梶 原 景 時 と 一 宮 館 址


楽しいお盆休みはあっという間に過ぎてしまいました。 とはいえ台風で釣りにも行けなかったので、国分寺連合で夏の宴会を開催したのが唯一のイベントとなりました。 お盆休みから1週間経ち、今日はお嫁さんの実家にやってきました。  この時期はお義父さんの誕生日なので、いつもお祝いに訪れます。 昼に実家に到着し、まいう〜な寿司をいただきました。 いつも実家にお邪魔するときは、食事の後に近くの名所に散歩に行くのが定番です。  神奈川の西部(藤沢、茅ヶ崎、平塚、小田原)周辺は、実は歴史上非常に有名な名士の自宅跡や別荘、お城などが結構多いんですよ。 例えば、大東亜戦後に日本の再興に尽力した吉田茂元首相の別荘があったり、明治維新で有名な伊藤博文、山県有朋などの別荘、 江戸時代に入ると北条氏の小田原城、鎌倉時代では大庭氏、梶原氏などの城址もあるんです。 今日はその中でも初めてご来店する「梶原景時」の館址を訪問しました。 現在NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも登場した「梶原景時(中村獅童さんが好演!)」の所領は昔でいう相模の国、現在では寒川町にあたります。  さすがに鎌倉時代のものですので、建物や石垣などの建造物はありませんが、石碑や社などはありましたよ。 この周辺では梶原景時でちょっとした町興しもやっているようです。


〜 豊 月 堂 〜

こちらは地元の和菓子屋さんで「豊月堂」さんと言います。 実は梶原景時さんの館址は駐車場がなくて、すぐそばにあった和菓子屋さんに車を停めて見学に行くことにしました。  もちろんこちらの和菓子も購入させていただきましたよ。 和菓子もちゃっかり梶原景時さんに乗っかって、「景時最中」なる和菓子を売っていましたので、こちらをご購入〜。 最中はとてもまいう〜でした^^

店内にはなななんと! 中村獅童さんの直筆の手紙が飾ってありましたよ。 多分「鎌倉殿の13人」を撮影する前に、自身が演じる「梶原景時」ゆかりの地を訪れたのではないかと思います。  そしてその際にこちらの和菓子屋さんが、和菓子を贈ったようなんですよね。 手紙はその時のお礼状でした。


豊月堂さんの店構え


景時最中と景時饅頭を購入〜


棚の上は「鎌倉殿の13人」グッズで一杯


グッズの中に中村獅童さんの直筆の手紙が!

〜 梶 原 景 時 と 一 宮 館 址 〜

和菓子屋さんから歩いて5分少々で一宮館址に到着します。 そんなに広くはないですが、たたずまいが良い雰囲気です。 まずは今日の主役の梶原平三景時(生年不明〜1.200年)は「鎌倉本體の武士」と言われ、源頼朝を補佐し鎌倉幕府の基礎を築いた文武ともに優れた武士です。  梶原氏は桓武平氏の流れをくむ鎌倉党の一族とされ、同族には大庭氏、俣野氏、長尾氏らがいました。 治承四年(1180)伊豆に流されていた源頼朝が挙兵しましたが、8月24日に石橋山の合戦で大敗して椙山に逃れ「ししどの岩屋」に潜んでいました。  大庭景親率いる平家方の一員として参陣していた梶原景時は、頼朝を発見したものの討たずに救いました。 これが景時と頼朝の出会いでした。 翌年1月景時は、関東を平定し鎌倉に入った頼朝に土肥実平の仲介により面謁し、「言葉を巧みにする」と高く評価され、家臣として認知されました。  以来、源平合戦で多くの交易をあげた他、頼朝の片腕として侍所所司をはじめ様々な重職に携わりました。 頼朝の死後、正治元年(1199)十月、結城朝光謀反の疑いを将軍頼家に讒言したとの理由で御家人66名の連署をもって弾劾され、弁明の機も得られぬまま一宮に下向。  再度鎌倉に戻るものの、十二月に鎌倉追放が正式に決まり、鎌倉の館は取り壊されました。 正治二年一月二十日、景時とその一族は、朝廷や西国武士団の支援を軸に再起を図ろうと、一宮館をあとに京都へ向け出立します。 その途中、駿河国狐ヶ崎で在地の武士吉川小次郎らに迎え討たれ、交戦の上、梶原山にて最後を遂げました。  鎌倉幕府の主導権を手中にしたい北条氏と、頼朝の側近として職務に忠実すぎた景時を快く思わなかった御家人たちとの思惑が一致したことが背景にあったと言われています。


こちらが梶原景時座像です。中村獅童さんとは大分違いますね^^;

鎌倉殿の13人の皆さんの反対側にチケット売り場があります。 蜜を避けるためか、入場制限を行っているみたい。 チケット売り場に30人位の行列ができていましたが、割と回転がはやく、ものの10分弱で順番が回ってきました。  この待ち時間を利用して、入口で配られた展示品や時代背景のパンフレットを読んでおりました。 やはりこういう展示会などは、知識を入れておかないと見ても感動が半減してしまうのですよね。 

今回の展示会は「運慶」ですが、「鎌倉幕府と三浦一族」というサブタイトルがついていました。 鎌倉殿の13人をご覧の方はピンときたかもしれませんが、この三浦半島は三浦氏が治めていたんですよね。  ドラマ内で言いますと、佐藤B作さんや山本耕史さんが演じているのが三浦氏です。 鎌倉幕府も三浦半島にありますし、結構、鎌倉をはじめ、逗子、横須賀、三浦には鎌倉幕府や三浦氏とゆかりが深いものが多くあるんです。


こちらが一宮館址の入口です

梶原景時は一宮を所領としており、この地に館を構えたとされています。 館の規模は広大だったとの説もあり、現在も当時の堀のなごりをとどめていると伝えられています。 天満宮の位置はその一角で、当時は物見の場所として、一段と高く構築したとも伝えられています。  景時が討ち死にした後、館の留守居役の家臣も翌年尾張に移ったと伝えられ、物見のあとの高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したとも言われています。


正面にこじんまりとした鳥居が建ちます


鳥居をくぐると太鼓橋がありました


囲いがありますが、これが館があった場所!?


小さな神社がありましたのでお参りを。。。


小さい神社の奥に更に小さい神社が。お参りを。。。


明治42の石碑。軍関係のものみたい

〜 伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓 〜

一宮館址から徒歩で3分のところに、「伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓」という場所がありました。 梶原景時親子が討ち死にしてから、しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、世情が変わったのを見て、鎌倉に梶原氏の復権、所領安堵を願い出たのですが、許されず、七士はその場で自害し、それを祀ったものという説もあります。

梶原景時の長男は梶原源太景季(かげすえ)で、勇猛果敢で歌道にも秀でた弓取りだったそうです。 寿永三年(1184)正月、宇治川の合戦で佐々木高綱との先陣争いで愛馬「麿墨」とともに部名をあげたそうです。 同年二月、生田の森、一の谷の合戦では、折しも咲き誇る梅の枝を箙に挿し「かかれば花は散りけれど 匂いは袖にぞ残るらん」と戦陣を馳せる景季公の風雅を平家物語など諸本が伝え、今日でも能や歌舞伎で「箙の梅」が演じられています。