最上(最上型重巡洋艦)
最上(もがみ)は、日本海軍の最上型重巡洋艦1番艦。呉海軍工廠にて建造。艦名は山形県を流れる最上川にちなみ命名された。最上の名を持つ艦としては二隻目であり、
初代最上は通報艦であった。
最上は竣工直後に発生した第四艦隊事件により、大改修が行われることとなる。1937年12月に第7戦隊に編入、1939年には主砲換装工事に着手。事実上の重巡洋艦となる (対外的には軽巡洋艦のままであった)。 太平洋戦争開戦時は第2艦隊第7戦隊に属し、マレー、クチン、パレンバンなどの上陸作戦を支援。バタビヤ攻略作戦中に生起した1942年3月1日のバタビア沖海戦では僚艦「三隈」とともに 米重巡「ヒューストン」(USS Houston, CL-30/CA-30)と豪軽巡「パース」(HMAS Perth)を撃沈する。この際に目標を外れた魚雷が陸軍輸送艦の「佐倉丸」に命中し同船を沈めたとされる。 その後6月5日のミッドウェー海戦時、「三隈」の左舷に衝突、さらに米機動部隊による攻撃のため、艦首を失いトラック島で応急修理を行う。 帰国後12月から佐世保工廠で後部砲塔を撤去し水上偵察機繋止用航空甲板を設置する改修工事に入る。翌1943年5月に工事は完了し航空巡洋艦として水上機11機を搭載可能となる (発艦は従来から設置されている射出機で行われた)。そのため艦体後部は平坦で、近代の駆逐艦、巡洋艦のヘリ甲板を彷彿させる外観になった。ただし実際に搭載した機数は1944年中頃までは 零式水偵4機、零式水観3機の計7機、それ以降は計5機(機種不明)で定数の11機を搭載したことはなかったようである。 1943年11月のラバウル空襲では敵機2機を撃墜するものの、被弾損傷し18名が戦死、呉工廠にて修復工事を行う。その後1944年10月25日のスリガオ海峡海戦にて米艦隊と交戦、 操舵不能となりながら退避中重巡「那智」と衝突。戦場離脱後の空襲により航行不能となり、バナオン島ビニト岬南東約38海里の地点で、駆逐艦「曙」により雷撃処分となる。 最上は戦中、二度の衝突事故に見舞われるという不運な艦であった。 1度目は、ミッドウェイ海戦での上陸作戦中止撤収の際、旗艦「熊野」が敵潜水艦を発見、「左45度緊急回頭」を後続艦に信号。回頭したところで、また敵潜水艦を発見し再び「左45度緊急回頭」を 信号し熊野は90度転針した。しかし、この二度の信号が後続艦に混乱をきたし、ある艦は二度目の信号は再確認の意味だと理解し、ある艦は旗艦の指示どおり90度回頭し隊列がバラバラになった 所で、「三隈」の左舷中央部に「最上」の艦首が衝突した。艦首がひしゃげた「最上」は速力が低下し、この後の空襲で後甲板を大破した「最上」は、後甲板を飛行甲板に改造する。 2度目はスリガオ海峡海戦の際、敵艦隊の攻撃で敵の砲弾が機関部に命中、速力が8ノットまで落ちてしまった。その後艦橋へ敵弾が命中、艦長、副長、航海長、艦橋にいた将兵が 戦死してしまった。その折、微速で前進していた旗艦「那智」が「最上」の前を横切ろうとした所、「最上」の左舷に衝突してしまった。 [同型艦] ・三隈 ・鈴谷 ・熊野 |
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艦 歴 |
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起工 | 1931年10月27日 |
進水 | 1934年3月14日 |
就役 | 1935年7月28日 |
喪失(沈没) | 1944年10月25日 |
建造所 | 呉海軍工廠 |
仕様・諸元 |
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排水量 | 基準排水量:11,200 t(新造時) 12,200 t(1943年) |
全長 | 200.6 m |
全幅 | 20.6 m |
喫水 | 6.9 m(新造時) |
機関 | ロ号艦本缶大型8基、同小型2基, 艦本式タービン4基4軸(154,226馬力(新造時公試成績)) |
最大速 | 35.96 ノット(新造時公試成績) 34.735 ノット(1937年公試成績) |
航続距離 | 8,000浬(14ノット巡航時) |
乗員 | 894 名(1940年 計画定員) |
兵装(竣工時) | ・15.5cm3連装砲塔 × 5基(1939年に20.3cm連装砲塔5基10門と交換) ・12.7cm連装高角砲 × 4基 ・61センチ3連装魚雷発射管 × 4基 ・25mm連装機銃 × 4基 ・13mm連装機銃 × 2基 |
兵装(1943年) | ・20.3cm連装砲塔 × 3基 ・12.7cm連装高角砲 × 4基 ・61センチ3連装魚雷発射管 × 4基 ・25mm3連装機銃 × 10基 |
装甲 | ・舷側:140mm ・甲板:60mm |
艦載機 | 竣工時:3機(カタパルト2基) 1943年:11機(カタパルト2基) |