New Jersey(アイオワ級戦艦)



 ニュージャージー (USS New Jersey, BB-62) はアメリカ海軍の戦艦である。アイオワ級戦艦の2番艦。艦名はニュージャージー州に因んで命名された。 その名を持つ艦としては二隻目。

 ニュージャージーは1940年9月16日にフィラデルフィア海軍造船所で起工する。「ビッグ J(Big J)」の愛称で呼ばれたニュージャージーは1942年12月7日に キャロリン・エジソン(ニュージャージー知事チャールズ・エジソン夫人)によって命名、進水する。1943年5月23日にカール・F・ホールデン艦長の指揮下就役する。

【第二次世界大戦】
カリブ海と西大西洋で整調訓練を行い、1944年1月7日にパナマ運河を通過、エリス諸島のフナフティ島へ向かう。1月22日に到着し第5艦隊に加わる。 3日後に第58.2任務部隊に配属されマーシャル諸島への攻撃に向かう。1月29日から2月2日までクェゼリン環礁およびエニウェトク環礁へ航空攻撃を行う空母部隊の護衛を行った。
2月4日にマジュロでレイモンド・スプルーアンス提督率いる第5艦隊の旗艦となる。旗艦としての最初の戦闘は僚艦と共にトラック島の日本艦隊に対する 航空攻撃及び砲撃であった。この砲撃はクェゼリン環礁に対する攻撃で調整され、日本海軍のマーシャル諸島に対する反撃への効果的な抑制となった。2月17日、18日に機動部隊は 2隻の日本軍軽巡洋艦、4隻の駆逐艦、3隻の武装商船、2隻の潜水艦母艦、武装トロール船、航空機輸送船、23隻の補助艦艇を破壊した。トロール船を破壊し、 敵機を撃墜すると共に僚艦と協力して駆逐艦舞風を撃沈した。機動部隊は2月19日にマーシャル諸島に帰還した。
3月17日から4月10日の間にミッチャー少将座乗の旗艦レキシントン(USS Lexington, CV-16)とともにミリ環礁への攻撃を行い、その後第58.2任務部隊に 再び加わりパラオを攻撃、ウォレアイへ艦砲射撃を行った。マジュロへの帰路にスプルーアンス提督は旗艦をインディアナポリス(USS Indianapolis, CA-35)に変更。
その後4月13日から5月4日までマジュロで作戦活動を行う。4月22日にはアイタペ島、ニューギニア島のフンボルト湾、タナメラ湾へ航空支援を行う空母の護衛を行い、29日、30日には トラック島に対して艦砲射撃を行う。トラック島では二機の日本軍雷撃機を僚艦と共に撃墜している。5月1日にポナペに対して行われたニュージャージーの16インチ砲による砲撃は 燃料タンク、飛行場と司令部を破壊した。
マリアナ諸島攻略に先立って行われたマーシャル諸島攻撃の後、6月6日にミッチャー提督の機動部隊に加わる。6月12日に敵雷撃機を一機撃墜し、続く二日間で 6月15日の攻撃に先立つ砲撃をサイパンとテニアンに対して行った。 マリアナ諸島攻略に対して日本軍は反撃を行う。スプルーアンス提督の機動部隊はミッチャー提督の部隊と合流し、アメリカ軍潜水艦は日本艦隊を追跡した。 6月19日に空母部隊の護衛に出航し、同日アメリカ軍部隊は日本軍との大規模な戦闘を行う。日本軍機のパイロットは練度の劣る者が多数だったのに対し、アメリカ軍パイロットは 熟練しており、日本軍はその航空戦力の大半を失う結果となる。これは後に「マリアナの射的遊び Marianas Turkey Shoot」と揶揄された。この戦闘で その対空砲火の威力を証明した。日本軍は400機以上を失ったのに対して、アメリカ軍の損害は17機にすぎなかった。
マリアナ諸島攻略において、グアム島とパラオに対して最終攻撃を行い、8月9日に真珠湾に到着する。真珠湾で第3艦隊旗艦任務に就き、8月24日にハルゼー提督は 提督旗を掲揚した。8月30日に真珠湾を出航し、その後ウルシー泊地を拠点として作戦活動に従事する。太平洋戦争も終盤の時期に高速機動部隊はフィリピン、沖縄、台湾に再三の 攻撃を行った。
9月になると攻撃目標はフィリピンのマニラ、カヴィテ州、パナイ島、ネグロス島、レイテ島、セブ島といったヴィサヤ諸島となり、10月初めには沖縄、台湾の航空基地に攻撃が 行われた。これは10月20日のレイテ島上陸に先だって行われたものであった。 レイテ島における戦いでは日本軍は絶望的な特攻を繰り返した。レイテ沖海戦でハルゼー提督の艦隊は上陸支援のための欺瞞行動を行った。これは日本艦隊の主力が サンベルナルジノ海峡を通過するのを許すこととなった。10月24日のシブヤン海海戦では機動部隊艦載機が武蔵を撃沈している。主力部隊への脅威が増大すると その対応のため南に移動する。
ルソン島攻撃に向かう高速空母部隊とサンベルナルジノ海峡付近で1944年10月27日再合流する。その2日後、部隊は特攻攻撃に遭遇する。艦からの対空砲火および 艦載機部隊の攻撃で特攻機に反撃したが、戦闘中にイントレピッド(USS Intrepid, CV-11)の機銃弾が直撃し三名の乗員が負傷した。11月25日にも同様の攻撃が あり3機の特攻機が艦隊に突入した。1機はハンコック(USS Hancock, CV-19)の直上で爆発し、破片が軽度の損傷を与えた。もう2機はイントレピッドに突入し、 1機はニュージャージーの砲手が撃墜したがもう1機は突入に成功し士官6名と兵員5名が死亡した。カボット(USS Cabot, CVL-28)に突入しようとした特攻機も 撃墜したが、もう一機がカボットの左舷に激突、カボットは大きく損傷し62名が死傷した。
12月にニュージャージーは空母レキシントン任務グループと行動を共にする。同部隊は12月14日から26日までルソン島を攻撃した。その後巨大な台風に遭遇、3隻の駆逐艦が沈没した が熟練した乗組員によって損害を受けることはなかった。12月24日にウルシー泊地に帰還し、チェスター・ニミッツ海軍元帥によって出迎えられた。
1944年12月30日から1945年1月25日までハルゼー提督の旗艦として巡航を行い、台湾、沖縄、ルソン島、インドシナ、香港、汕頭、廈門で空母部隊を護衛した。 1月27日にウルシー泊地で旗艦任務を解かれるが、2日後に第7戦艦部隊を指揮するオスカー・バジャー少将の旗艦として再任命される。
硫黄島攻撃を支援し、エセックス任務グループを2月19日から21日まで護衛する。また、25日に行われた航空機工場を目的とした東京攻撃の際も空母護衛を行う。 続く2日間にわたって沖縄に対する空襲が行われた。
3月14日から4月16日まで沖縄占領の直接支援を行う。空母部隊の本州攻撃を支援し、艦載機による不時着パイロットの救助、特攻機の空母突入への防御を行う。 少なくとも3機を撃墜し、僚艦と共同して敵機を破壊した。3月24日に再び艦砲射撃任務を再開する。
終戦直前にピュージェット・サウンド海軍工廠でオーバーホールを行う。その後7月4日に出航、サンペドロ、真珠湾、エニウェトクを経由してグアムに向かい、 グアムで8月14日に再びスプルーアンス提督指揮下の第5艦隊旗艦となる。マニラと沖縄に短期間停泊した後9月17日に東京湾に入り、1946年1月28日まで日本占領軍の旗艦を務める。 その後旗艦任務をアイオワ(USS Iowa, BB-61)と交代し、1,000名近くの復員兵を乗せ2月10日にサンフランシスコに到着した。
6月7日から8月26日の間に第二次世界大戦終結後初めての北ヨーロッパ水域を巡航する練習艦隊を形成する。2,000名以上の海軍士官学校生と海軍予備役士官を 乗せ、リチャード・L・コノリー提督の指揮下艦隊は東大西洋および地中海を巡航した。6月23日にスコットランドのロシスで艦隊旗艦を命ぜられる。 オスロ及びポーツマスでの公式歓迎会の会場となり、オスロではノルウェー国王ホーコン7世が7月2日に閲兵を行っている。練習艦隊は7月18日にカリブ海、西大西洋で訓練のため西に 向かう。
ハーバー・H・マクレーン少将指揮下の第1戦艦部隊旗艦任務に9月12日から10月18日までニューヨークで従事した後、ニューヨーク海軍造船所で不活性化される。 1948年6月30日にベイヨンで予備役となり、ニューヨークの大西洋予備役艦隊入りする。

【朝鮮戦争】
1950年11月21日、ベイヨンでデヴィッド・M・タイリー艦長の指揮下再就役する。朝鮮戦争参加に備えてカリブ海で慣熟訓練を行い、1951年4月16日に ノーフォークを出港する。5月17日に朝鮮半島沖に到着し、第7艦隊指揮官のハロルド・M・マーティン中将は続く六ヶ月間ニュージャージーを旗艦として使用する。 5月20日に元山への砲撃を行う。朝鮮戦争での2度の任務期間に、再三にわたって海上移動砲台の役割を果たした。地上砲が及ばぬ位の重砲撃を速やかに 移動しながら目標から別の目標へと行い、敵補給基地や連絡路、拠点を破壊し国連軍の直接あるいは間接支援を行った。また同時に、求めに応じて空母の護衛も行った。 ニュージャージーが朝鮮戦争で唯一被弾したのは、元山で空母の護衛任務を行っていたときであった。沿岸に接近しすぎたため海岸砲台から砲撃を受け第1砲塔に着弾、 兵士が1名死亡した。これが朝鮮戦争で唯一のニュージャージー乗組員における戦死者であった。
5月23日から27日および31日、は襄陽郡およびKansongへ砲撃を行い、橋と三つの大きな弾薬庫を破壊した。偵察機はKansongで鉄道施設と車両の破壊、襄陽の 放棄を確認した。5月24日、不時着した飛行士を探索していたニュージャージーの艦載ヘリコプターが燃料切れのため墜落した。操縦士は友軍勢力地へたどり着き、無事帰還する ことができた。
太平洋艦隊最高司令官アーサー・W・ラドフォード提督と極東艦隊司令官C・ターナー・ジョイ中将を乗艦させたニュージャージーは6月4日に元山を砲撃した。2日後、Kansongで敵の 砲兵連隊およびトラック部隊を砲撃し、第7艦隊の艦載機が砲撃の成果を確認した。7月28日に元山沖で海岸砲台に対して砲撃する。異常接近でいくつかの反撃を受けるが、ニュー ジャージーの正確な砲撃は砲台を破壊し敵を沈黙させた。
1953年5月23日に就役10周年記念式が仁川で行われ李承晩大統領夫妻、マクスウェル・D・テイラー中将および他の高官が乗船した。2日後 Chinampo 西海岸の港湾防衛施設に砲撃を 加えるため任務に戻る。 5月27日から29日まで元山で攻撃を受けるが、5インチ砲の砲撃で敵を沈黙させる。また、16インチ主砲により5つの砲台と4門の洞穴砲を破壊した。加えて炎上する燃料庫または 弾薬庫に対して砲撃を行った。 6月7日に固城郡付近の部隊支援という重要任務に戻る。最初の砲撃で2つの砲台、観測所、塹壕を破壊し、その後一層の援助が要請された。6月24日には元山に対し 1日にわたる砲撃を行い、3つの洞穴に8発の直撃弾を与え、1つを倒壊させ4つを使用不能とした。翌日固城の部隊支援に戻り7月10日まで砲撃を行った。
7月11日、12日に元山に対し朝鮮戦争で最も激しい砲撃の一つを行った。初日は9時間に渡って行われ、2日目は7時間であった。砲撃により Hodo Pando および 朝鮮本土の敵砲台と燃料庫が破壊され、少なくとも10門の沿岸砲と多くの洞穴およびトンネルが破壊された。7月13日には Kojo のレーダー施設と橋を破壊し、22日から24日まで 東海岸を砲撃、固城付近の韓国軍を支援した。この3日間の砲撃は最も正確に行われた。敵司令部のあった大きな洞穴は破壊され、1ヶ月にわたった国連軍の努力は終了した。 多くの燃料庫、砲台、観測所、塹壕などが破壊された。
7月25日の早朝に興南の沿岸砲台、橋、石油タンク、通信施設及び鉄道施設に対して砲撃を行う。午後には北へ移動し、Tanchonの鉄道路線及びトンネルに向けて 砲撃を行い、夜間に沿岸を走る列車を破壊しようと試みた。主砲は2本のトンネルに向けて発射されたが、暗闇のため6門の主砲斉射の結果を知ることはできなかった。 翌日の元山砲撃がニュージャージーの朝鮮戦争における最後の任務であった。この砲撃で敵の野砲、燃料庫、洞穴及び塹壕を破壊した。2日後に休戦が知らされ、香港への7日間の 訪問でこれを祝った。香港には8月20日に停泊し、その後日本及び台湾近海での作戦活動に従事する。この間に釜山を訪問し、釜山では9月16日に李承晩大統領が第七艦隊に 殊勲部隊章を授与するため乗艦した。
10月14日に横須賀でウィスコンシンと旗艦任務を交代し、翌日帰路につく。ノーフォークには11月14日到着した。続く2年にわたって、夏に海軍兵学校生の 訓練のため大西洋を横断し、その後は大西洋岸とカリブ海で演習と訓練任務を行った。
1955年9月7日にノーフォークを出港し第6艦隊での初の任務を地中海で行う。ジブラルタル、バレンシア、カンヌ、イスタンブール、クレタ島、バルセロナに寄港した。その後春の 訓練活動のため1956年1月7日にノーフォークに帰還する。その夏、海軍兵学校生を乗艦させ北ヨーロッパに訓練航海し、7月31日にアナポリスに戻る。8月27日に 第2艦隊指揮官チャールズ・ウェルボーンJr.海軍中将のの旗艦としてヨーロッパへ再び出航する。リスボンを訪問、スコットランドからNATOの練習に参加し、ノルウェーに 公式訪問しオーラヴ皇太子をゲストとして受け入れた。ノーフォークに10月15日に帰還し、12月14日にニューヨーク海軍造船所に到着、不活性化を行う。 1957年8月21日に予備役となりベイヨンで予備役艦隊入りする。 【ベトナム戦争】
ニュージャージーの3度目の就役は1968年4月6日にフィラデルフィア海軍造船所で、J・エドワード・スナイダー艦長の指揮下行われた。エレクトロニクスの 近代化とヘリコプターの着艦機構が増設され、40mm機銃は全て撤去、重砲撃艦として使用されることとなった。ニュージャージーの16インチ砲は遠距離の安全な位置から敵に 大きな打撃を与えることが期待された。
ニュージャージーは世界で唯一現役任務にある戦艦として5月16日にフィラデルフィアを出港、パナマ運河を通過してあらなた母港のロングビーチに6月11日に到着した。 南カリフォルニアで訓練を行った後、7月24日に給兵艦マウント・カトマイ(USS Mount Katmai, AE-16)からハイラインとヘリコプターによる輸送で16インチ砲弾と装薬を受領した。 これは初のヘリコプターによる戦艦の海上補給であった。
ロングビーチを9月3日に出航したニュージャージーは真珠湾とスービック湾に立ち寄り、9月25日に最初の砲撃任務のためベトナム沖に到着した。9月30日に北緯17度線付近に達し、 非武装地帯(DMZ)の北ベトナム軍拠点に対して砲撃を行った。その砲撃で2つの野砲陣地と2つの補給地を破壊する。翌日も砲撃は続けられ、対空砲火により海上に脱出した航空機の 乗組員も救出している。 続く6ヶ月にわたってベトナム沖で定期的な艦砲射撃と火力支援を行い、時折スービック湾を訪れ、海上で補給を行った。最初の2ヶ月で10,000発に及ぶ砲弾を 北ベトナムに撃ち込み、このうち3,000発以上が16インチ主砲弾であった。
1969年にベトナムでの任務は終了するが、16インチ主砲を116,000回以上、5インチ砲を100万回以上発射した。これは第二次世界大戦以来最も激しい海軍艦艇に よる艦砲射撃である。
ベトナムでの任務が終わると1969年4月3日にスービック湾を出航、日本へ向かう。2日後横須賀に到着し4月9日に帰国の途につく。しかしながらその帰国は遅れ、 帰路の途中にあった15日に日本海で北朝鮮のジェット戦闘機が非武装の EC-121 コンステレーション電子偵察機を撃墜し乗員全てが死亡、空母機動部隊が組織され日本海に派遣される。 ニュージャージーも日本海への急行を命じられ、再び日本へ向かう。22日に再び横須賀に到着し動員態勢のまま待機する。
緊張が緩和すると中断された帰途に再び戻る。1969年5月1日にロングビーチに到着し、8ヶ月ぶりに母港に錨を降ろした。夏を通じて 乗組員達は次の任務に備えて準備を行う。また、ベトナムでの砲撃任務時に発見された不具合も改善された。公式報告によればニュージャージーの退役は経済的理由によるものと されるが、多くがニュージャージーがベトナムへの砲撃を中止しなければパリ和平会談に出席しないとベトコンが主張したため退役させられたと信じている。1969年8月22日に 国防長官は不活性化される艦のリストを公表した。そのリストの一番上にニュージャージーの名前があった。5日後にスナイダー艦長はロバート・C・ペニストン艦長と交代する。
予備役艦隊入りするという任務のため、ペニストン艦長と乗組員は準備を行う。9月6日にロングビーチを出港しピュージェット・サウンド海軍工廠に向かう。 8日に到着し、退役のための不活性化オーバーホールを始めた。1969年12月17日に予備役となり、不活性化の上予備役艦隊入りした。

【レバノン内戦】
1982年12月28日にカリフォルニア州ロングビーチで4度目の再就役を行う。レーガン大統領の「600隻艦隊構想」で姉妹艦と共に16発の ハープーン対艦ミサイルや32発のトマホーク巡航ミサイルなどで近代化が行われた。
翌1983年7月にはニカラグア封鎖作戦に参加する。その後レバノン内戦が激化すると、アメリカ合衆国の権益を守るために海兵隊が出動し、アメリカ国籍の船舶保護のため海軍は 展開した。9月19日、アメリカ軍基地が攻撃されると巡洋艦ヴァージニア(USS Virginia, CGN-38)と駆逐艦ジョン・ロジャース(USS John Rodgers, DD-983)は搭載する5インチ砲による 338発の砲撃をベイルート東方、シューフ山地のサグ・エル・ガルブ村を守るレバノン軍に対して行った。これはアメリカ合衆国の政策の変化を示した物であった。 また9月25日にベイルート沖に停泊した。
11月28日にアメリカ政府はニュージャージーが、乗員は交替するもののベイルート沖に停泊を続けることを発表した。12月14日にベイルートのシリア軍対空陣地に 向けて11発の主砲を発射する。これはニュージャージーが1969年にベトナムで発射して以来初めての16インチ砲の発射であった。
1984年2月8日にドゥルーズ派およびベッカー高原のシリア軍陣地に対し約300発の主砲を発射した。このうちおよそ30発がシリア軍司令部を直撃し、レバノンの シリア軍司令官及びシリア軍高官を殺害した。これは朝鮮戦争以来最も激しい戦艦による艦砲射撃であった。

1990年代始めにソ連が崩壊、冷戦が終結すると国防予算の徹底的な削減が行われることとなる。運用に多くの乗員を必要とする戦艦は真っ先に予備役の対象となり、 ロングビーチ海軍補給基地で1991年2月8日に予備役となり、ワシントン州ブレマートンに牽引された。
1996年の国防認可法は海軍に対し二隻の戦艦をモスボール化の上、海兵隊の揚陸作戦にいつでも使用できるように予備役艦隊で保管することを要求した。アイオワは2番砲塔の 爆発事故でニュージャージーより悪い状態にあったが、海軍はニュージャージーをモスボール化することを決定した。ニュージャージーの補修コストはアイオワを補修するよりも 少なくすむと考えられたが、1999年のストローム・サーモンド国防認可法はアイオワを稼働体制に置くことを要求した。さらに海軍はニュージャージーを博物館として寄贈する 準備を進めていた。ニュージャージーはニュージャージー州カムデンが入手し、博物館として公開されることとなった。
1999年9月12日にタグボート、シー・ヴィクトリーによってブレマートンからフィラデルフィアまで牽引され、11月11日に到着した。2000年1月20日、海軍長官 リチャード・ダンチヒはニュージャージがカムデンのホーム・ポート・アライアンスに寄贈され博物館として公開されると発表した。現在ニュージャージーは博物館及び メモリアルとして公開される。博物館は2001年10月に一般に公開された。
2001年9月11日の同時多発テロの後、海軍長官は海軍旗をニュージャージーに残すように命じた。
ニュージャージーは第二次世界大戦の戦功により9つの、朝鮮戦争の戦功により4つの従軍星章を、またベトナム戦争の戦功により2つの従軍星章と海軍部隊栄誉章を受章した。

[同型艦]
・BB-61 Iowa
・BB-63 Missouri
・BB-64 Wisconsin
艦 歴(New Jersey)
起工
1940年9月16日
進水
1942年12月7日
就役
1943年5月23日
退役
1991年2月8日
現在
退役後、博物館として公開
建造所
フィラデルフィア海軍造船所
仕様・諸元(New Jersey)
排水量 基準排水量:48,500 t
満載排水量:57,271 t
全長 271 m
全幅 33 m
喫水 11.6 m
機関 バブコック&ウィルコックス式重油専焼ボイラー8基
GE式またはウェスチングハウス式蒸気ギヤードタービン4基4軸
(212,000馬力)
最大速 33ノット
航続距離 16,600海里(15ノット航行時)
乗員 1,921 名
兵装(1944年) ・50口径40.6cm砲 × 9門
・38口径12.7cm砲 × 20門
・56口径40mm対空砲 × 80門
・70口径20mm対空砲 × 49門
兵装(1968年) ・50口径40.6cm砲 × 9門
・38口径12.7cm砲 × 20門
兵装(1983年) ・50口径40.6cm砲 × 9門
・38口径12.7cm砲 × 12門
・トマホーク巡航ミサイル × 32発
・ハープーン対艦ミサイル × 16発
・ファランクス20mmCIWS × 4基