竹(松型駆逐艦)



 竹(たけ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。 戦時量産型駆逐艦である松型(丁型)の2番艦であり、日本海軍の艦名としては2代目である。 太平洋戦争中である1943年10月15日起工。  1944年6月16日竣工した。 戦時量産型であるため性能は比較的低かったが終戦まで生き残り、戦後は復員輸送艦としての任務にあたった。

 竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入。 瀬戸内海で訓練の後、7月15日付で松、梅および桃とともに第四十三駆逐隊が編成される。 その翌日の7月16日、 第十一水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦長良、重巡洋艦摩耶および駆逐艦とともに、沖縄方面への輸送作戦「ろ号作戦」で中津沖を出撃。 7月17日に中城湾に到着後、冬月、清霜とともに 南大東島への緊急輸送任務を行う。 すべての輸送任務を終えて19日に中城湾を出港し、20日に呉に帰投した。8月10日、清霜とともに柱島泊地を出港し、8月16日にマニラに到着。  8月17日からは清霜の指揮を受けてパラオ方面への輸送作戦とセブへの引揚者輸送任務に就く。 8月26日夜には、ガルアングル島南西端で座礁中にアメリカ潜水艦 バットフィッシュ (USS Batfish, SS-310) の雷撃を受けて船体が切断した駆逐艦五月雨の乗員を収容した。 輸送作戦中の8月20日、第四十三駆逐隊は新編された第三十一戦隊 に編入される。8月30日からは南西方面艦隊の指揮下に入り、マニラと各地との間で船団護衛に従事した。 10月4日、竹はミリ行きのマミ11船団を護衛してマニラを出港したが、 翌5日にミンドロ海峡でアメリカ潜水艦コッド (USS Cod, SS-224) の雷撃により辰城丸(辰馬汽船、6,886トン)を失った。 10月14日にミリに到着してマニラに帰投後、 10月20日深夜23時40分には高雄行きのマタ30船団の護衛でマニラを出港した。 この船団は指揮艦である駆逐艦春風の名前を取って別名「春風船団」と呼称されていた。  10月23日夕方、マタ30船団はルソン島ボヘヤドール岬北西沖で元特設水上機母艦君川丸(川崎汽船、6,863トン)がアメリカ潜水艦ソーフィッシュ (USS Sawfish, SS-276) の 雷撃で沈没したのを手始めに、船団加入船12隻のうち9隻が潜水艦の波状攻撃により沈没する惨敗を喫した。 竹は残存船舶を誘導して損害を食い止め、春風はアメリカ潜水艦 シャーク (USS Shark, SS-314) を撃沈して一矢報いた。

 竹は10月20日から始まったレイテ島の戦いに関わる事となり、三度にわたってレイテ島オルモック湾への輸送作戦(多号作戦)に参加することとなった。  11月9日未明3時、竹は第三次多号作戦で駆逐艦島風、初春、浜波、第46号駆潜艇および第30号掃海艇と共に5隻の船団を護衛してマニラを出港した。  翌10日14時、竹と初春は長波、朝霜および若月と交代で第四次多号作戦部隊に編入されてマニラに帰投することとなり、11日5時ごろに第四次多号作戦部隊と合同して 18時30分にマニラに帰投した。 この後、竹はマニラからブルネイに移動する第一水雷戦隊とともに南沙諸島長島に向かい、長島で南方に進出途上の戦艦伊勢、日向などと 会合した後、アメリカ潜水艦ヘイク (USS Hake, SS-256) の雷撃で損傷した第三十一戦隊旗艦の軽巡洋艦五十鈴と途中ですれ違いつつ、マニラに引き返した。

 11月24日、竹は第五次多号作戦第二梯団として第6号輸送艦、第9号輸送艦および第10号輸送艦と共にマニラを出撃した。 翌25日「米機動部隊が接近中」との情報で マリンドケ島北西部のバラナカン湾に避泊したが、間もなく空襲を受けて第6号輸送艦と第10号輸送艦が沈没し、第9号輸送艦も損傷。 竹も至近弾と機銃掃射で損傷し 戦死者15名を出した他、ジャイロコンパスが吹き飛ばされて使用不能となった。 レイテ島オルモック湾への突入を命じられたが、第9号輸送艦より「損害が夥しい」との 報告を受け、命令違反を承知で再挙を期してマニラに引き返すこととした。 竹は昼夜兼行で応急修理を行って次期作戦に備えたが、ジャイロコンパスは復旧されずじまいだった。

 11月30日、応急修理を終えた竹は第七次多号作戦で駆逐艦桑と共に第9号輸送艦、第140号輸送艦、第159号輸送艦を護衛してマニラを出撃した。 この頃になると、 アメリカ軍は妨害のためにレイテから魚雷艇隊をはるばるオルモック方面に派遣するようになっており、11月28日夜半のオルモック襲撃に成功するなど戦果を挙げていた。  第7艦隊司令官トーマス・C・キンケイド中将は、続いてオルモック方面に駆逐艦と掃海艇を派遣することとし、これも過去二度の作戦で潜水艦と小型貨物船を破壊する戦果を 挙げていた。 そして、三度目の作戦としてアレン・M・サムナー (USS Allen M. Sumner, DD-692) 、モール (USS Moale, DD-693) そしてクーパー (USS Cooper, DD-695) が オルモック湾に差し向けられる事となったのである。 アレン・M・サムナー、モールおよびクーパーの第120駆逐群は18時30分にレイテ湾を出撃し、オルモック湾に急行した。  しかし、出撃して間もなく、セブから飛来してきた戦闘八〇四飛行隊の月光に付きまとわれ、爆撃と機銃掃射によりモールは2名の戦死者と22名の負傷者を出した。  また、アレン・M・サムナーおよびモールの船体にも若干の損傷が生じた。

 12月2日夜、船団はオルモック湾に到着して揚陸を開始。 大発が輸送艦と陸上を往復して物資を揚陸させている頃、竹には第三次多号作戦で沈没した島風 の上井宏艦長や 機関長上村嵐大尉、第二水雷戦隊の先任参謀などが収容されていた。 その後、竹は南西方向の、桑は南方の哨戒を開始した。 桑が担当していた南方の海上では第120駆逐群が オルモック湾に入りつつあり、ザーム大佐は日本側の雷撃を警戒して、艦を横に広がらせた横陣の隊形で湾内に入っていった。 オルモック湾に入った第120駆逐群は 11,000メートル先の目標を狙い、まずクーパーが砲撃を開始した。 この時までに桑も第120駆逐群を発見し、発光信号で敵艦発見を竹に知らせた。 最初の交戦はおよそ9分で 決着がつき、桑は一方的に叩きのめされて沈没していった。 第120駆逐群は次の目標を竹と定め、モール、アレン・M・サムナー、クーパーの順番で砲撃を開始した。  竹は12.7cm 高角砲、25mm 機銃、そして3本の酸素魚雷で反撃を行った。 酸素魚雷のうち1本は、オルモック湾へ進撃途上に行った訓練の際に誤って発射してすでに無かった。  最初の雷撃態勢は、宇那木艦長が砲撃による閃光で目がくらんで発射の機会を逸したが、二度目の機会を得て魚雷を発射した。 竹の水雷長志賀博大尉が双眼鏡で第120駆逐群を 観測していたが、やがて視界内の左端にいた駆逐艦が大きな火柱を吹き上げるのを目撃した。 魚雷はクーパーの右舷に命中し、船体をV字に折られたクーパーは1分以内に沈没した。  第120駆逐群はクーパー沈没で浮き足立ったが、それでもモールは竹の前部機械室に命中弾を与えた。 不発に終わったものの浸水があり、竹は最大で左舷に30度も傾いた。  しかし、竹もモールに高角砲弾を複数発命中させた。 やがて第120駆逐群が南方へ去っていった事により、これ以上の戦闘は行われなかった。

 やがて第9号輸送艦から揚陸完了の報告を受け、缶に使用する真水の在庫が底を尽こうとしていた竹は30度傾いた状態のまま、第9号輸送艦から真水の供給を受けた。  続いて第140号輸送艦および第159号輸送艦からも揚陸完了の報告を受けた竹は、第140号輸送艦および第159号輸送艦を先発させた後、オルモックの陸上部隊に桑の生存者救助を 要請した後、12月3日3時に第9号輸送艦を率いてオルモック湾を出発。 宇那木艦長としては桑の生存者を救助したいところであったが、サーチライトを使わずに作業する事の 難しさや、日が昇ってからの空襲を避けることを考慮して、海上にいまだ漂う桑乗員からの「竹ぇ!」の声に罪悪感を責められ、後ろ髪を引かれる思いでオルモック湾を 後にしたのである。 途中で傾斜を回復させた竹は、12月4日午後にマニラに帰投した。 宇那木艦長は南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将から賞詞を受け、 さらに差し向かいで夕食を馳走になった。 宇那木艦長は後に、クーパー撃沈の戦いを「オルモック夜戦」と呼ぶ事を提唱した。 また、宇那木艦長が、 収容した便乗者の中に島風や第二水雷戦隊の関係者の名前があることを知ったのは、1968年のことだった。 なお、クーパー撃沈は日本駆逐艦が雷撃によって敵艦を 撃沈した最後となった。 12月5日から14日まで応急修理を行ったが、機関が修復できなかったために船速が上がらず、このことから作戦への再投入を免れた。

 竹は本格的な修理を受けるため12月15日にマニラを出港。 12月18日に高雄に寄港し、次いで12月21日に基隆に寄港。 同日夜、竹は同地からの辰春丸(辰馬汽船) 他2隻の輸送船団を護衛して基隆を出港。 中国大陸沿岸部や朝鮮半島南岸部の島々の間を縫って北上し、1945年1月1日に門司港外に到着した。 翌2日、竹は呉海軍工廠に 回航され、当初の予定では1月末から2月初頭、次いで2月16日に修理完了となって10日程度で出撃準備が整う事になっていたが、予定は延びて3月15日まで修理を行った。  4月16日から26日にかけての工事では、三式探信儀などが装備された。 その間、2月28日から3月18日まで臨時に第三十一戦隊の旗艦を務めた。  4月29日から楓とともに回天との訓練に参加した後、竹は後甲板に回天の発射台を設置する工事を行った。 しかし、戦況悪化によって温存策が取られる事となり、竹は榧、槇と ともに屋代島日見海岸に偽装係留し、最後の出撃の時まで待機することとなった。 樹木と網で偽装した竹はついに攻撃される事なく、8月15日の終戦時には航行可能な状態で 残存した。 竹は僚艦とともに呉に回航されてアメリカ海軍に接収された後、10月25日に除籍された。

 戦後の竹は、行動可能な他の艦船と同様に復員輸送艦として復員輸送に従事し、第1回から第4回の輸送ではポンペイ島と浦賀間を二度往復し、次いでパラオと浦賀間を一往復、サイパン島から同島在住の沖縄県民を沖縄本島まで輸送した。第5回輸送からは上海および葫芦島と日本の間を往復し、中国大陸および旧満州国方面からの復員輸送に従事した。葫芦島からの輸送の際、艦内にコレラ患者が出て病死する引揚者が出たため、防疫のため1ヵ月間隔離された事もあった。復員輸送を終えた後、竹は横須賀に戻り、1947年(昭和22年)7月16日にイギリスに賠償艦として引き渡され解体された。

[同型艦]
・松 , 竹 , 梅 , 桃 , 桑 , 桐 , 杉 , 槇 , 樅 , 樫 , 榧 , 楢 , 桜 , 柳 , 椿 , 檜 , 楓 , 欅
艦 歴
起工 1943年10月15日
進水 1944年3月28日
就役 1944年6月16日
喪失(解体) 1947年7月16日
除籍 1945年10月25日
建造所 横須賀海軍工廠
仕様・諸元
排水量 基準排水量 : 1,262 t
公試排水量 : 1,530 t
全長 100.0 m
全幅 9.35 m
喫水 3.30 m
機関 ロ号艦本式缶2基、艦本式タービン2基2軸
(19,000馬力)
最大速 27.8 ノット
航続距離 3,500海里(18kt航行時)
乗員 211 名
兵装 ・40口径12.7cm単装高角砲 × 1基
・40口径12.7cm連装高角砲 × 2基
・25mm連装機銃 × 4基
・25mm単装機銃 × 12基
・61cm4連装九二式魚雷発射管 × 1基
・九四式爆雷投射機 × 2基