天城(雲龍型航空母艦)



 天城(あまぎ)は、日本海軍の雲龍型航空母艦の二番艦。艦名は静岡県伊豆半島の中央にある天城山に因む。その名を持つ艦としては2隻目。

 太平洋戦争開戦直前の1941年(昭和16年)、開戦決定により実行を発動した、通称マル急計画により、早急な完成が望まれたために飛龍型空母の図面を流用し、部分的な改正を加えられた仮称艦名「第302号艦」(後の雲龍)が計画され、 ミッドウェー海戦後に決定した改マル5計画により更にその同型艦15隻が計画、本艦は「第5001号艦」として1942年(昭和17年)10月1日、三菱重工業長崎造船所にて起工された。 完成予定は1944年12月の予定で、他艦も含め1943年中期頃までは 工事は比較的順調に進行したが、以後は損傷艦の修理や材料の逼迫、労働者の不足などの困難があったという。 1943年(昭和18年)9月25日に天城と命名され、同年10月15日に進水、翌1944年(昭和19年)8月10日に竣工した。

 竣工と同日に横須賀鎮守府籍、同型艦の雲龍の所属する第3艦隊第1航空戦隊に編入され、同部隊の旗艦となった。 第1航空戦隊は搭載部隊である第601海軍航空隊の再建を待つこととなったが、第601航空隊は台湾沖航空戦と捷号作戦のために 順次抽出されて搭載部隊としては運用されず、既に日本海軍は深刻な燃料や航空機不足となっていたために、補充の航空部隊が用意されないために作戦行動に従事できず、天城は出撃の機会がなかった。同年11月15日に第1航空戦隊は連合艦隊附属 となった。

 1945年(昭和20年)1月1日、第1航空戦隊は第2艦隊に編入され、同年2月には第1航空戦隊司令部が廃止され、天城は第2艦隊司令長官直率となった。 同年3月19日のアメリカ第58任務部隊による呉軍港空襲では爆弾1発が命中し小破。  4月20日、呉鎮守府部隊に編入、横須賀鎮守府予備艦だった本艦は第4予備艦に指定され、以後は呉港外の三ツ子島沿岸にて停泊係留され、飛行甲板上に樹木を並べて島に偽装し、対空浮き砲台として使用された。

 1945年7月24日、天城はアメリカ第38任務部隊による呉軍港空襲において飛行甲板に爆弾2発が命中、甲板を損壊し更に左舷機関室艦底部に浸水が発生した。この時既に天城は予備艦として運用されていたために必要最小限の人員しか配置 されておらず、人員不足で損傷箇所の応急対応がままならないまま、7月28日の第3次空襲により再度爆撃を受け、直撃弾1発、至近弾5発の被害を受けた。 やはり人員不足で損害対応が行えず、これにより浸水が増大、翌29日朝、 左舷側方向に大傾斜し横転した。水深が浅い海域であったために全没はしておらず、船体の殆どは水上に露出した状態ではあったが、復旧は不可能と判断され沈没と判定された。

 1946年(昭和21年)12月5日に播磨造船所呉船渠(旧呉海軍工廠)により解体が開始された、まず左に61度傾いた船体の引き起こしを始めたが、陸岸に近いため35度まで引き起こすのが限度だった。 次に排水を始めたがエレベーター孔など 浸水口が多数あり、飛行甲板も非防水だったので、水中発破で上甲板以上の構造物600トンを撤去、更に100トン浮力タンク12個を設置した。 1時間7,000トンの能力のポンプを計4回使用、 特に4回目は12日連続で使用の上1947年(昭和22年)7月31日、浮揚に成功した。 浮揚した船体はドックで解体され、同年12月11日に完了した。

[同型艦]
・雲龍
・天城
・葛城
・笠置(建造中止)
・阿蘇(建造中止)
・生駒(建造中止)
艦 歴
起工 1942年10月1日
進水 1943年10月15日
竣工 1944年8月10日
喪失(沈没) 1945年7月28日
除籍 1945年11月30日
建造所 三菱長崎造船所
仕様・諸元
排水量 基準排水量:17,480 t
公試排水量:20,450 t
全長 227.35 m
全幅 22.00 m(水線幅)
喫水 7.86 m
機関 ロ号艦本式専焼缶8基 , 艦本式タービン4基4軸
  (152,000hp)
最大速 34.0ノット
航続距離 8,000nm(18kt航行時)
乗員 1,556 名
兵装 ・40口径12.7cm連装高角砲 × 6基
・25mm3連装機銃 × 21基
・25mm単装機銃 × 30挺
・12cm28連装噴進砲 × 6基
搭載機
(常用+補用)
・一七試艦上戦闘機(烈風):18+2機
・一七試艦上偵察機(彩雲):6+0機
・一六試艦上爆撃機(流星):27+0機
合計:51+2機