山城(扶桑型戦艦)



 山城(やましろ)は、日本海軍の戦艦で、扶桑型戦艦の2番艦である。横須賀海軍工廠で建造された。

 イギリス海軍において、単一口径主砲を中心線上に配置するという斬新な発想の戦艦「ドレッドノート」が誕生すると、世界は一気に弩級戦艦の時代を迎える事となり、その数年後には 早くも超弩級戦艦の時代を迎えた。そのころの日本海軍はこの波に乗り遅れた形となっており、艦隊の旧式化は否めなかった。そこで、明治40年度計画で建造される予定の金剛型巡洋戦艦 の内一隻を技術導入目的に英国に発注する事となった。こうして建造されたのが金剛型巡洋戦艦四隻であるが、この完成時世界最強であった巡洋戦艦も次第に性能面で他国の戦艦に追い 抜かれようとしていた。米国のニューヨーク級戦艦や、英国のクイーン・エリザベス級戦艦が金剛型よりも強力な戦艦として計画されているとの情報ももたらされていた。こうした欧米の 動静は日本海軍にとって大きな問題であり、これに対抗する戦力として建造されたのが「扶桑」型戦艦である。

 「扶桑」型戦艦の設計に当たって、日本海軍ではさまざまな案が検討されたが、結局、排水量30,600トン、速力22.5ノットとしてまとめられた。主砲の搭載に関しては連装、三連装、 四連装などの案も検討されたようだが用兵側の練度の問題と、金剛型との主砲共有との考えを取り入れた結果、2連装6基12門でまとまった。この12門もの主砲を搭載するために重量を 浮かす必要があり、舷側の防御装甲を削るしかなく、結果として防御力不足に陥ってしまった。さらに、当時の日本海軍は日露戦争時の様な近戦思想から抜け出せず、近距離戦重視の 配置をしているため、水平防御力不足が後に露呈する事となる。

 扶桑型戦艦2番艦「山城」は1913年11月20日、横須賀海軍工廠で起工され、1915年11日3日進水、1917年3月31日就役した。完成時は世界最大の戦艦で、また初めて排水量が30,000トンを 越えた戦艦でもあった。 しかし、完成早々に「扶桑」型の二隻はその欠陥を露呈することになる。まず公試運転において、速力が十分に発揮できない事と舵を切るだけで速力が大幅に 低下する事が判明。その後の射撃試験では主砲の爆風が艦全体を覆いつくし、艦橋構造物にダメージを与える事も判明している。通常、主砲は2個を1つとして指揮するが、三番主砲と 四番主砲の間に煙突があるため三番、四番主砲の指揮がとりにくい。その後扶桑型戦艦の改良版の伊勢ではこの結果が、反映されている。これらの欠陥のため、問題が発見されるたびに 改装を行う事となってしまい、大正〜昭和初期にかけて改装に次ぐ改装を繰り返し、艦隊で行動した期間よりもドックで改装を行っていた期間のほうが長いという「艦隊にいる方が 珍しい艦」になってしまった。

 就役から大改装までの間、航空艤装の搭載などの小規模な改装は度々行われてきたが、1930年から1935年にかけて、大改装が行われる事となった。これにより艦橋構造物は大幅に巨大、 複雑化した。各種機器の改正も行われ、機関を換装し速力を24.5ノットまで上昇させる事に成功し、射撃指揮装置の換装と主砲、副砲の抑角増大により砲戦距離が飛躍的に伸びた。また、 この改装の際に新式の九一式徹甲弾が使用可能となった。さらに航行中の水による抵抗の減少を図って艦尾を15m延長した結果出来た艦尾スペースに従来5番砲塔上に搭載されていた射出 装置を移設し、航空機運搬用のレールを設けて水上偵察機及び観測機を3機搭載した。防御装甲の追加工事も行われている。この改装の結果、「扶桑」型の2隻は能力を向上させる事が 出来たが、比較的早期に改装が計画されたためか、他の主力戦艦群と比べるとその装置は旧式で決して満足できるものでは無かったようである。

 太平洋戦争初期〜中期は、「扶桑」型戦艦のほか日本海軍の戦艦のほとんどは内地にあった。「山城」は1942年6月のミッドウェー海戦に主力部隊として出撃するが戦闘には参加しな かった。その後も内地で待機の任務が続いたが、1944年になって戦況が悪化すると「山城」にも出撃命令が下った。作戦はレイテ湾への突入、輸送船団を撃破し上陸部隊を攻撃すべし という無謀な作戦であった。 このような老朽戦艦でさえも戦陣に出さなければならないほど事態は逼迫していたのである。

 西村祥治中将の旗艦となった「山城」は、リンガ泊地から10月22日午後3時に出撃した。 10月24日午前にスールー海でハルゼー指揮の機動部隊の攻撃を受けるが、米機動部隊が 栗田艦隊を発見しそちらの攻撃に向かったため、西村艦隊はそれ以降機動部隊の攻撃を受けず予定通りスリガオ海峡目指して進撃した。 ミンダナオ海を抜けてレイテ沖海戦のスリガオ海峡夜戦において、志摩艦隊に先んじて敵艦艇(戦艦6隻、重巡4隻、駆逐艦26隻、魚雷艇37隻)がひしめくスリガオ海峡に突入した。 24日午後11時にカミギン島の北方で魚雷艇の襲撃を受けたものの反撃。この時被害なし。その後「〇一三〇にレイテ湾突入」と栗田長官に打電。〇二五三にレイテ湾入り口にさしかかった時、 「時雨」から「ディナガット島寄りに敵駆逐艦発見」の報告より照射砲撃。しかし煙幕を張って退避したように見えたが実は大量の魚雷を発射していた。姉妹艦の「扶桑」がアメリカ 海軍駆逐艦が放った魚雷4本を受け右に逸れて戦線離脱、その後「扶桑」は炎々と燃え上がり火薬庫に引火、大爆発を起こして真っ二つに裂けて漂流、その後沈没した。 次に左前方より駆逐艦が現れ魚雷を発射。自隊は次々に被雷した。それでも前進を続け3時51分より「山城」はアメリカ海軍の戦艦と巡洋艦からレーダー射撃を受け、自らも前方に見える 砲火の閃光を目標に応戦した。しかし命中弾と駆逐艦の魚雷攻撃により艦の速度が低下、その後被雷により機関が停止。火薬庫に引火して爆発を起こした。その最後は壮絶であったようで この爆発までの間、前部主砲は砲撃を続けていたのが米軍でも確認されている。この爆発の衝撃は激しく艦橋が前に崩れ落ちるのが確認されている。 その後急速に傾斜し始め篠田艦長は総員退去を命令するが間も無く午前4時19分に右舷へ転覆して艦尾から沈没した。生存者は10名足らずとされている。米軍がこの戦闘に発射した砲弾は 大口径弾300発、中、小口径弾4,000発と言われる。

艦 歴
起工
1913年11月20日
進水
1915年11月3日
就役
1917年3月31日
喪失(沈没)
1944年10月25日
除籍
1945年8月31日
建造所
横須賀海軍工廠
仕様・諸元
  新造時(1917年) 大改装後(1935年) レイテ沖海戦時(1944年)
排水量 基準排水量:32,720 t
常備:39,130 t
基準排水量:33,800 t
公試:43,580 t
 
 
全長 215.80 m 224.94 m
全幅 28.96 m 34.60 m
喫水 9.08 m 9.49 m  
機関 ブラウン・カーチス式直結型タービン
(80,000shp)
艦本式タービン4基4軸
(82,000shp)
最大速 22.5ノット 24.5ノット  
航続距離      
乗員      
兵装 ・四一式35.6cm連装砲 × 6基
・四一式15.2cm単装砲 × 16門
・8cm単装高角砲 × 4門
・53cm魚雷水中発射管 × 6本
・四一式35.6cm連装砲 × 6基
・四一式15.2cm単装砲 × 16門
・12.7cm連装高角砲 × 4基
・40mm連装機銃 × 2基
・13mm4連装機銃 × 4基
・25mm連装機銃 × 8基
・四一式35.6cm連装砲 × 6基
・四一式15.2cm単装砲 × 14門
・12.7cm連装高角砲 × 4基
・25mm3連装機銃 × 8基
・25mm連装機銃 × 17基
・25mm単装機銃 × 34挺
・13mm連装機銃 × 3基
・13mm単装 × 10挺
装甲 ・水線 305mm
・甲板 64mm
・主砲天盾 152mm
・水線 305mm
・甲板 100mm
・主砲天盾 152mm
・縦壁 75mm
 
艦載機 なし 3機(カタパルト1基)