XB−70(ノースアメリカン社)
XB-70は、アメリカ空軍の試作戦略爆撃機。製造は2機のみ。愛称はヴァルキリー(Valkyrie)(北欧神話の戦乙女ワルキューレの英語読み)。
最高速度マッハ3でアラスカ−モスクワ間を無着陸で往復可能な超音速戦略核爆撃機として計画されたものの、大陸間弾道ミサイルの発達などで存在意義を失ったことなどから
制式採用には至らず、また試作機のうち一機は空中衝突事故で失われた。現在は残された一機がオハイオ州ライト・パターソン空軍基地のアメリカ空軍博物館に展示されている。
1954年、戦略空軍司令官に就任したカーチス・ルメイによって超高速・高々度・長航続距離の条件を備えた新型爆撃機の開発が提唱された。アメリカ空軍には既に大型ジェット 爆撃機B-52が配備されていたが、これに替わる新型機開発計画として"WS-110A"(WS=Weapon System)、後に機体の愛称から「ヴァルキリー計画」と呼ばれるプロジェクトが開始された。 ルメイの要求は、超音速爆撃機B-58以上の(すなわちマッハ2以上の)高速で、アラスカ−モスクワ間を無着陸で往復できる爆撃機という、当時知られていた技術では無謀とも 言えるものであった。これに応えてノースアメリカンとボーイングがそれぞれプランを提出したが、いずれも不採用となった。 プランの練り直しを迫られたノースアメリカンの設計陣は、NACA(現NASA)で非公開とされていたひとつの研究論文に着目した。これは、デルタ翼機体の下側にくさび状の部位を 設けることにより、その左右で圧縮された衝撃波が翼の裏側に揚力をもたらす、というものであった。コンプレッション・リフト(圧縮揚力)と呼ばれるこの新理論を利用する ことで、斬新で流麗なデザインの機体が出来上がったのである。 XB-70の外見上最大の特徴は、デルタ翼の両端が高速飛行中は折れ下がることである。これはしばしば衝撃波を抱え込むための工夫であるともいわれるが、それよりも超音速 飛行時には能力不足となる垂直尾翼を補うものであるとされる。カナードも印象的であるが、後の戦闘機に多く見られるカナードが後流を制御して失速を 防ぐものであるのに対し、機体のバランスを取りやすくするためのアイデアであったようだ(ちなみに後流制御のためのカナードの場合は、主翼と一部重なる位置にあるが、 本機の場合は主翼とは離れた位置にある)。実際のバランス調整は燃料タンク内で燃料を細かく移動させることによってもなされている。 胴体下面にコンプレッション・リフトの要となるくさび状の部位が有り、その先端部に空気取り入れ口、後部にゼネラル・エレクトリック製のアフターバーナー付き ターボジェットエンジンが6機搭載されている。 機首風防前部の上面は低速時にはへこんだようになっているが、高速飛行時にはここが持ち上がりフラットな機首となる。これはコンコルドの機首が折り下がるのと 同じように、地上および低速域での前方視界を確保するためのものである。 外皮はアルミニウム系合金ではマッハ3飛行下で発生する大気との摩擦による300℃超の高熱に耐えられないため、ステンレス系合金によるハニカム構造となっている。 このハニカム構造に断熱の役割も持たせているが、熱そのものや熱による外皮の伸縮のために塗装が剥げ落ちるトラブルに悩まされた。 飛行中の挙動には著しい制約が加えられており、XB-70は戦闘機並みはおろか旅客機並みの機動すら出来ない。これはXB-70同様のマッハ3級機であるSR-71偵察機 も同様であり、ある意味非常に脆弱な機体であった。そのためXB-70は、予めプログラムされたコース以外を飛行する事が極めて困難であった。これは弾道ミサイルに対する利点が 無い事を意味し、後の開発中止の決定の一因となる。 ジェット燃料はJP-6と呼ばれる高々度・低温下での飛行に対応した特性のものが使用された。さらにホウ素系添加物によってアフターバーナーの推力を高めることも検討されたが、 これは毒性が青酸の約10倍とあまりにすさまじいために中止となった。 XB-70は実験機であったこともあり操縦席は機長・副操縦士の二人乗りである。操縦席は与圧され乗員は特別な装備無しで搭乗することも出来たが、テストパイロットは 基本的に与圧服を着用して搭乗している。それぞれの座席が非常時には脱出カプセルとして使用されるようになっており、非常時には上下からカバーが回り込んで乗員を 収容する。このカプセルは与圧が失われたときの乗員の保護も想定されており、カプセル内からでも最低限の操縦が可能である。脱出時にはカプセルごと射出され、 パラシュートとエアバッグで着地する仕組みになっていた。 XB-70は実験機のため武装は装備できない。試作機YB-70には核爆弾などを搭載可能な爆弾庫が設けられ、爆撃手と防御システム操作手とが搭乗する予定であったが実現しなかった。 ヴァルキリー計画はあまりに多額の開発費用を必要とし、かつ大陸間弾道ミサイル有用論もあり、紆余曲折を経てヴァルキリー計画を試作機三機のみ(XB-70×2、YB-70×1)で 打ち切ることを決定してしまった。また随伴護衛機として計画されたF-108(レイピア)は実機が制作されないままキャンセルとなってしまった。 やがて、1964年5月1日 XB-70の1号機が完成。9月21日、1号機は初飛行に成功した。1号機は外皮や塗装のトラブルなどに悩まされたが、遅れて1965年5月29日に完成。 7月17日初飛行した2号機はそれらの問題をクリアしており成績は非常に優秀であった。 1号機は1965年10月14日、2号機は1966年1月3日にマッハ3での飛行に成功した。最高速度記録は同年4月12日に2号機が出したマッハ3.08である。ただし実際には、SR-71の 原型となった偵察機・A-12の方がXB-70より先にマッハ3で飛行している。 また本機は、偵察爆撃機RS-70として活路を見いだし、採用を目論んだが、上記のA-12より発展したRS-71との競争に敗れ、こちらも不採用となっている。 なお、MiG-25はXB-70開発の情報を受けたソ連によってこれを迎撃可能な戦闘機として開発されたといわれることがあるが、現在ではA-12の迎撃を目的に開発されたと 考えられている。しかし結局はXB-70の後を受けてB-70という量産機が開発されることも、これを迎撃しにMiG-25が発進することもなかった。 1966年6月8日、エドワーズ空軍基地近辺でゼネラル・エレクトリック製エンジンを積んだ軍用機を集めて同社の宣伝用フィルムを撮影するための編隊飛行が行われた。 XB-70の2号機を先頭に、F-104ほか計5機がV字編隊を組むというものであった。だが撮影終了後F-104がXB-70に異常接近、後流にあおられ垂直尾翼に激突してしまう。 F-104は爆発してパイロットのジョセフ・ウォーカーは即死、2枚の垂直尾翼を失ったXB-70はコントロール不能となりフラットスピンに陥ってしまう。機長のアルヴィン・ ホワイトは脱出カプセルに腕を挟まれ、ようやく腕を引き込んで射出されたら着地時にエアバッグが作動しないという最悪の状況ながらかろうじて生還、しかし脱出に 失敗した副操縦士カール・クロスは機体もろともモハーヴェ砂漠に墜落し死亡してしまった。事故調査委員会はF-104が異常接近した理由を編隊飛行に慣れていない ウォーカーのミスとしているが、詳細な理由は分かっていない。 その後残されたXB-70の1号機はNASAに移管され、超音速旅客機(SST)におけるソニックブームの研究に供された。ここでの研究の結果、マッハ2で飛行した場合高々度でも 地上におけるソニックブームの影響は大きいものであることが判明し、SST開発が滞る一因となっている。またノースアメリカンはアメリカ連邦航空局によるSST計画に XB-70を元にした案で応募したものの、ボーイングやロッキードに敗れている。 |
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仕様・諸元 |
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全長 | 56.6 m |
全幅 | 32 m |
全高 | 9.36 m |
空虚重量 | 93,000 kg |
発動機 | ゼネラル・エレクトリック製 YJ93-GE-3 ターボジェットエンジン × 6 |
最高速度 | 3,800 km/h |
航続距離 | 7,900 km |