大和(大和型戦艦)



 大和は、大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の一番艦である。「戦艦大和」と呼ばれることも多い。しばしば大艦巨砲主義の象徴とされる。

 太平洋戦争開戦直後の1941年12月に就役し、やがて連合艦隊旗艦となった。この任は司令部設備に改良が施された同型艦 武蔵が就役(1942年8月)するまで継続された。1945年4月7日、 菊水作戦において米軍機動部隊の猛攻撃を受け、坊ノ岬沖で撃沈された。 当時の日本の最高技術が結集し、特に当時世界最大の46cm主砲3基9門を備えていた。なお、大和建造のための技術・効率的な生産管理は、戦後の日本工業の生産方式のもととなり重要な 意味をなす。艦名「大和」は、もともとは奈良地方(大和国)のみを指す語であったが、使用範囲は拡大し日本全体を指し示す。この巨大艦に日本を象徴する名称が付けられた事から、 海軍の本艦にかける期待の度合いが見て取れる。太平洋戦争末期には海軍の主戦力は船から航空機に移っており、この「航空機」の攻撃には対応出来ず、戦艦としての性能を発揮する場が ほとんど無いまま最期を迎えた「悲劇の軍艦」でもある。

 大和は1937年11月4日、広島県呉市の呉海軍工廠の造船船渠で起工された。その乾ドックは大和建造の為に拡張されて、長さが314m、幅45m、深さ11mとなった。米国に本型を超越する戦艦を 作らせないよう建造は秘密裏に進められ、当初は海軍の中でも一部に知らされているだけだったと言われている。機密保持のため造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の 長さがわからないよう半分に屋根、周囲には干した和棕櫚がかけられた。建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は少ししか知ることが できないようになっていたなど、造船所自体が厳しい機密保持のために軍の管制下におかれ、歩哨が要所を警戒していた。建造ドッグを見下ろす山でも憲兵が警備にあたっていた。 そして1940年8月8日進水、「天皇陛下進水式御臨席」の噂もあったが、結局は海軍大臣代理より、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦はあえて臨席している面々に聞こえないように 小声で「大和」と命名された(軍艦の艦名は海軍省の提出した二つの候補から天皇が選定した一つをその艦に命名するのが慣例)。もっとも、進水といっても、武蔵の様に陸の船台から文字通り 進水させるのではなく、大和の場合はただドックに注水するだけであった。しかも機密保持からその進水式は公表されることもなく、世界一の戦艦の進水式としては非常に寂しいものに 思われたという。1941年12月7日公試終了、同年12月16日就役。また、大和には当時の最新技術が多数使用されていた。球状艦首(バルバス・バウ)による速度の増加、煙突などにおける蜂の 巣状の装甲などである。その他、観測用の望遠鏡や測距儀も非常に巨大なものが採用され、レーダー技術などを除けば日本としては最高の艦艇となるはずだったのである。

 1942年2月12日に連合艦隊旗艦となる。同5月29日、ミッドウェー作戦により柱島泊地を出航したが、主力部隊として後方にいたため海戦の戦闘には参加しなかった。同6月14日柱島に帰投。 以後も、トラック島での長期間の停泊を含めて実戦に不参加だった状況を指して「ヤマトホテル」と揶揄されもした。
 1942年8月17日、ソロモン方面の支援のため柱島を出航。同8月28日、トラック入港。1943年2月11日、連合艦隊旗艦任務を大和の運用経験を踏まえて通信、旗艦設備が改良された大和型2番艦 「武蔵」に移揚。5月8日トラック出航、柱島へ向かう。呉では対空兵器を増強し、再びトラックに向かったのは8月16日。3ヶ月前より戦局は悪化し、ソロモン諸島では激戦が行われていた。 10月中旬マーシャル群島への出撃命令が下る。旗艦武蔵以下、大和、長門などの主力部隊は決戦の覚悟でトラックを出撃するも、4日間米機動部隊を待ち伏せしても敵は来ず、10月26日に トラック島に帰港。
 1943年12月25日、トラック島西方180海里で米潜水艦「スケート」より攻撃を受け、3番砲塔右舷に1本被雷。破口はバルジのみであったにもかかわらず、爆発の衝撃で舷側鋼板の上下の継ぎ目が 内側に押し込まれ、機械室と火薬庫に想定外の浸水被害を受けた。トラックで応急修理を受けた後、内地に帰還し、修理・補強を実施。
 1944年6月15日、マリアナ沖海戦に出撃。機動部隊同士による決戦が繰り広げられる中、米軍攻撃隊に向けて三式弾27発を放った。大和が実戦で主砲を発射したのはこれが最初である。 しかし同じ海戦において、周囲艦艇とともに日本側第一次攻撃隊をアメリカ軍機と誤認し高角砲などで射撃、数機を撃墜するという失態も犯している。
 同10月22日、レイテ沖海戦に参加。第二艦隊第一戦隊として米軍上陸船団の撃破を目指し出撃。23日早朝に旗艦愛宕が潜水艦に撃沈されたため、大和座乗の第一戦隊司令官の宇垣纒中将が 一時指揮を執った。夕方に栗田健男中将が移乗し第二艦隊旗艦となった。24日、シブヤン海で空襲を受け、僚艦武蔵を失う。25日、サマール島沖にて米護衛空母艦隊と交戦、主砲弾を104発 発射したが、戦果については諸説あり、詳細は不明。
 呉に帰港した後の1945年3月19日、呉軍港が空襲を受けた際、敵機と交戦した。呉から徳山沖に退避したため、目立った被害はなかった。
 同年3月28日、「次期作戦」に向け大和(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)は 佐世保への回航を命じられたが、米軍機の空襲が予期されたので回航を中止し、翌日未明、第二艦隊を徳山沖に回航させた。
 3月30日、米軍機によって呉軍港と広島湾が1034個の機雷で埋め尽くされ、呉軍港に帰還するのが困難な状態に陥り、4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領。
 4月6日、「【電令作611号改】(時刻7時51分)沖縄突入を大和と二水戦、矢矧+駆逐艦8隻に改める。出撃時機は第一遊撃部隊指揮官所定を了解。」として、豊後水道出撃の時間は第二艦隊に 一任される。第二艦隊は同日夕刻、天一号作戦(菊水作戦)により山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃する。この作戦は「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ 後昆ニ伝ヘる」為にと神重徳大佐(終戦直後、飛行機事故で水死)の発案が唐突に実施されたものであった。一般には片道分の燃料で特攻したとされるが、燃料タンクの底にあった油や、南号 作戦で必死に持ち帰った重油などをかき集めて3往復半分の燃料を積んでいたともされているが詳細は不明。  4月7日12時32分、鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始した。8分後、艦爆数機が急降下、1機撃墜、中型爆弾2発を被弾。 後部艦橋が跡形もなく破壊された。以後14時17分まで、米軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)による波状攻撃を受けた。 主な被害状況は以下のとおり。

・12時45分 左舷前部に魚雷1本命中。
・13時37分 左舷中央部に魚雷3本命中、副舵が取舵のまま故障(1345中央に復元固定)。
・13時44分 左舷中部に魚雷2本命中。
・14時00分 中型爆弾3発命中。
・14時07分 右舷中央部に魚雷1本命中。
・14時12分 左舷中部、後部に魚雷各1本命中。機械右舷機のみで12ノット。傾斜左舷へ6度。
・14時17分 左舷中部に魚雷1本命中(右舷後部という意見もある)、傾斜増す。
・14時20分 傾斜左舷へ20度、傾斜復旧見込みなし。総員上甲板(総員退去)を発令。

 大和は爆弾の直撃を受け、艦内火災、対空兵器の破壊、魚雷による左舷集中攻撃の結果、後部注排水制御室の破壊により、注排水が困難となり、また副舵が故障し、舵を切った状態で固定され、 直進または左旋回のみしか出来なくなった。とどめとなった攻撃は、空母ヨークタウンからの艦載機による右舷後部への魚雷攻撃で、大和の艦底を攻撃するために、意図的に深度を深く調節された 魚雷が使用された。最後に魚雷が命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増し、3分後に総員退去が命ぜられた。しかし、艦内の大半のものに「総員上甲板」は知られず、総員退去の 発令3分後には大傾斜赤い艦腹があらわになった。その後急に傾斜が激しくなり、横転後に、海面が盛り上がって大爆発したという記載も残っている。横転は14時23分。大爆発を起こして 艦体は2つに分断されて海底に沈んだ。爆発の原因は船体の分断箇所と、脱落した主砲塔の損傷の程度より、2番主砲塔の火薬庫が誘爆したためとされる。爆発は沈没してからという意見と、 沈没前という意見と両方あるが、転覆後という点では一致している。なお戦後の海底調査にて、機関部の艦底にも大きな損傷穴があり、転覆時にボイラーも爆発したという説もあるが、 沈没前に命中した魚雷が傾斜した艦底に命中した穴の可能性も指摘されている。 大和沈没により古村啓蔵少将は一時は作戦続行を図って暗号を組んでいたものの、結局は作戦中止を司令部に 要求し、生存者を救助のうえ帰途についた。

[同型艦]
・武蔵
・110号艦(航空母艦信濃に換装)
・111号艦(未完成)
艦 歴(大 和)
起工 1937年11月4日
進水 1940年8月8日
就役 1941年12月16日
喪失(沈没) 1945年4月7日
除籍 1945年8月31日
建造所 呉海軍工廠
仕様・諸元
排水量 基準排水量:65,000 t
満載排水量:72,809 t
全長 263.0 m
全幅 38.9 m
喫水 10.4 m
機関 ロ号艦本式缶12缶 艦本式タービン4基4軸(153,553馬力)
最大速 27.46ノット
航続距離 7,200海里(13,334km)16ノット航行時
乗員 竣工時:2,500名
最終時:3,332名
兵装(新造時) ・45口径46cm3連装砲塔 × 3
・60口径15.5cm3連装砲塔 × 4
・40口径12.7cm連装高角砲 × 6
・25mm3連装機銃 × 8
・13mm連装機銃 × 2
兵装(最終時) ・45口径46cm3連装砲塔 × 3
・60口径15.5cm3連装砲塔 × 2
・40口径12.7cm連装高角砲 × 12
・25mm3連装機銃 × 52
・25mm単装機銃 × 6
・13mm連装機銃 × 2
装甲 ・舷側 410mm
・甲板 200mm〜230mm
・主砲防盾 650mm
・艦橋500mm
艦載機 6機(カタパルト2基)