名取(長良型軽巡洋艦)



 長良は、日本海軍の軽巡洋艦で長良型軽巡洋艦の3番艦である。 宮城県の名取川より名づけられた。 名取は、大正年間に多数建造された5500トン型軽巡洋艦の長良型の一艦として、1922年(大正11年)に三菱造船長崎造船所で完成した。  完成時には、高速軽巡洋艦として、水雷戦隊の旗艦に適した優秀な艦であった。

 1927年12月に第二艦隊第二水雷戦隊の旗艦となり、1933年5月、第一艦隊第七戦隊に編入された。 1936年12月に第一艦隊第八戦隊に移り南支方面で行動。 1938年12月、第五艦隊第九戦隊に編入し、馬公を基地として南支作戦に参加した。  1939年9月に予備艦となり舞鶴で旗艦としての改造を行った後、1940年11月、第二遣支艦隊第五水雷戦隊の旗艦となり、翌年4月、第五水雷戦隊は第三艦隊に編入され、南部仏印進駐作戦に参加した。

 太平洋戦争緒戦で名取は、第五水雷戦隊などからなる比島部隊第一急襲隊の一隻としてフィリピン北部のアパリ攻略に参加。 第一急襲隊は上陸部隊を乗せた船団を護衛して12月7日に馬公から出撃し、12月10日に目的地に到着、第一次上陸部隊の上陸に際して抵抗は無く、上陸成功が報じられた。  同日、クラーク基地より発進したアメリカ陸軍第14中隊のB-17爆撃機2機が来襲。 名取の左舷中央部付近に至近弾があり、搭載機大破、重油タンク破損などの損害を受け、死者7名負傷者15名を出した。 名取は修理ため馬公へ向かわされ、原少将は旗艦を駆逐艦長月に変更した。 続いて第五水雷戦隊は第十一掃海隊および第三十掃海隊とともに第一護衛隊を編成し、リンガエン湾上陸に参加した。 上陸部隊を運ぶ船団は3つに別れており、第一から第三護衛隊がそれぞれ護衛する計画であった。  第一護衛隊は23隻からなる船団を護衛して12月18日に高雄から出撃。 別の場所から出撃したほか2つの部隊と途中で合流し、リンガエン湾へむかった。 上陸は12月22日に行われ成功。 12月23日、マニラ湾からアメリカ巡洋艦1隻、駆逐艦2隻、潜水艦2隻が出撃したとの情報があり第五水雷戦隊は南へ向かったものの会敵しなかった。  名取は駆逐艦水無月とともに12月24日にリンガエン湾を離れ、12月26日に馬公に着いた。

 第五水雷戦隊は馬来部隊に編入され第八駆逐隊、練習巡洋艦香椎などとともに第二護衛隊を編成。 12月末からは第二護衛隊は第25軍と第15軍の一部を馬公からシンゴラおよびバンコクへ運ぶ船団の護衛に従事した。  12月31日に船団は馬公より出発。 1942年1月7日に香椎、駆逐艦2隻、海防艦1隻に護衛されてバンコクへ向かう船団が分離され、残りの船団は1月8日にシンゴラに到着した。 1月9日零時に第五水雷戦隊は蘭印部隊に移り、同日シンゴラを離れた。  第五駆逐隊も1月12日零時に蘭印部隊に編入された。 第五水雷戦隊は台湾で西部ジャワ攻略作戦の準備を行なった。 その後、第五駆逐隊と第二十二駆逐隊は第十六軍主力を運ぶ船団を護衛してカムラン湾へ移動。 名取もカムラン湾に進出し、2月3日に到着。 ジャワ攻略作戦に参加し、3月1日、バタビア沖海戦において米重巡ヒューストンの撃沈に貢献した。   3月12日、名取はマカッサルへ向かった。 3月10日の戦時編制改定により第五水雷戦隊は解隊され、名取と長良、鬼怒で第十六戦隊が編成された。 名取はその司令官原顕三郎少将の旗艦となった。  3月29日から名取は那珂、長良などとともにクリスマス島攻略作戦に参加した。 攻略部隊は3月29日にバンタム湾から出撃。 3月31日にクリスマス島に到着し、軽巡洋艦3隻の水偵は爆撃を行なった。  上陸は成功したが、名取と那珂はアメリカの潜水艦シーウルフの雷撃により那珂が4月1日に被雷損傷、名取は那珂を曳航してバンタム湾へ向かった。

以後、名取は1943年1月まで東インド方面の警戒任務に従事。 12月1日、チモール島沖で索敵機により発見されたオーストラリア艦隊攻撃に鬼怒とともに向かったが捕捉出来ずに終わった。 この後、ホーランディアへ陸戦隊を輸送。  1943年1月6日、アンボンへ向かっていた船団が爆撃を受けて水雷艇友鶴が損傷した。 名取はその元へ派遣されて警戒にあり、その後単独でアンボンへ向かったが、9日10時43分にアンボン灯台南東18海里でアメリカの潜水艦トートグの雷撃に遭った。  後部に魚雷1本が命中して後部が切断され、戦死7名、負傷12名を出した。 操舵不能になったが針路変更は機械操作により行うことができ、13時45分にアンボンに到着。 名取はアンボンで陸軍救難船大隈丸の協力により仮修理を行ったが、同月16日と21日にB-24の攻撃を受け21日には至近弾により損傷した。 そのため敷設艦蒼鷹の護衛でマカッサルへ後退したが、命中しなかったもののその途中にも再びトートグによる攻撃を受けた。  マカッサル到着後はシンガポールへ向かいそこでの応急修理の後に舞鶴に帰投。 1944年4月まで修理、改造を実施した。名取はこの改造時に7番主砲を撤去して跡に12.7mm連装高角砲を装備、5番主砲の撤去、機銃の多数増備などが行われた。 修理を終えた後、名取は中部太平洋方面艦隊に編入され、内海西部で訓練を実施していたが、1944年5月に第三水雷戦隊に編入、呉から第126防空隊をダバオまで輸送した。 6月のマリアナ沖海戦では機動部隊の補給隊を護衛した後、連合艦隊付属となりフィリピンからパラオに作戦輸送を行っていたものの、8月18日、名取はサマール島東方水域でアメリカの潜水艦ハードヘッドの雷撃で沈没した。

 久保田智艦長以下550名が戦死、名取の生存者183名はカッターボート3隻に分乗し13日目の朝にミンダナオ島スリガオに辿り着いた。 次席将校だった松永市郎が『先任将校ー軍艦名取短艇隊帰投せり』など手記にまとめている。  1日当たり10時間以上カッターを漕ぎ、天測航法などを駆使して陸地を目指した。 水分はスコールで補給し、食料は士官も水兵も平等に1日当たり乾パン1人2枚と決めた。 夜間は乾パン缶の上に寝て盗難を防ぎ、反乱を防いだ。  名取の生き残り乗員の生還劇は戦後、アメリカにも伝わり、松永とハードヘッドの艦長は文通するようになり、『米潜水艦ハードヘッドvs軍艦名取短艇隊』『次席将校ー「先任将校」アメリカを行く』の出版に繋がった。

[同型艦]
・長良
・五十鈴
・名取
・由良
・鬼怒
・阿武隈
艦 歴
起工 1920年12月14日
進水 1922年2月16日
竣工 1922年9月15日
喪失(沈没) 1944年8月18日
除籍 1944年10月10日
建造所 三菱造船長崎造船所
仕様・諸元
排水量 基準排水量 : 5,170 t
常備排水量 : 5,570 t
全長 162.15 m
全幅 14.17 m
喫水 4.80 m
機関 90,000馬力
最大速 36.0 ノット
航続距離 5,000 海里(14kt航行時)
乗員 450 名
兵装(新造時) ・50口径三年式14cm砲 × 7基7門
・四十口径三年式八糎高角砲単装砲 × 2基2門
・三年式6.5mm機銃 × 2挺
・八年式連装魚雷発射管 × 4基8門
・機雷 × 48個
兵装(改装後) ・50口径三年式14cm砲 × 5基5門
・四十口径三年式八糎高角砲単装砲 × 1基2門
・九六年式25mm三連装機銃 × 2基6門
・九六年式25mm連装機銃 × 2基4門
・九六年式25mm単装機銃 × 2基2門
・13mm連装機銃 × 1基2門
・八年61cm式連装魚雷発射管 × 4基8門
艦載機 水上偵察機1機