子日(初春型駆逐艦)



 子日(ふゆづき)は、日本海軍の駆逐艦。 初春型駆逐艦の2番艦である。 日本海軍の艦船名としては1905年(明治38年)竣工の神風型駆逐艦 (初代)子日に続いて2隻目。  戦闘詳報など公式記録で「子の日」「子ノ日」の表記もある。

 浦賀船渠で仮称第60号駆逐艦として1931年(昭和6年)12月15日に起工した。 1932年(昭和7年)8月1日、艦艇類別等級表に初春型駆逐艦が新設され、3隻に初春、子日、若葉の艦名が与えられた。  12月22日に進水。 竣工前の1933年(昭和8年)9月、公試運転中の旋回性能試験で復原性能が著しく低いことが判明した。 このため初春と同じ9月30日に竣工したが、すぐにバルジを増設する工事が行われた。

 太平洋戦争開戦時、第21駆逐隊は第一艦隊と共に内海西部で待機した。 12月21日に小笠原諸島南西海面へ進出、真珠湾攻撃から帰投中の第一航空艦隊などを出迎えた。  1942年(昭和17年)1月、第21駆逐隊は輸送船団を護衛しダバオに入港した。 1月25日、第21駆逐隊がスラウェシ島ケンダリを攻略した第一根拠地部隊(久保九次少将)に増援として合流した際、初春が軽巡長良と衝突して大破した。  子日は若葉と共に初春を護衛してダバオに戻った。

 子日と初霜、若葉、長良は2月19日のバリ島攻略作戦に参加した。 20日朝、バリ島沖海戦を戦った第8駆逐隊(朝潮、大潮、満潮、荒潮)と合流し、輸送船と共にマカッサルまで護衛した。  3月1日、スラバヤ沖海戦に敗れた連合軍艦隊の脱出を阻止するため、子日、若葉、初霜、測量艦筑紫でバリ海峡を警戒した。 米駆逐艦4隻が海峡に突入したが、損傷を与えられず逃走を許した。  南方作戦と蘭印作戦が完了し、子日は内地に帰投した。 4月20日、寺内三郎少佐が艦長に就任。 5月3日と4日、第二十一駆逐隊は四国南方から九州東岸で対潜掃討を行った。

 5月20日、第一水雷戦隊の「阿武隈」、第六駆逐隊、第二十一駆逐隊は北方部隊に編入。 第二十一駆逐隊は「阿武隈」などとともにAQ攻略部隊(AQ:アッツ)としてAL作戦に参加した。 5月22日に「子日」、「若葉」は呉を出航し、5月24日に大湊に到着した。 AQ攻略部隊は5月29日に川内湾を出撃。 6月7日夜にアッツ島ホルツ湾外に到着し、8日には同島のチチャゴフを占領した。  9日「阿武隈」、「子日」、「初霜」はセミチ島の掃海及び基地調査を行った。 10日にAQ攻略部隊の編制は解かれ、「子日」は単独で「富士山丸」の警戒に指定された。  11日に「富士山丸」と合流、以降は同船の護衛に従事した。 20日、第21駆逐隊はアッツ島周辺で水上機を展開する水上機部隊に編入された。  21日、子日はアッツ島で富士山丸から給油中、艦尾方向800mで潜水艦を発見、爆雷で攻撃し、撃沈確実と報告した。 報告を受けた第五艦隊は潜水艦から機密文書を回収したいと考え、子日に現場に戻って沈没位置を特定するよう指示した。  「子日」は7月3日まで調査にあたったが沈没潜水艦は発見されず、その後水上機部隊との合流のためアガッツ島マクドナルド湾へと向かった。  5日午後、視界2キロ以内の濃霧の中を速力9ノットで航海中、同島南端サバック岬沖で米潜水艦トライトン が子日を雷撃した。 12時50分に魚雷1本が右舷中央部に命中、艦体が前後に分かれて沈没した。  寺内艦長等は転覆した船体に登り「子ノ日万歳」を唱えた後、行方不明になったという。 夏でも海水温が低い海域での遭難となり、乗員188名が戦死した。 6日、水上機部隊はキスカ島での作戦をいったん中止し、駆逐艦電を捜索に派遣。 アガッツ島に上陸した生存者を発見、36名を救助した。  子日が撃沈された5日、キスカ島でも米潜水艦グロウラーの攻撃で駆逐艦 霰が沈没、霞と不知火が航行不能になり、北方部隊は増援部隊の帰投を決めた。7月31日、子日は帝国駆逐艦籍から除籍された。

[同型艦]
・初春 , 若葉 , 初霜 , 有明 , 夕暮
艦 歴
起工 1931年12月15日
進水 1932年12月22日
就役 1933年9月30日
喪失(沈没) 1942年7月5日
除籍 1942年7月31日
建造所 浦賀船渠
仕様・諸元
排水量 基準排水量 : 1,400 t
公試排水量 : 1,680 t
全長 109.5 m
全幅 10.0 m
喫水 3.5 m
機関 ロ号艦本式缶3基、艦本式タービン2基2軸
(42,000馬力)
最大速 36.5ノット
航続距離 4,000海里(14kt航行時)
乗員 約200 名
兵装 ・50口径12.7cm連装砲 × 2基
・50口径12.7cm単装砲 × 1基
・毘式四十粍機銃 × 12基
・61cm3連装魚雷発射管 × 3基