F-104 スターファイター(ロッキード)



 F-104 は、ロッキード社で開発されたアメリカ初のマッハ2級のジェット戦闘機である。愛称はスターファイター (Starfighter)。初飛行は1954年2月である。

 細い胴体に、短い矩形の主翼がついている。インテイクは胴体脇にショックコーンとともについており、切り詰められた小型軽量の機体に強力なエンジンを搭載した機体である。 尾翼はT字尾翼となっている。

 朝鮮戦争において、ソ連製のMiG-15戦闘機の活躍に触発されたアメリカ合衆国軍は、出来る限りの軽量な機体に強力なジェットエンジンを搭載し機動力と高速性を高めた戦闘機を 要求し、ロッキード社の設計者、クラレンス・ジョンソン率いる設計チームスカンクワークスが開発に当たった。 アメリカ空軍からの迎撃戦闘機の開発要求は1952年5月から求められており、1953年3月12日にXF-104が2機発注された。1954年3月4日に初飛行が行われている。1954年3月30日に エンジンをYJ79-GE-3に換装・強化したYF-104が17機発注されている。YF-104は1955年4月27日にマッハ2を記録している。

 登場時はアポロ計画など宇宙開発の進行やSFの影響で、将来の戦闘機は自律制御コンピュータが搭載されパイロットは無用になる、との見方があった。そのためか、日本では最後の 有人戦闘機とも呼ばれた。これはultimate manned fighterを訳したものだと言われているが、正しい和訳は究極の有人戦闘機である。英語圏ではこのような表現はほとんどされて いないようだ。 これはロッキード社の副社長が来日したおりの記者会見で「これ以上のものは有人では無理である」との発言を捉えたものだと云われる。誰しもにそう思わせるようなラジカルな姿態の 戦闘機の登場であった。 細い胴体に極端に小さな主翼。日本では三菱重工がライセンス生産していたことから、空自の現場では「三菱鉛筆」の愛称もある。西ドイツ空軍では、機体特性に合わない低空侵攻用の 戦闘爆撃機としても用いられたことから訓練・演習中の墜落事故が多発した。そのため、「空飛ぶ棺桶」「縁起の悪いジェット機」「未亡人作成機」などと呼ばれていた。

 アメリカ空軍では、1958年2月に防空空軍において部隊運用が開始された。しかし、1959年に同じマッハ2級の戦闘機であるF-106の部隊配備が開始され、公式には「SAGE (半自動地上管制迎撃システム)との連携機材が搭載できない」と言う理由で早くも1960年には退役し、州空軍や海外供与に回された(1963年に一時現役復帰するが、1970年以降に また退役)。実際の所、F-106のMA-1はともかく、F-102に搭載されたものであれば充分に搭載可能な機体内空間は存在していたのだが、航続距離の短さや装備可能な空対空ミサイルが サイドワインダー2発だけという武装の貧弱さが嫌われたのでは無いかと言われている。 また戦術空軍においても、搭載力や航続距離の不足が問題視され、同じくごく少数の配備で 終わっている。 ただしこれらの欠点は軽量戦闘機である以上はやむを得ないものであり、基本的には昼間制空戦闘機であるF-104を全天候迎撃機や戦闘爆撃機として使う事自体が、本来の開発目的を 忘れていると言っていい。というよりこの時期のアメリカ空軍が、制空戦闘機というカテゴリを軽視していたというべきであろう。 このアメリカ空軍の姿勢は、後のベトナム戦争に おいて、多大なツケとなって降りかかる事になる。 F-104の真の意味での欠点は、むしろ高翼面荷重とT字尾翼の問題による、運動性の低さであり、本来の使い方がなされた場合には それが露になったであろう。

 1965年ベトナム戦争においてMiG戦闘機が出現した時、それに対抗するために南ベトナムに派遣されたのが、アメリカ空軍において唯一、本来の目的に使われた例である。 ただしMiG戦闘機との空戦の機会は無く、部隊は1年で帰還する。
仕様・諸元(F-104C)
全長 16.7 m(ピトー管含まず)
全幅 6.69 m
全高 4.11 m
発動機 GE製 J79-GE-7 ×1基
最高速度 M2.2
推力 A/B 7170 kgf
最大離陸重量 12,490 kg
武装 ・M61 20mmバルカン砲1門 他