長門(長門型戦艦)



 長門(ながと)は旧長門国を名前の由来に持つ日本海軍の戦艦で、長門型戦艦の1番艦である。

 竣工当時世界最大の41cm主砲と高速な機動力を持つ戦艦で、太平洋戦争開戦時は連合艦隊旗艦として連合艦隊司令長官 山本五十六大将が座乗していた。また第二次世界大戦後に有名になった 戦艦大和が戦中は存在そのものが極秘だったこともあり、戦中と戦後のしばらくまでは長門・陸奥こそが日本海軍を代表する戦艦として、国民から親しまれた。 太平洋戦争中は大和、武蔵に次ぐ主力艦として温存され、終戦まで稼動可能な状態で生き残った唯一の日本戦艦である。

 長門は1917年8月28日に八八艦隊計画の第一号艦として広島県の呉海軍工廠にて起工、1919年11月9日に進水した。竣工は1920年11月15日。建造費は当時の価格で4,390万円に上った。 ワシントン海軍軍縮条約において41cm主砲艦の建造が制限された為、長門と姉妹艦の陸奥、イギリスのネルソン級2隻、アメリカ合衆国のコロラド級3隻を指して世界最強の7隻としてビッグ7と 呼ばれた。

 建造当初は煙突の排煙処理が問題となり、最初は第一煙突にカバーを付けたが、あまり効果はなく、藤本喜久夫造艦大佐によって1924年に陸奥と共に屈曲煙突を採用し、この姿が当時の国民に 親しまれ、一番印象に残る姿となったとされる。尚、この屈曲煙突の採用は、後の日本海軍の巡洋艦の機関建造に影響を与えたとされる。1936年には陸奥と共に大規模改装を行い、ボイラーの 換装と装甲の追加、対空機銃の増設を行っている。外見上は煙突がボイラーの換装に伴い太い一本の物に替わった他、前檣および後部指揮所の形状も大きく変化した。そして、両舷にバルジを 設け、艦尾も延長し、全体的に重厚となり、防御能力が向上したが、反面速力はタービンが換装されず出力は新造時のままであり25ノットに低下した。

 太平洋戦争開戦時、長門は連合艦隊旗艦として姉妹艦の陸奥と共に第一戦隊を形成した。1941年12月2日に「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号無電を打電している。 1942年2月12日に山本大将は大将旗を大和に移し、連合艦隊旗艦は大和となった。1942年6月のミッドウェー海戦では第一戦隊所属として出撃したが、戦闘は行わず、加賀の生存者を収容、帰国 させた。1943年にはカロリン諸島のトラック島を基地とし、姉妹艦陸奥の爆沈時には陸奥乗組員の救出作業も行った。1944年2月のトラック島撤退後はリンガ泊地を基地とする。1944年6月には あ号作戦に参加、19日のマリアナ沖海戦では空母飛鷹と隼鷹の護衛として、第二航空戦隊護衛として空襲を受けるが損害は軽微であった。

 1944年10月には捷一号作戦に参加、10月24日のシブヤン海での戦いでは、14:16にフランクリン(USS Franklin, CV-13) とカボット(USS Cabot, CVL-28) からの攻撃機により二発の爆弾を 受ける。一発は多くの機銃と第一缶室の換気口を破壊、25分間の軸停止となり、もう一発は無線室と酒保付近を破壊し52名が死亡、106名が負傷した。10月25日の06:01にはセント・ロー (USS St. Lo, CVE-63) に砲撃を行うが失敗。06:54に駆逐艦ヒーアマン(USS Heermann, DD-532) が榛名に魚雷を発射。魚雷は榛名を外れ射線上の大和と長門に向かい、大和が回避運動の末 両脇を魚雷に挟まれ、両艦は北方へ約16km回避行動を強いられたが、長門は主砲と副砲の砲撃を米空母に続けて行った。 09:10に栗田中将は砲撃の中止と北方への移動を命じた。10:20に彼は再び南進を命じたが、艦隊への攻撃は激しさを増したため12:36に退却を再び命じる。長門は12:43に二発の爆弾を受けるが 損害は大きくなかった。10月26日の退却後、連合艦隊はアメリカ軍の激しい空襲を受けることとなる。長門はホーネット(USS Hornet, CV-12) 艦載機から4発の爆弾を受け、38名の死者と 105名の負傷者を出した。長門は一日で99発の主砲弾と653発の副砲弾を発射した。

 1944年11月25日、長門は神奈川県横須賀港に到着するが、燃料、物資の不足により外洋に出ることはなく、1945年2月に沿岸防御の任を受け、6月1日には特殊警備艦に艦種変更、副砲及び、 対空兵装が陸上げし、マストや煙突も撤去され、空襲擬装用に迷彩塗装が塗られた。 7月18日に長門はエセックス (USS Essex, CV-9) 、ランドルフ (USS Randolph, CV-15) 、シャングリラ (USS Shangri-la, CV-38) およびベロー・ウッド (USS Beleau Wood, CVL-24) 搭載機からの 攻撃を受け3発の爆弾が命中、艦橋が破壊され艦長の大塚幹少将が戦死し、後任艦長は杉野修一大佐が発令されたが、そのままで終戦を迎えた。

 日本軍の降伏後、1945年8月30日にアメリカ軍に接収される。1946年3月18日にクロスロード作戦(米軍の核実験)に標的艦として参加するためマーシャル諸島のビキニ環礁へ移動する。 艦長はW・J・ホイップル大佐。180名のアメリカ海軍兵が乗り込んだ。すでに長門は外洋への航海がままならない状態であり、あまりの低速のため、移動の途中、小修理のためエニウェトク環礁に 立ち寄っている。 1946年7月1日の第一実験(ABLE、空中爆発)では戦艦ネバダが中心に配置され、長門は爆心予定地から400mのところに置かれた。爆弾は西方600mにずれてしまい、結果爆心地から約1.5kmの 位置となった。 この時長門はほとんど無傷であった。長門と同時に実験標的にされた酒匂は翌日に沈没。 7月25日の第二実験(BAKER、水中爆発)では爆心地から900〜1000mの位置にあり、右舷側に約5度の傾斜を生じた。それでも長門は海上に浮かんでいた。しかし、4日後の7月29日の朝、原爆実験の 関係者が長門のいた海面を見てみると、既に長門の姿は海上にはなかった。7月28日深夜から29日未明にかけての夜間に、艦内への浸水によって誰にも見取られる事なく静かに転覆し沈没したもの と見られる。 長門が二度被爆してなお4日後まで沈まなかったことは、当時の日本では「米艦が次々沈む中、最後まで持ちこたえた」「長門が名艦だった証拠」「日本の造艦技術の優秀性の証明」と 喧伝された。ただし、長門より爆心に近かった大型艦(アーカンソー、サラトガ)はほぼ瞬時に沈み、長門より離れていた大型艦(ペンシルバニア、プリンツ・オイゲン)は沈んでいない。 現在、長門沈没地点はダイビングスポットとしてこの地の貴重な観光資源となっている。沈没状態とはいえ、ビッグ7の中で一応形が残っているのは長門だけである。現状は上下逆さまで 沈没しており、艦橋部分は折れている。

艦 歴(長 門)
起工
1917年8月28日
進水
1919年11月9日
竣工
1920年11月15日
喪失(沈没)
1946年7月29日
建造所
呉海軍工廠
仕様・諸元
  新造時(1920年) 大改装後(1936年) レイテ沖海戦時(1944年)
排水量 基準排水量:32,720 t
常備:33,800 t
基準排水量:39,130 t
公試:43,580 t
 
 
全長 215.80 m 224.94 m
全幅 28.96 m 34.60 m
喫水 9.08 m 9.49 m  
機関 ロ号艦本式専焼缶15基
同混焼缶6基
艦本式タービン4基4軸
(80,000shp)
ロ号艦本式大型4基
同小型6基
艦本式タービン4基4軸
(82,000shp)
最大速 26.5ノット 24.35ノット  
航続距離 5,500海里(16ノット航行時) 8,650海里(16ノット航行時)  
乗員 1,333名 1,368名  
兵装 ・四一式41cm連装砲 × 4
・四一式14cm単装砲 × 20
・8cm単装高角砲 × 4
・三年式機銃 × 3
・53cm水中魚雷発射管 × 4
・53cm水上魚雷発射管 × 4
・四一式41cm連装砲 × 4
・四一式14cm単装砲 × 18
・12.7cm連装高角砲 × 4
・7.7mm機銃 × 3
・40mm連装機銃 × 2
・25mm連装機銃 × 10
(後日40mmに代わって装備)
・四一式41cm連装砲 × 4
・四一式14cm単装砲 × 18
・12.7cm連装高角砲 × 4
・25mm3連装機銃 × 14
・25mm連装機銃 × 10
・25mm単装機銃 × 30
装甲 ・水線 305mm
・甲板 75mm
・主砲前盾 305mm
・主砲天蓋 152mm
・副砲廓152mm
・水線 305mm
・甲板 75mm
・主砲前盾 457mm
・主砲天蓋 250mm
・副砲廓152mm
艦載機 なし 3機(カタパルト1基)