多摩(球磨型軽巡洋艦)
多摩は、日本海軍の軽巡洋艦で球磨型の2番艦である。 本艦は大正6年(1917年)度成立の八四艦隊完成案の1隻である。 同年8月20日附で多摩と命名される。 1918年(大正7年)8月10日、三菱造船長崎造船所(現・三菱重工業長崎造船所)で起工された。
1920年(大正9年)2月10日進水、 1921年(大正10年)1月29日竣工し、呉鎮守府籍となった。 同日第二艦隊第四戦隊に編入された。
就役以降、昭和初期にかけて舷外電路は設置など近代化改装などを行い、開戦直前の1941年(昭和16年)には迷彩塗装が行われる(1942年6月のキスカ島攻略時には通常の塗装に戻され)。 北方での行動で船体中央付近が損傷し、1941年12月から翌年1月まで横須賀海軍工廠で船体補強工事を行うと共に、前部マストのトップが短縮され、信号ヤードは1本になった。 1943年(昭和18年)10月27日から12月9日まで横須賀海軍工廠で工事が行われ、5番と7番主砲、射出機、デリックを撤去、7番砲跡に12.7cm連装高角砲1基を搭載。 機銃は25mm3連装機銃4基、同単装6挺を増備、従来の連装機銃2基と合わせて計22挺となり、13mm連装機銃2基も増備した。 21号電探が前部マスト上、射撃指揮所の上に装備された。 1944年(昭和19年)6月21日から30日の間に横須賀海軍工廠で対空兵装の急速整備が行われ、25mm3連装機銃1基、同連装2基、同単装12挺と13mm単装機銃5挺が増備された。 その他に前部マスト上に22号電探1基、艦橋両舷に2式哨信儀が装備された。 また爆雷は18個を搭載した。 就役後から様々な戦隊への編入、予備艦、練習艦などを歴任している。 太平洋戦争直前、日本海軍は対ソビエト戦に備えて第五艦隊を新編し、多摩は第五艦隊の旗艦となった。 新編時の第五艦隊は、球磨型2隻(多摩、木曾)から成る第21戦隊と、水雷艇2隻であった。 その後対ソ戦の恐れはなくなり、10月4日室積沖で連合艦隊集合に参加、第五艦隊はそのまま対アメリカ戦の作戦準備に入ることとなる。 12月8日の真珠湾攻撃の時には千島列島で哨戒をしていた。 連合艦隊命令作第一号の作戦要領の「主要任務ニ応ズル如ク作戦ス」に従い、北方部隊指揮官は自主的に第一航空艦隊(司令長官南雲忠一中将、旗艦赤城)の掩護を行なおうとしたが合流の見通しが立たず、同日20時15分には会合を断念、厚岸湾に帰投。 しかしながら悪天候により多摩、木曾共に船体中央部に損傷を受け、26日横須賀に入港、翌1月16日まで横須賀海軍工廠にて損傷部の修理と船体補強を行った。 第五艦隊の1942年(昭和17年)1月以後の作戦は、アメリカ機動部隊捕捉のために日本の東方海上の哨戒が主任務となった。 3月10日付で北方部隊に編入された那智が4月11日に厚岸に到着、第五艦隊司令長官は同日旗艦を那智に変更した。 4月18日、東京・横浜・大阪・名古屋・神戸を空襲した(ドーリットル空襲)。 厚岸に在泊していた多摩は、翌19日同地発、敵機動部隊は東方に待避と判断され、那智と第21戦隊は23日まで哨戒部隊を支援、多摩は25日大湊に帰着。 6月、アリューシャン攻略に参加。 第二十一戦隊は駆逐艦3隻などとともにAOB攻略部隊となった。 AOB攻略部隊は5月28日に陸奥海湾を出港して幌筵へ移動し、6月2日に同地より出撃。 キスカ島は7日夜陸戦隊が上陸を開始し、多摩は8日午前2時25分キスカに到着、早朝には陸戦隊が要地を占領した。 多摩は12日にAOB攻略部隊から離れ全作戦支援に編入、13日キスカを出港し、敵艦隊の邀撃のために洋上で警戒待機、24日川内湾に帰投した。 アメリカ軍の大型機によるキスカ島爆撃は6月12日に開始され、潜水艦による反撃も開始、両島占領以降の北方部隊は防衛力強化と、そのための輸送が主な作戦になった。 6月28日多摩は川内湾を出港、敵艦隊の来襲に備え第2次邀撃作戦に参加。 7月13日までに配備を撤収し、多摩は16日横須賀に帰港した。 横須賀海軍工廠で修理を実施し、 8月2日出港、6日大湊に到着した。 8月7日アメリカ軍がツラギ島とガダルカナル島に上陸し反撃を開始、北方でも8日キスカ島がアメリカ軍水上部隊の砲撃を受けた。 多摩を含む第21戦隊は8日大湊発、11日幌筵島に進出し、12日同地を出撃した。 1943年(昭和18年)1月6日幌筵島発、9日横須賀に帰港し、2月6日まで横須賀で整備などを行った。 2月1日那智が横須賀に入港し、第五艦隊旗艦を多摩に変更。 多摩は6日横須賀発、22日旗艦を摩耶に渡し、多摩は木曽と共に輸送援護と敵艦隊撃滅が任務とされ、23日大湊発、27日幌筵島に進出した。 3月7日多摩を含む主隊援護部隊は幌筵海峡を出撃、第21船団と護衛部隊の第1水雷戦隊と共にアッツ島を目指し、船団は10日アッツ島で食糧弾薬、人員等を揚陸し、13日に出撃全部隊は幌筵海峡に帰着した。 3月23日、第五艦隊の重巡洋艦那智・摩耶、軽巡洋艦多摩・阿武隈、駆逐艦雷・電・薄雲・初霜・若葉は、アッツ島への増援部隊とアッツ島守備隊への補給物資を載せた輸送船3隻を護衛して幌筵島を出発した。 3月26日、日本艦隊は、遊弋していた軽巡洋艦リッチモンド・重巡洋艦ソルトレイクシティ・駆逐艦4隻からなる米海軍艦隊と遭遇し、アッツ島沖海戦が始まった。 4時間の砲雷撃戦の末、ソルトレイクシティと駆逐艦1隻が被弾した。 他の駆逐艦は無傷であった。 多摩は砲弾136発と魚雷4発を放ち、2発被弾して、カタパルトを損傷し乗員1人が負傷した。 旗艦那智が小破し、細萱中将は撤退を決定、アッツ島への輸送も中止され、3月28日に幌筵島に帰投。 多摩は4月26日まで幌筵島で待機、29日幌筵発、5月4日に舞鶴海軍工廠で修理を行った。 そのため、多摩はアッツ島の戦いには参加していない。 多摩は7月31日幌筵島に帰投した。 8月5日附で第12航空戦隊と第5艦隊で北東方面艦隊が編成され、多摩を含む第5艦隊もその所属となった。 1943年(昭和18年)9月1日から12日まで、多摩は横須賀で修理・整備を実施。 当時、大本営は中部太平洋諸島(ポナペ島、トラック諸島)に日本陸軍兵力を増強することを検討しており、すでに陸軍第52師団および甲支隊の派遣準備をすすめていた。 9月5日、古賀峯一連合艦隊司令長官はGF電令作第698号をもって空母隼鷹艦長長井満大佐を指揮官とする丁一号輸送部隊を編成し、甲支隊の輸送を下令した。 丁一号輸送部隊(隼鷹、木曾、多摩、大波、谷風、粟田丸)のうち、軽巡2隻(多摩、木曾)は第一回次輸送を担任する。 9月15日、多摩は部隊と物資の輸送のため宇品を出港、木曾も呉を出港し、合流して甲支隊の輸送に従事した。 9月22日、カロリン諸島ポナペ島に到着、トラック諸島に戻り、待機。 内地より空母隼鷹と駆逐艦谷風がトラック泊地に進出してきたので輸送部隊を受け入れ、3隻(木曾、多摩、谷風)は26日にトラック泊地を出発する。 27日にポナペ島で陸軍部隊を揚陸し、28日にトラック泊地に戻った。 丁一号輸送部隊は27日のGF電令作第724号で編成を解かれた。 内地に帰投した各艦は、第17師団のトラック諸島とニューブリテン島ラバウルへの増援の輸送のために上海へ向かった。 10月5日、連合艦隊は第十四戦隊司令官伊藤賢三少将を指揮官とする丁四号輸送部隊(那珂、五十鈴、木曾、多摩、粟田丸、日枝丸、野分、舞風、護国丸、清澄丸、山雲)を編成した。 軽巡2隻(多摩、木曾)は、多摩艦長の指揮下で第一輸送を担当する。 佐世保を出発した2隻(多摩、木曾)は10月11日に上海へ到着、同地で陸兵976名と物件を搭載して翌日出発、18日にトラック泊地に到着した。 ここで駆逐艦卯月が部隊にくわわり、3隻(多摩、木曾、卯月)は19日にトラック泊地を出発した。 21日、ラバウル到着直前に木曾が空襲を受けて損傷し、多摩は先行してラバウルに進出した。 木曾は駆逐艦2隻(卯月、五月雨〈ラバウルより救援〉)に護衛され、同日正午ラバウルに到着。 ラバウルで増員部隊を降ろした後、ガダルカナル島から発進したオーストラリア空軍ボーフォート爆撃機の攻撃を受けた。 至近弾により外板に被害を受け、ラバウルで応急修理を実。 10月23日、軽巡2隻(多摩、木曾)は丁四号輸送部隊からのぞかれた。 10月27日多摩は横須賀へ帰港し、修理と改装を受けた。 5番・7番砲、カタパルトとデリックを撤去し、12.7cm連装高角砲1基を装備、三連装4基・単装6基の96式25mm高角機銃を増備し、25mm機銃は全部で22挺(3連装4基、連装2基、単装6挺)となった。 修理および改装は12月9日に終了。 12月24日に横須賀を出港し、翌1944年(昭和19年)1月1日幌筵に進出した。 北方部隊は陸奥湾に終結し、以降訓練を実施した。 この間の5月8日から12日は室蘭を基地にして基地航空隊の雷撃訓練目標艦として行動した。 21日横須賀に帰港し、マリアナ沖海戦の戦訓による機銃の増備を30日まで実施した。 以後8月12日までに2度、小笠原諸島への陸軍の増援部隊の輸送を行った。 6月25日に多摩・木曽・第11水雷戦隊などで伊号輸送部隊が編成され父島、硫黄島への緊急輸送を実施、多摩・木曽・長良などで第2輸送隊が編成され、30日出港、7月1日父島着、2日出港、3日横須賀に帰港し編成を解かれた。 以後は木曽と共に捷号作戦の発令を待ち、横須賀で待機を続ける。 8月10日に2度目の小笠原へに緊急輸送を行うことになり、横浜で部隊を乗せ、12日父島、14日母島に寄港、15日呉に帰投した。 8月30日、多摩は第5艦隊第21戦隊から除かれ連合艦隊第11水雷戦隊に編入、同日旗艦を引き継いだ。 10月17日レイテ沖海戦の出撃が決定、第11水雷戦隊旗艦は18日檜に移され、同日呉から集結地の八島沖に回航された。 1944年10月20日からのレイテ沖海戦で、多摩は小沢治三郎中将率いる囮艦隊に加えられた。 10月25日のエンガノ岬沖海戦で、小沢囮艦隊は空母エンタープライズ・エセックス・イントレピッド・フランクリン・レキシントン・インディペンデンス・ベロー・ウッド・ラングレー・カボット・サン・ジャシントからなる第38任務部隊の攻撃を受けた。 多摩はベロー・ウッドのVT-21、サン・ジャシントのVT-51の雷撃機TBF アヴェンジャーによる攻撃をうけ、Mk13魚雷が第2機関室を直撃して大破した。 多摩は応急修理を受け、軽巡洋艦五十鈴に護衛されて戦線を離脱した。 しかし、五十鈴は被弾した空母千代田の掩護を要請されたため、多摩は駆逐艦霜月の護衛を受けた。 その霜月も空母瑞鳳の掩護に回る事になったため、多摩は単独で14ノットで沖縄へ向けて航行した。 ルソン島の北西で、多摩はアメリカ海軍の潜水艦ジャラオのレーダーに捉えられた。 ジャラオはこれが初の哨戒であった。距離1000ヤード(910m)で艦首から発射した3発の魚雷は全て外れたが、距離800ヤード(730m)で艦尾から放った4発の魚雷のうち3発が多摩に当たり、2発が爆発した。 それから数分後、多摩は北緯21度23分 東経127度19分の地点で沈没。 艦長以下総員が未帰還となった。 多摩の沈没から70年を経た2014年10月25日、多摩の艦内神社であった大国魂神社(東京都府中市)にて、多摩に乗り組んでいた戦没者慰霊式が初めて執り行われ、2017年時点でも毎年続いている。 同神社は境内に慰霊碑を建立しているほか、乗組員とその遺族探しを行っており、2017年時点で乗組員49名が判明している。 [同型艦] ・播磨 ・北上 ・大井 ・木曾 |
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艦 歴 |
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起工 | 1918年8月10日 |
進水 | 1920年2月10日 |
竣工 | 1921年1月29日 |
喪失(沈没) | 1944年10月25日 |
除籍 | 1944年12月20日 |
建造所 | 三菱造船長崎造船所 |
仕様・諸元 |
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排水量 | 基準排水量 : 5,100 t 常備排水量 : 5,494 t |
全長 | 162.15 m |
全幅 | 14.17 m |
喫水 | 14.17 m |
機関 | ロ号艦本式重油専焼水管缶大型6基、小型4基 同石炭・重油混焼水管缶2基(91,377SHP) |
最大速 | 35.514ノット |
航続距離 | 5,300 海里(14kt航行時) |
乗員 | 588 名 |
兵装 | ・50口径三年式14cm砲単装 × 7基7門 ・40口径三年式8cm単装高角砲 × 2門 ・三年式機砲 × 2挺 ・六年式(53cm)連装発射管 × 4基8門 ・六年式53cm魚雷 × 16本 ・九三式一型改一魚雷 × 16本 ・五号機雷 × 150個 |
艦載機 | 1機 |