金 沢 城 公 園

近江町市場で昼ごはんも食したし、次は管理人が楽しみにしていた観光地の1つであります「金沢城公園」に参ります。 上手くいけば金沢城公園のすぐ隣にある「兼六園」にも行こうと思っていたのですが、あえなく時間切れ。  今日は残った時間は金沢城公園に使いたいと思います。

近江町市場からもそんなに遠くはないのですが、2人共足が終わりかけているため、車で移動することにしました。 ただまだ金沢市に入って間もなくて地理も全然理解していないので、金沢城公園に近い駐車場に停めるのに随分と 時間がかかってしまいましたよ。 何度も金沢城公園と兼六園の周りを廻ってしまいました>_< 駐車場はあるんだけど、反対車線で横断できなかったり、道を間違えてしまったり・・・ これは非常に分かりづらい道ですね・・・  って道のせいにしちゃいけませんよね^^; でもお嫁さんのナビゲートでようやく石川県立兼六園駐車場に停めることができました。 ホッ




金沢城公園に到着しましたよ〜。 一回はこの金沢城に来てみたかったので管理人は感無量です。 中は非常に広いです。 天守はありませんが、有名な五十間長屋や河北門では中に入ることもできます。 非常に楽しみです。

天正11(1583)年、前田利家が金沢城に入り、その直後から本格的な城づくりが始められました。 キリシタン大名として知られる高山右近を招き、築城の指導をを仰いだと伝えられています。 西丁口から尾坂口へと大手が変更されたのもこの頃です。  しかし、当時は城内に重臣たちの屋敷があり、決して広い城ではありませんでした。 慶長7(1602)年、落雷により天守閣が焼失した後、天守閣は再建されず、本丸には三階櫓と二の丸には御殿が建てられました。 

寛永8(1631)年の火災の後、二の丸の拡大や辰巳用水の通水などにより城の構造が変化するなかで、武家屋敷も城外へと出されました。 内堀を掘り、土を掻き上げて各曲輪が区画されていきました。 

宝暦9(1759)年の火災では、城のほとんどを焼失しました。 その後の再建では、実用性を重んじ、二の丸を中心とした整備が行われ、本丸の櫓は再建されませんでした。 細工所が新丸から堂形へ移されたのもこの時期です。 現存する石川門は、この後天明8(1788)年に再建されたものです。

平成13年に復元された菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓は、文化5(1808)年の二の丸火災の後再建され、明治14(1881)年の火災で焼失したもので、安政頃の景観を再現しました。 by 金沢城公園HP


前田利家公の銅像を発見しました。 金沢城公園に入るときは石川門(橋を渡って入る)という入口から入ることが多いと思うのですが、この前田利家公の銅像はその橋の下にあるんですよ。 なのでこの銅像を見る人って あまりいないような気がするんですよね〜。 たまたま我々は道を間違えたので、この銅像に会うことができました。 やっぱり金沢城に来るんだったら前田利家さんに会わないとね〜。

前田利家は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。 加賀藩主前田氏の祖。 豊臣政権の五大老の一人である。 14歳のころに小姓として織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持った。  その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、能登一国23万石を拝領し大名となる。 信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、最初は柴田勝家に付くが、後に羽柴秀吉に臣従した。  以後、豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、加賀国・越中国を与えられ加賀藩百万石の礎を築く。 また、豊臣政権五大老に列せられ、豊臣秀頼の傅役(後見人)を任じられる。 秀吉の死後、対立が顕在化する武断派と文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力するが、秀吉の死の8ヶ月後に病死した。 by wikipedia


前田利家公にお会いしまして、もう一度石川門のほうから金沢城公園に入城いたします。 いや〜ものすごくうれしいですね〜。石川門に至る橋の上では結婚式用の写真を撮影しているカップルがいましたよ。 こういうところで結婚用の写真を撮るなんて思い出に残りますよね〜。



こちらが石川門です。 堂々として強固な感じがしますね〜。 この門は金沢城の搦手門(裏門)として重要な位置にあり、後でもご紹介する「河北門」「橋爪門」と共に城の「三御門」と呼ばれたそうです。

重要文化財に指定されている現在の石川門は、天明8年(1788)に再建されました。 金沢城の搦手(裏口)門で、高麗門の一の門、櫓門の二の門、続櫓と2層2階建ての石川櫓で構成された枡形門です。










石川門を抜けますと、そこには横になが〜〜〜い五十間長屋が姿を現します。 この五十間長屋は金沢城の代表的な建築物の一つです。 残念なのがちょっと日が暮れかかっておりまして、影になっちゃっているんですよねぇ。。。 せっかくの五十間長屋が・・・

菱櫓に続く「五十間長屋」は、一般的には「多聞櫓」と呼ばれるもので、武器や什器等の倉庫です。 2階へ上がると、太い松の梁等、木組をそのまま見ることができます。 ここにも2箇所の石落があります。 多聞櫓とは石垣や土塁の上に建てられる長屋造の櫓のこと。 その名前の由来は、永禄3年(1580)、大和国を平定した松永久秀が多聞山城を築いた事が始まりで、その櫓の内に多聞天(四天王の1つで北の守神)を祀っていたことによると云われている。


石川門側から見た五十間長屋


二の丸広場から見た五十間長屋

この五十間長屋は中を見学することができます。 向かって右側にある菱櫓から中に入ることができます。 再建されたものですので中は新品同様で非常に綺麗ですが、この中から外を見ていると昔の城兵が敵方の動きを監視している様などが浮かんできます。


菱櫓を入ってすぐの場所です


櫓の2階部分。ここから3階に向かいます。


階段は昔の角度を再現しているそうです。


一番長い廊下の部分です。


五十間長屋からの景色。内堀が見えます。


こちらは橋爪門だと思われます。


展示物も興味深いものばかりです。刀や古銭、鏡です。


唐津、伊万里等各種の陶磁器も展示されています。


石川門を入って右手のほうには「河北門」があります。 こちらも中を見学できました。 こちらの門も大きく堂々としています。

「河北門」は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。 「石川門(重要文化財)」と「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれていますが、金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)の後、三御門の中で最初に安永元年(1772)に再建された重要な門です。



河北門の内部の様子です。


実際の内壁の構造を見ることができます。


河北門から右手のほうを伺いますと、広〜い広場があります。 ここが新丸広場という場所です。 この先に大手門があったそうなんですが、不覚にもあまりに広場に何もないので、きっと他に何もない出そうとスルーしてしまいました>_<

この新丸広場には築城時に藩の重臣の屋敷が建てられた場所で、戦時にはここで敵襲を防御するように考えられていたそうです。 その後重臣が増えるに従い重臣の屋敷は城外に移されるようになり、空き地になったところには細工所を設け、武具の修理や製造を行っていたそうです。


宝暦9年の大火で焼け、そのまま復元されずに広場となっています。

新丸広場を通り過ぎ、先程お城に入った石川門の丁度反対外にやってきました。 切手門という門を通り抜けますと、お城とは縁のないような洋風の建物が見えてきます。 こちらは「旧第六旅団司令部」があった建物なんだそうですよ。  建物は明治31年に建てられたんだそうです。 西暦に直すと1898年。 日清戦争が終わってすぐという感じですね。 陸軍本省が各師団建物の設計を行っていたため、全国に同様の建物が建てられたそうです。 やはりこういう軍関連の施設も 城に作られるのですね〜。








旧第六旅団司令部を通り抜け、更に奥に進みますと、なななんと見事な庭園が見えてきましたよ。 こちらの庭園は玉泉院丸庭園といいます。 大体庭園って言うと、屋敷があって池があって、橋があって、周りが緑って構図が多いですが、 こちらの庭園もまさしくその通り! 夜になるとライトアップもされるそうですよ。 丁度我々が見に行ったときは、池の掃除中でした>_< 良い雰囲気が台無しです。。。

玉泉院丸庭園は二代目藩主利長の正室玉泉院(永姫)が屋敷を構えたこがその名の由来とされ、三代目藩主利常が寛永十一年(1634)に庭作を始め、その後も歴代藩主によって手を加えられながら廃藩時まで存在していた庭園です。  平成二十七年三月、江戸時代末期の姿をもとに再現され、高低差のある立体的な構成、色紙短冊積石垣をはじめとする意匠性の高い石垣郡などが庭園の特徴となっています。










もう大分足が終わりかけていますよ〜。 でも周りの建造物や木々の中を歩いているので、気分的には非常に良いです。 続いてやってきたのは、先程見た「五十間長屋」を少し短くしたような建物、「三十間長屋」にやってきました。  石川門近くにあった五十間長屋に比べると、ちょっとだけ錆びれているような・・・^^; でもこの長さならばちゃんとカメラのフレームに収まるので取材しやすいです。 三十間長屋に行く前に「極楽橋」という橋を渡っていきます。  この「極楽橋」の名前は江戸時代から使われているようです。 二の丸と本丸附段の間の空堀に架けられています。

三十間長屋は本丸附段にある2層2階の多聞櫓で、石川門と同様に重要文化財に指定されています。 安政5年(1858)の築で、現在の長さは26間半です。 南面は入母屋造りですが、北面は土台の石組よりも外壁がさがっており、切妻造りです。






三十間長屋から本丸園地という緑地を抜けると「丑寅櫓跡」に出てきます。 もう櫓自体は残っていませんが、野積みの石垣は文禄元年(1592)の築造とされ、金沢城内最古の石垣なんだそうです。 名前の由来は本丸から見て 東北角、丑寅の方角に当るからだそうです。

この櫓跡からの眺望はなかなか良いものですよ。 兼六園や戸室山、医王山なども見えるそうです。






丑寅櫓跡を降りて五十間長屋の方に歩いていくと、またまた重要文化財が現れました。 それが「鶴丸倉庫」です。 鶴丸倉庫は幕末の1848年に竣工した武具土蔵で、石川門・三十間長屋と同様に重要文化財に指定されています。 明治以降は、陸軍によって被服庫として使われていました。 長らく「鶴丸倉庫」と呼ばれてきましたが、 実際に建築されているのは「東の丸付段」です。 石版を貼った外壁など、櫓や城門などとはデザインを変えています。 城郭内に残っている土蔵としては国内最大級の遺構で、総二階の延床面積約636平方メートルです。




いや〜それにしても金沢城公園は見応え満点ですね! これは兼六園を諦めてじっくり廻るので大正解でしたよ。 そしてまだまだご紹介したいものが! それは石垣なんです。 金沢城は様々な石垣の宝庫なんです。 城内を歩いて入ると、 色々なところで石垣に関する説明などもありますよ。



こちらは「自然石積み」。 最も古い石の積み方で、自然の石を荒削りしただけの石を用いて積む技法です。 金沢城初期の姿を使える数少ない貴重なもので、城内では東の丸北面石垣などに見られます。


こちらは「粗化工石積み」。 割石を加工し、形や大きさをそろえた石材(粗化工石)を用いて積む技法で、櫓や長屋などの外周の石垣に見ることができます。 二の丸北面石垣がその代表例で、加賀藩の石垣技術者、孤島彦三郎は「城内屈指の石垣」と称賛しています。


こちらは「切石積み」。 切石積みは、丁寧に加工した切石を隙間なく積む技法で、本丸への入口など白の重要な部分の石垣に見ることができます。 
金沢城では、前田利家の入城後、本格的な石垣づくりが始まりました。 出入口や庭園といった場所に応じて、特殊な技術やデザインが工夫されたこと、また何度も修築が繰り返されたことなどから、現在 さまざまな種類の石垣を見ることができます。 さらに、石垣づくりの秘伝書、石を切り出した丁場、石引き道の存在など、石垣に関する歴史資料や環境がそなわっていることをあわせ、金沢城は「石垣の博物館」と呼ばれています。