矢矧(阿賀野型軽巡洋艦)



 矢矧は、大日本帝国海軍の軽巡洋艦である。 阿賀野型軽巡洋艦の3番艦である。 艦名は長野県から岐阜県を経て愛知県に至る矢矧川にちなんで命名された(現在の矢作川)。  この名をもつ帝国海軍の艦船としては、筑摩型防護巡洋艦2番艦矢矧(二等巡洋艦)に続いて2隻目となる。

 1943年(昭和18年)12月29日に竣工し、吉村矢矧艤装員長が制式に矢矧初代艦長となった。 佐世保鎮守府籍、第三艦隊第十戦隊に編入された。 1944年(昭和19年)1月10日、佐世保を出発して瀬戸内海へ向かう。 2月にリンガの哨戒および訓練のためシンガポールへ派遣され、2月23日、第十戦隊旗艦となった。  5月12日、矢矧を旗艦とする第十戦隊(第10駆逐隊《朝雲、風雲》、第61駆逐隊《初月、若月、秋月》、第17駆逐隊《磯風》)は第一航空戦隊(空母大鳳、翔鶴、瑞鶴)、第五戦隊(重巡洋艦妙高、羽黒)とともにシンガポールからタウィタウィ泊地へ向け出発。  航海中、矢矧、風雲は敵潜水艦撃沈を報告した。 1944年(昭和19年)6月19日、第十戦隊を率いて小沢治三郎中将指揮の第一機動艦隊に所属し、マリアナ沖海戦に参加。 沈没した翔鶴、大鳳の乗組員の救助に従事した。

 1944年(昭和19年)10月23日に栗田艦隊は米潜水艦2隻に襲撃され重巡2隻(愛宕、摩耶)を喪失、高雄が被雷して駆逐艦2隻(朝霜、長波)と共に離脱。 第二艦隊の期間を愛宕から大和に変更した。  10月24日のシブヤン海海戦で栗田艦隊はアメリカ海軍第38任務部隊からの空襲を受ける。 日本軍は、10時30分から16時30分にわたる五回の空襲によって戦艦武蔵が沈み、戦艦2隻(大和、長門)、重巡2隻(利根、妙高)、駆逐艦2隻(浜風、清霜)が命中弾を受けた。  3隻(妙高、浜風、清霜)は栗田艦隊から離脱、矢矧も第二次対空戦闘で左舷に至近弾、第三次対空戦闘で後部兵員室に小型爆弾命中、艦首至近弾で錨鎖機室で火災発生という被害を受けた。  右舷艦首に直径4〜5mの穴があき、速力も22ノットに低下した。 池田武邦航海士によると、応急修理で28ノット発揮可能になったが、30ノット以上出すと破孔が拡がって危険な状態になったという。  だが矢矧は翌日の戦闘で無理をして32ノットでの航行をしていた。

 10月25日、矢矧はサマール沖海戦に参加した。 第十戦隊の戦果は、砲撃による米駆逐艦ジョンストンの撃沈のみであった。 撤退行動に移った栗田艦隊は、帰路にも18回にわたるアメリカ軍機の空襲を受けた。 16時45分、矢矧は至近弾により魚雷発射連管室で火災が発生し、戦死者14名重傷者多数を出す損害を受けた。  10月26日にも艦隊は空襲を受け、阿賀野型2番艦(姉妹艦)能代が沈没した[96]。28日、残存日本艦隊はブルネイに帰投した。  11月15日、第十戦隊の解隊に伴い残存艦(矢矧、浦風、磯風、雪風、浜風、涼月、冬月)は第二水雷戦隊に編入された。 当事の第二水雷戦隊は多号作戦で島風型駆逐艦島風(二水戦旗艦)の沈没時に二水戦司令官早川幹夫少将が戦死したため司令官不在だった。  矢矧は日本への帰還を命じられ、戦艦3隻(大和、長門、金剛)、第17駆逐隊4隻(浦風、雪風、浜風、磯風)と共に16日ブルネイを出港した。 11月23日本土到着、26日佐世保に回航、修理が行われるが、修理個所を明確にするため白ペンキで塗られた場所は1,000個所を越えたと言われる。

 12月20日、吉村真武大佐(矢矧艦長)は金剛型戦艦3番艦榛名の艦長を命じられる。 後任の矢矧艦長として、朝潮型6番艦山雲初代駆逐艦長・陽炎型9番艦天津風初代駆逐艦長・第27駆逐隊《時雨、白露、五月雨、春雨》司令等を歴任した原為一大佐が任命された。  12月23日、第二艦隊司令長官も栗田中将から伊藤整一中将に交代した。 1945年(昭和20年)1月3日(着任1月4日)、第二水雷戦隊司令官は木村昌福少将から古村啓蔵少将に交代した。 矢矧は内地で待機を続け2月20日、シンガポールから日本本土への強行輸送作戦(北号作戦)に従事していた『完部隊』(第四航空戦隊司令官松田千秋少将:日向、伊勢、大淀)、第二水雷戦隊3隻(霞、初霜、朝霜)が呉に到着した。  23日、旗艦は霞から矢矧に変更された。 その後、第二水雷戦隊各艦は内地で待機した。 3月19日の呉軍港空襲では、ドックで整備中だったため動けなかったが被害はなかった。  3月28日、大和や麾下駆逐艦と共に呉港を出港し、周防灘、続いて三田尻沖に停泊する。

 1945年(昭和20年)3月27日 菊水作戦直前の第二水雷戦隊は旗艦を矢矧とし、第7駆逐隊(響、潮)、第17駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、第21駆逐隊(朝霜、初霜、霞)、第41駆逐隊(冬月、涼月)という編成であった。  1945年(昭和20年)4月1日、アメリカ軍が沖縄に上陸を開始。 4月6日、天一号作戦に参加すべく、第二水雷戦隊司令官古村啓蔵中将が座乗する矢矧は徳山沖に停泊中の戦艦大和に合流。 4月7日午前6時頃、第二艦隊は大隅海峡を通過、針路を280度とした。  12時32分から始まったアメリカ機動部隊の空襲では矢矧は大和に次ぐ大型艦であったため集中して狙われることになった。 戦闘開始早々の12時46分、アメリカ軍の雷撃機TBF/TBMアベンジャー(空母ベニントン所属機)が投下した魚雷1本が命中し航行不能となった、13時00分にも矢矧の艦尾に魚雷が命中した。  このため矢矧は護衛すべき大和から離れてしまった。 標的状態となった矢矧は多数の魚雷や爆弾直撃、至近弾で損傷が拡大。 救援の見込みがなくなった矢矧は最終的に合計魚雷6〜7本、爆弾10〜12発を被弾、14時5分に沈没した。  矢矧の沈没から十数分後の14時23分前後、大和も大爆発を起こして沈没した。

[同型艦]
・阿賀野
・能代
・矢矧
・酒匂
艦 歴
起工 1941年11月11日
進水 1942年9月25日
竣工 1943年12月29日
喪失(沈没) 1945年4月7日
除籍 1945年6月20日
建造所 佐世保海軍工廠
仕様・諸元
排水量 基準排水量 : 6,651 t
公試排水量 : 7,710 t
満載排水量 : 8,338 t
全長 174.50 m
全幅 15.20 m
喫水 5.63 m
機関 ロ号艦本式缶(空気余熱器付)6基 艦本式タービン4基(101,100hp)
最大速 35.17ノット
航続距離 6,000 海里(18kt航行時)
乗員 726 名
兵装 ・50口径15cm連装砲 × 3基
・九八式8cm連装高角砲 × 2基
・25mm三連装機銃 × 2基
・25mm連装機銃 × 4基
・61cm四連装魚雷発射管 × 2基
・九三式一型改一魚雷 × 16本
・九五式爆雷 × 18個
艦載機 零式水上偵察機 × 2機 、呉式二号射出機5型1基