島風(島風型駆逐艦)



 島風(しまかぜ)は、1941年に起工した大日本帝国海軍の一等駆逐艦である。

 日本海軍は水雷決戦を目的とする艦隊型駆逐艦の最高峰を目指し、高速・強雷装の駆逐艦として本型を建造した。  本型の登場まで、日本海軍の駆逐艦の速力は1920年に峯風型駆逐艦の「島風(初代)」が打ち立てた40.698ノットが最高速度であった。 後の駆逐艦は概ね35ノット前後で 設計された。(速いだけでは戦闘に有利にならないため) 軍縮条約の制約から解かれた1937年以降から速力への要求が出初め、1939年には速力40ノットの艦が試験的に 造られることになった。すでに、日本海軍のお家芸、水雷の分野においては、陽炎型駆逐艦が要求水準を満たしていたものの、アメリカ海軍が、駆逐艦の速力向上を目指している という情報もあり、速力をも重視することとなった。 機関としては陽炎型の一艦「天津風」において採用された高温高圧缶の利用が有望視され、これを島風に採用した。  このほか、魚雷装備も優れており、零式5連装水上発射管は本型のために開発されたものである。 初期は7連装2基の案であったが、非常時に人力での展開が不可能である為、 5連装3基となった。 16隻の建造計画があったが、そもそも機関の製作が量産に向かないこと、駆逐艦による水雷戦が想定されなくなったことと、戦局の悪化により建造は 「島風」1隻のみに終わった。

 島風は1943年4月7日の過負荷全力公試で排水量2,894トン、出力79,240馬力において40.90ノットを記録した。 これは魚雷艇を除いた艦艇の最高記録である。  ただしこの時の排水量は通常の公試の際の2/3状態(燃料など消耗品を2/3搭載した状態)でなく、より軽い1/2状態であったとされる。

 島風は1941年8月8日、舞鶴海軍工廠で起工。 1942年7月18日に進水し、1943年5月10日に竣工して一等駆逐艦に類別され、呉鎮守府籍となる。 

 竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入。 瀬戸内海に回航され訓練を受けた後、出撃準備を経て5月21日に柱島泊地を出撃して5月23日に横須賀に到着。  整備の後、輸送任務のため5月27日に出撃し、幌筵島武蔵湾には5月30日に到着する。 任務終了後即日出港し、横須賀経由で6月4日に柱島泊地に帰投した。  瀬戸内海で魚雷の試験発射が予定されたが、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将の要望で北方作戦に投入される事が決まって試験発射は中止となり、出撃準備に取り掛かった。  7月5日に幌筵島に到着。 2日後の7月7日、キスカ島撤退作戦で長波、五月雨、第二十一駆逐隊とともに警戒部隊として出撃。 しかし、キスカ島方面の霧が晴れてきたことで 作戦は中止となり、幌筵島に帰投した。 再挙を期して、第二次作戦は7月22日から開始。 7月26日夕方に発生した多重衝突事故では右側に回避し難を逃れた。  撤退作戦は成功裏に終わり、作戦参加艦船は7月31日に幌筵島に帰投。 8月3日付で北方部隊の指揮下を離れて瀬戸内海に帰投し、修理や訓練、研究試験を行って 次期作戦に備えた。 第二水雷戦隊に編入されたのは7月10日のことだったが、作戦機会はなかなか訪れなかった。9月15日、長波とともに重巡洋艦鳥海、摩耶を護衛して 横須賀を出撃し、トラック諸島に向かう。 翌21日、今度は空母大鷹、冲鷹を護衛してトラックを出港し横須賀に向かうも、9月24日に大鷹がアメリカ潜水艦カブリラ (USS Cabrilla, SS-288) の攻撃により航行不能となったため、爆雷攻撃を行ってカブリラを駆逐。 10月4日には冲鷹を護衛してトラックに再進出。  10月17日からはマーシャル諸島方面に出撃する第三艦隊と第二艦隊の護衛に就いた。トラック帰投後はトラックに出入りするタンカーの護衛任務を行い、 11月5日にはタンカー日栄丸(日東汽船、10,020トン)を護衛してラバウルに進出する。 間もなく、同じ5日に起こったラバウル空襲で損害を受けた第二艦隊中枢を 護衛してラバウルを出港し、11月8日にトラックに帰投した。 11月15日、玉波とともに重巡洋艦高雄、愛宕、空母翔鶴を護衛してトラックを出港し、11月15日に横須賀に帰投。  11月26日に玉波とともに翔鶴を護衛してトラックに向かい、到着後は玉波、早波などとともに再びタンカーの護衛任務を行った。

 1944年に入ると、パラオ、ダバオ方面でもタンカーの護衛を行うようになる。 2月21日、雷とともにタンカー船団を護衛してバリクパパンを出港してダバオに向かうが、 2月25日未明にミンダナオ島サンアウグスティン岬の南南西55キロ地点に差し掛かった所でアメリカ潜水艦ホー (USS Hoe, SS-258) の攻撃を受け、タンカー日章丸(昭和タンカー)が 沈没し、旭東丸(飯野海運)が損傷する被害を受けた。その後は一旦日本本土に戻り、4月21日にリンガ泊地に進出する戦艦大和、重巡洋艦摩耶を雪風、山雲とともに護衛して 瀬戸内海を出撃し、マニラを経由して5月1日に到着した。 5月12日、リンガ泊地を出撃してタウイタウイに進出する。  この頃、ビアク島を巡って攻防が繰り広げられており(ビアク島の戦い)、日本海軍は渾作戦を発動してビアク島救援作戦を展開していたが、過去二度にわたる作戦は目的を 達しえなかった。そこで、大和、武蔵なども投入して上陸船団撃破と機動部隊の誘い出しを図る事となった。 第二水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦能代および駆逐艦沖波、朝雲とともに、 大和を主軸とする攻撃部隊の護衛のためタウイタウイを出撃した。 攻撃部隊は6月12日にハルマヘラ島バチャンに到着し作戦開始を待ったが、6月13日になってサイパン島に 対する艦砲射撃が開始されて戦局が急展開したため、同日夜にバチャンを急遽出撃して小沢中将率いる第一機動艦隊に合流すべく急行した。 6月19日のマリアナ沖海戦を経て、 6月22日に中城湾に立ち寄った後、6月24日に柱島泊地に帰投した。 7月9日、大和、武蔵、第四戦隊など第二艦隊の中枢を護衛して臼杵湾を出撃。 途中、沖縄の第三十二軍に 対する輸送任務を行い、任務終了後はリンガ泊地に直接向かって7月16日に到着。 10月18日、捷一号作戦発動に伴って栗田中将の第二艦隊はリンガ泊地から出動し、 ブルネイ湾で補給の後、10月22日に出撃した。 10月24日からのレイテ沖海戦では第一部隊に属して戦闘に参加する。 10月24日のシブヤン海での空襲により、武蔵が多数の 命中弾を受けて気息奄奄となった。 栗田中将の命を受けて第一部隊から離れて武蔵の援護に赴き、10月23日にパラワン水道でデイス (USS Dace, SS-247) の雷撃で沈没した 武蔵に収容されていた摩耶の乗員のうち562名を収容した後、援護の任務を浜風と代わって第一部隊に復帰した。 海戦の後、ブルネイ湾を経てマニラに進出し、レイテ島行きの 多号作戦に投入される事となった。 11月4日、レイテ沖海戦で沈没した能代に代わって第二水雷戦隊旗艦となり、司令官早川幹夫少将の将旗が翻った。

 多号作戦では、第三次輸送部隊に編入される。 輸送部隊は11月9日未明3時にマニラを出撃。 折しも雨が降っており、しかも雨は3日間降り続くと陸軍気象班は予想していた。  さらに、作戦の掩護のためブルネイ湾から第一遊撃部隊が11月8日にスールー海に向けて出撃してきた。 しかし、日付が11月10日に変わって状況は第三次輸送部隊にとって 徐々に悪い方向に傾く。 午前3時に輸送船せれべす丸(大阪商船)がルソン島ボンドック半島西岸の浅瀬に座礁し戦線を離脱。 また、天気も予想に反して回復の兆しにあった。  11時ごろには偵察のB-24 に発見される。 夜21時、マスバテ島東方のブラックロック水道で第四次輸送部隊とすれ違うが、その際に第四次輸送部隊から長波、朝霜、若月の3隻が 合流して、初春と竹が第四次輸送部隊に合流していった。 11月11日未明、前日のB-24 からの通報を受けた魚雷艇隊の襲撃を受けるが跳ね返す。 しかし、最大の脅威である 第38任務部隊が迫りつつあった。もともとはスールー海を進撃する第一遊撃部隊攻撃のために出てきていたが、第一遊撃部隊が見つからなかった代わりに、 第三次輸送部隊を発見したのである。 第三次輸送部隊は11月11日の正午ごろにオルモック湾に到着する予定であったが、その直前に電探が14,000メートルの距離に航空機の 大群を探知。 早川少将はこれを受けて、輸送船に早急に湾内に突入して揚陸作業を行うよう命令し、駆逐艦には煙幕を張らせた。 第38任務部隊の艦載機347機はオルモック湾に 至る水道内で攻撃を仕掛け、輸送船を片付けてから駆逐艦攻撃に移った。 狭い湾内での戦闘だったが、 その速力と的確な操艦により、爆弾や魚雷の直撃こそ受けなかった。 しかし、多数の至近弾と機銃掃射により船体に多数の小破孔が発生して浸水し航行不能となる。  応急処置班の対応が間に合わないほどの反復攻撃を受け、救援に接近しようとした朝霜も機銃掃射のため接近を断念した。 夕刻17時半ごろ、加熱したボイラーが爆発を起こして 後部から沈んでいった。 早川少将以下第二水雷戦隊司令部と乗員合わせて430名が戦死したが、司令部の参謀2名と駆逐艦長上井宏中佐、機関長上村嵐大尉など合計21名は、 沈没寸前に唯一残ったカッターで艦を脱出し、オルモックに上陸。 のち、12月2日に第七次多号作戦でやってきた竹に収容されて生還した。

 島風型は、陽炎型駆逐艦・夕雲型駆逐艦からなる駆逐隊にも編入されておらず、戦没まで単独で第二水雷戦隊に属していた。

[同型艦]
・なし
艦 歴
起工 1941年8月8日
進水 1942年7月18日
就役 1943年5月10日
喪失(沈没) 1944年11月11日
除籍 1945年1月10日
建造所 舞鶴海軍工廠
仕様・諸元
排水量 基準排水量 : 2,567 t
公試排水量 : 3,048 t
全長 120.5 m
全幅 11.2 m
喫水 4.14 m
機関 ロ号艦本式缶3基、艦本式タービン2基2軸
(75,000馬力)
最大速 40.37 ノット
航続距離 6,000海里(18kt航行時)
乗員 267 名
兵装 ・50口径三年式12.7cm連装砲D型 × 3基
・96式25mm連装機銃 × 2基
・93式13mm連装機銃 × 2基
・零式5連装魚雷発射管 × 3基
・94式爆雷投射機 × 1基