五月雨(白露型駆逐艦)
五月雨(さみだれ)は、日本海軍の駆逐艦。 白露型駆逐艦の6番艦である。
五月雨は、日本海軍が浦賀船渠で1934年(昭和9年)12月から1937年(昭和12年)1月末にかけて建造された。 1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦時、白露型4隻(村雨、五月雨、夕立、春雨)は引続き第2駆逐隊を編成し、第四水雷戦隊(旗艦那珂)に所属。 南方作戦(フィリピン攻略戦、蘭印作戦)に従事する。 同方面作戦従事中、第2駆逐隊は1942年(昭和17年)1月下旬のバリクパパン沖海戦や2月下旬のスラバヤ沖海戦に参加した。 南方作戦成功後、同年5月下旬から6月上旬のミッドウェー作戦における第2駆逐隊は、第二艦隊司令長官近藤信竹中将(旗艦愛宕)指揮下の攻略部隊本隊に所属。 7月、インド洋方面通商破壊作戦(B作戦)のためマレー半島へ進出。8月7日以降、ガダルカナル島の戦いによりトラック泊地へ移動後、戦艦陸奥の護衛部隊として第二次ソロモン海戦に参加した。 9月中旬以降、ガダルカナル島に対する駆逐艦輸送作戦(鼠輸送)に従事した。 10月下旬のガ島突入作戦では空襲を受けた軽巡由良が沈没し、第2駆逐隊は由良乗組員を救助した。 11月中旬、第2駆逐隊および第四水雷戦隊は第三次ソロモン海戦に従事。 同海戦第一夜戦で姉妹艦夕立が沈没し、五月雨は生存者を救助した。 同海戦第二夜戦では戦艦霧島が沈没し、五月雨は僚艦(朝雲、照月)と共に生存者を救助した。 1943年(昭和18年)2月上旬、2隻(朝雲、五月雨)はガダルカナル島撤退作戦に撤収部隊として参加した。 輸送任務や護衛任務に従事したあと、2隻(朝雲、五月雨)は5月下旬より北方部隊に編入され、第一水雷戦隊所属艦や他部隊応援艦と共に7月のキスカ島撤退作戦に従事した。 五月雨が北方作戦従事中の7月1日、所属艦2隻(夕立、村雨)沈没と春雨長期修理のため、第2駆逐隊は解隊される。 第二水雷戦隊附属駆逐艦となった五月雨は、9月よりラバウルに進出し、ニュージョージア島の戦いに参加した。 10月1日附で五月雨は第27駆逐隊に編入され、同駆逐隊は白露型3隻(時雨、五月雨、白露)となる。 五月雨は、姉妹艦時雨等と共に第二次ベララベラ海戦やソロモン諸島各地への輸送作戦に従事した。 11月1日〜2日、第27駆逐隊(時雨、五月雨、白露)は軽巡川内(第三水雷戦隊旗艦)と共にブーゲンビル島沖海戦に参加。 同夜戦で川内は沈没、五月雨は白露と衝突、損傷した。 12月中旬、五月雨は軽巡夕張と共に内地へ帰投、横須賀海軍工廠で修理をおこなう。 この間、春雨が第27駆逐隊に編入され、27駆は白露型4隻(時雨、白露、五月雨、春雨)となった。 1944年(昭和19年)3月10日に修理完成後、五月雨は松輸送(サイパン島増援輸送作戦)に従事。 4月下旬、パラオ方面輸送作戦中に夕張が米潜水艦ブルーギルに撃沈され、駆逐艦夕月と共に夕張生存者を救助した。 5月上旬には竹輸送(豪北方面増援輸送作戦)に従事する。 6月上旬、27駆は渾作戦に従事した。 6月8日の第二次渾作戦では駆逐艦6隻(敷波、浦波、春雨、五月雨、時雨、白露)でビアク島に進撃するが、空襲で春雨が沈没。 続く米艦隊との夜戦で各艦は軽微な被害を受けた。 6月15日に衝突事故で白露が沈み、27駆は2隻(時雨、五月雨)で6月中旬のマリアナ沖海戦に参加、第二航空戦隊を護衛した。 内地帰投後、戦艦大和等を護衛してリンガ泊地に進出した。 27駆(時雨、五月雨)は第十六戦隊と共にフィリピン〜パラオ間輸送任務に従事する。 3隻(鬼怒、時雨、五月雨)で行動中の8月18日、五月雨はパラオ近海のガルワングル環礁で座礁。 行動不能の状態で8月26日に米潜水艦バットフィッシュの魚雷攻撃を受けて船体断裂、放棄されて沈没した。 生存者は駆逐艦竹に収容された。 [同型艦] 白露, 時雨, 村雨, 夕立, 春雨, 五月雨, 海風, 山風, 江風, 涼風 |
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艦 歴 |
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起工 | 1934年12月19日 |
進水 | 1935年7月6日 |
就役 | 1937年1月29日 |
喪失(沈没) | 1944年8月26日 |
除籍 | 1944年10月10日 |
建造所 | 浦賀船渠 |
仕様・諸元 |
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排水量 | 基準排水量 : 1,685 t |
全長 | 111 m |
全幅 | 9.9 m |
喫水 | 3.5 m |
機関 | オール・ギアードタービン2基2軸 (42,000hp) |
最大速 | 34.0ノット |
航続距離 | 4,000海里(18kt航行時) |
乗員 | 226 名 |
兵装 | ・50口径12.7p連装砲 × 2基 ・50口径12.7p単装砲 × 1基 ・40mm単装機銃 × 2基 ・61cm4連装魚雷発射管 2基 ・爆雷投射機 × 2基 |