信 濃



 信濃(しなの)は、旧日本帝国海軍の航空母艦である。 建造中であった大和型戦艦三番艦を戦局の変化に伴い、戦艦から航空母艦として就航した。 就役後間もなく米軍による雷撃により撃沈され、実働することはなかった。なお、アメリカ海軍の原子力空母エンタープライズが登場するまで史上最大の排水量を持つ空母であった。

 第四次補充計画の中で大和型戦艦建造番号「110号艦」と「111号艦」の計2隻の建造が決定された。この2隻は、先に建造された大和と武蔵不具合を改善するなど、より完成度の高い艦と して建造されることとなった。110号艦は、横須賀海軍工廠第六船渠で建造されることとなり、まずドックの拡張工事が行われ、6年の歳月と約1,700万円(当時)の費用をかけて全長336 メートル・前幅48.5メートル・深さ13.4メートルのドックが完成した。 1940年5月4日、ドックの完成と同時に110号艦の起工式が行われたが、この時行われる神主のお祓いも、機密保持の ため本職ではなく資格を持つ工事関係者が行ったと言う話がある。

 昭和20年初頭の完成を目指し工事が進められている最中、太平洋戦争が勃発。開戦劈頭の真珠湾攻撃とマレー沖海戦の結果、戦艦が航空機に対し脆弱性を露呈したことと、戦時急造艦の 製作などで資材をそちらに使うため、111号艦は建造中止、解体となり、ある程度船体ができていた110号艦はドックから出せる程度まで工事が進められたものの、その後の予定が取り消しと なってしまう。その上、建造資材を損傷艦にまわされるなどして、その工事も延伸となってしまった。

 ミッドウェー海戦の結果、保有正規空母の2/3を失った海軍は、戦時急造空母の建造を決定すると共に、既存艦の空母への改装として、110号艦の空母への改造が決定する。 この改装の初期案では、
@艦直衛用の戦闘機以外の機体を搭載しない。
A飛行甲板に重防御を施す。
との意見が出された。 よく「このコンセプトは大鳳の延長である」との意見があるが、「大鳳」があくまで「既存の空母の弱点である飛行甲板の防御」を主として建造されたのに対し、110号艦はあくまで 「洋上の飛行基地」であることを第一として考えられている。しかしこの案は軍令部側からの反発を招き、2ヶ月近い議論の末、攻撃機を搭載することを艦空本部が了承し建造が1942年6月 再開する。

 飛行甲板は、当初の案では「800Kg爆弾の急降下爆撃に耐えること」となっていたが、甲板の重量増加と製造能力の関係から、500Kg爆弾に変更された。その要求を満たすため、20ミリの 特殊甲板に75ミリのCNC甲板を貼り合わせた計95ミリの装甲板となった。材質及び厚みそのものは大鳳と変わらないが、その装甲は全長256メートル、最大幅40メートルの飛行甲板全てに 張られている。更に大鳳では見送られた、飛行甲板の前部と尾端近くの2ヶ所に設けられていた13m四方のサイズのエレベーターにも同じ厚みの装甲が張られ、その重量は180トンとなった。

 格納庫は、日本空母の殆ど全ての艦が密閉型格納庫なのに対し、攻撃機搭載用の前部2/3は解放型で、戦闘機搭載用の後部は密閉型という特異な形態となっている。前部が開放型なのは、 攻撃を受け火災が発生した際、そこから爆弾や魚雷を投棄するためである。格納庫は一層しか持っていないが、これは、検討当時の110号艦は、艦中央が中甲板付近の工事が進んでいた 状態であり、それより下に格納庫を持たせることができなかったためである。しかし、そのため重心の上昇を抑えることができ、飛行甲板全ての装甲化が可能になったといえる。

 本艦は、大和型戦艦として建造されていたため、空母として十分以上の装甲を持っていた。ただし、水線上の舷側装甲が410ミリから200ミリへと装甲が減らされている。戦艦当時の主砲 弾薬庫は、そのまま空母の高角砲弾・機銃弾・爆弾・魚雷庫として使用され、航空機用燃料庫には、通常使用される25ミリに111号艦の弾薬庫の底部装甲を貼り合わせている。また、 磁気機雷対策として、大和型戦艦の二重底から三重底へと強化されている。

 艦橋は右舷中央部に大型の島型艦橋が設置された。艦橋の後部は煙突であり、外側に傾斜した上方排出の煙突となっていた。

 建造が再開されたのは1942年9月、竣工は1945年2月末の予定とされた。ところが、ガダルカナル島をめぐる戦いから多数の艦艇を喪失し、さらにその後も敗走などにより損失艦が続出。 1943年3月「損傷艦の修理、松型駆逐艦及び潜水艦の建造」を最優先とし、同年8月、110号艦の建造は中止されることとなる。 しかし、その3ヶ月後に発生したマリアナ沖海戦で、翔鶴・大鳳・飛鷹と三隻を失う敗北をし、その後進攻してくるアメリカ軍に対抗するために110号艦が必要との意見があがり始める こととなる。そして同年7月、1944年10月15日までに竣工させよとの命令が下ると共に「軍艦信濃の本籍を横須賀鎮守府とする」との発令が下ることとなり、110号艦は進水を待たずに 航空母艦信濃として艦名が決定することとなる。 余談だが、ほぼ同じ時期に、空母の艦名に山岳名を使用することが決定しているが、信濃「山」などという山岳名は存在しないため、この名称は、戦艦の命名基準である旧国名の信濃国から 採られている事が分かる。

 公試中に局地戦闘機紫電改を改造した艦上型が着艦実験行われ、成功を収めている。それらの結果から、紫電改や彩雲・流星などの洋上基地として活用を期待され、11月28日、残された 艤装や兵装の搭載の実施と、横須賀地区の空襲から逃れるため、呉海軍工廠へ回航すべく出港する事となる。 その間も信濃の内部では建造工事が続けられており、高射砲、機銃はほとんど搭載されておらず、機関も12基ある缶の内8基しか稼働していなかったという。航空機は特攻機の「桜花」を 搭載、輸送していた。当日は天候が悪く、また沿岸部を航行する危険性を考慮し「夜明け前に出航外洋航海」の進路を取った。護衛の駆逐艦は第17駆逐隊の磯風、浜風、雪風の三隻 (この戦隊は、捷一号作戦からの帰投時、浦風とともに日本への回航時に戦艦金剛を護衛していたが、警戒航行の之字運動をしていたにもかかわらず金剛と浦風を潜水艦に沈められている)。既に海軍艦艇の掃海能力より敵艦の静寂能力を上回る状態であり、また、艦乗員の練度不足により見張りも完全とはいえなかった。 11月29日午前3時13分、浜名湖南方176kmにて米ガトー級潜水艦アーチャーフィッシュ(USS Archerfish, SS-311) の雷撃を受け損傷する。さらに未だ工事中だったためにケーブル類で防水 ハッチを閉められず、錬度不足のため右舷半舷注水も怠り、同日午前10時57分、潮岬沖南東48kmの地点で転覆し沈没、信濃の短い生涯は幕を閉じた。これは世界の海軍史上最も短い艦歴 である。

 突貫工事による影響は各所にのぼり、ねじ山が根元まで切られていないボルトや2cmも隙間の空く防水ハッチなど、竣工とは名ばかりの未完成艦であり、艦長の判断以前に沈没が確定 されていたと言ってよい惨状だった。更に、艦搭乗員も内部に精通したものが皆無で満足に応急処置を行えない状況であり。また、アーチャーフィッシュは、空母のような重心の高い艦を 横転させるため、喫水付近を雷撃できるように自艦を浅い深度に設定しており、これも信濃沈没の原因と言える。
艦 歴
発注    
起工 1940年5月4日
進水 1944年10月8日
就役 1944年11月19日
喪失 1944年11月29日
除籍 1945年8月31日
仕様・諸元
排水量 基準排水量:62,000 t
全長 266.1 m
全幅 36.3 m
喫水 10 m
機関 タービン4基4軸, 153,000 hp
最大速 27 ノット
航続距離 7,200 海里
乗員 士官、兵員2,400 名
兵装 ・12.7mm連装高角砲8基16門
・25mm3連装機銃37基
・25mm単装機銃40基
・12cm28連装噴進砲12基
艦載機 47機(常用42機、予備5機)