑だそうです。 野村家内にこの甲冑を来て一番槍を果たした伝兵衛さんの記述がありました。

加賀、能登越中、三国の要にある末森城は前田利家の重臣奥村家福がこれを守っていた。 越中の佐々成政が徳川家康にくみすることとなり、秀吉派の利家を脅かさんと天正十二年(1584)九月十一日、八千の軍勢で末森城を攻めたのが末森城合戦である。  城主家福の必死の防戦と、危急の報に金沢城にあった利家は利長と共に急援し、二千五百騎の寡勢でその背後から急襲して勝利を収めた。 この合戦は「末森合戦図絵巻」となり、また「末森記」として戦史に残されており、その戦況の仔細も生々しく表現されている。  この闘いで馬廻衆野村伝兵衛は一番槍を果たし、利家卿より感状を授けられて千石の加増をもうしつけなされたと記されている。


部屋は修復はしていると思いますが、昔のままです。 襖などもガラスで防御されているところをみますと、当時のままなのかもしれませんね。 やはり家を見るだけでも、千石を超える武士となると結構偉い人な感じがしますよね。





こちらは庭園です。 ちょっと個人的にはゴチャゴチャしているような気がしないのでもないですが、もしかしたら伝兵衛さんは欲張りだったのかもしれませんね。 失礼m(_ _)m



家の中に茶室もありましたよ。 茶室が2部屋くらいあったようなのですが、一室では本当にお茶をたてて頂いている方がいらっしゃいました。 多分有料だと思うのですが、こういう体験もできるんですね〜。 というよりお茶室があることにビックリですよ。



こちらは謁見の間と書いてありました。 これは誰が誰に謁見する部屋なんでしょうね。 前田利家公がこの家に来るなんてことはないと思うので、やっぱり下級武士が伝兵衛さんに謁見する部屋なんでしょうね〜。  そう考えたら、更に伝兵衛さんの偉さが分かってきますね。 会社で言ったら重役クラスですね きっと^^;



野村家を後にし、更に武家屋敷跡を奥の方へ進んでいきます。 橋の数でいくと「四の橋」に「旧加賀藩士高田家跡」がありました。 

この建物は、江戸時代にこの地にあった加賀藩五百五十石平士・高田家屋敷の長屋門を復元したものだそうです。 加賀藩の平士階級には、家禄八十石から二千四百石の藩士が属し、中クラス以上の屋敷には門だけでなく、「長屋」「厩」を 付けることが認められていたそうです。 その長屋には中間や小者と呼ばれる武家奉公人たちが住み込み、門番やお供などの仕事をしていたのです。






最後は「六の橋」の「足軽資料館」にやってきました。 もうここら辺まで来ると、完全に足が終わってしまっています。 こちらの足軽資料館も当時の足軽屋敷の中に入ることができるのですが、畳敷きだったので足を休めるために中に入っているような感じでした。  資料館の皆様すみません。

藩政時代の貴重な足軽屋敷2棟を移築再現したものです。 建物の中は、足軽の職務や日常生活の解説・展示がなされており、屋根は昔ながらの石を置いたもので、当時の雰囲気をかもし出しています。  ちなみに足軽とは、戦闘時に駆り出される歩兵のことを指します。 戦国時代には弓や鉄砲の部隊を編制して活躍しましたが、江戸時代には武士の最下層に位置づけられました。